第1話 これ、前世で見たやつです
——過労死って、二回するものなんですかね。
白い光が弾けて、視界が戻った時、私は冷たい石の床に膝をついていた。
頭が痛い。こめかみの奥でズキズキと脈打つこの感覚、覚えがある。三徹明けの朝、デスクに突っ伏した直後の——あの感覚だ。
周囲を見回す。高い天井。色とりどりのステンドグラス。白い法衣をまとった人々が、私を取り囲んで何やらざわめいている。
教会?
いや。
石の床に刻まれた、複雑な紋様が淡く光を放っていた。空気に混じる甘い香——お香か、薬草か。どちらにせよ、日本の匂いではない。
「——聖女召喚の儀、成就いたしました」
正面に立つ男が、朗々と宣言した。
白と金の豪奢な法衣。恰幅のいい体躯に、温かみのある微笑を浮かべた壮年の男性。見るからに「偉い人」の風格がある。
「ようこそ、聖女様。我が名はオルヴァス。この神殿を預かる大神官でございます」
聖女。
召喚。
……ああ、はい。状況は理解しました。
(異世界転生——じゃなくて召喚、か。転生は死後に赤ちゃんからやり直すやつで、召喚はそのまま飛ばされるやつ。……いや、そんな分類してる場合じゃない)
膝が笑っている。立ち上がろうとして、よろめいた。法衣の神官が二人ほど駆け寄ってきたが、私は片手を上げて制した。
大丈夫。立てる。
立てるんだけど——頭の中はぐるぐると回っている。最後の記憶は、終電を逃してタクシーにすら乗る気力がなくて、会社のデスクに突っ伏して。
それで。
……それで、どうなったんだっけ。
答えは、身体が知っていた。もう動かない心臓の記憶が、胸の奥に冷たく残っている。
——死んだんだ、私。
過労で。
「聖女様? お加減が——」
「大丈夫です」
声が自動的に出た。前世で何百回と繰り返したフレーズ。クライアントの前でも上司の前でも、どれだけ体調が悪くても最初に出る言葉。
大丈夫です。
……全然大丈夫じゃないけど。
「それで」
私は息を整えて、正面の大神官を見た。
「契約書を見せてください」
◇
場の空気が、一瞬止まった。
オルヴァスの笑顔が微かに硬くなる。周囲の神官たちが顔を見合わせた。
「……契約書、でございますか」
「はい。召喚っていうのは、つまり雇用ですよね? 私をこちらの世界に呼んで、聖女として働かせる。であれば、労働条件を定めた契約書があるはずです」
沈黙。
いや、あるでしょう普通。前世の広告代理店で叩き込まれた鉄則その一。——契約書を読まずにサインするな。
「……聖女様、これは神聖な召喚の儀でございまして」
「神聖かどうかは存じませんが、私の身柄を拘束して労働を求めるなら、条件の明文化は最低限の手続きかと」
オルヴァスが、困ったように笑った。慈悲深い笑顔。善良な聖職者の顔。——前世の取引先にもいた。こういう顔で無茶な要求を通してくる人。
「もちろんございますとも。形式的なものですが——」
差し出された羊皮紙。魔法で何かの刻印が押されている。改竄防止か。公文書としてはちゃんとしている。
私はその場にしゃがみ込んで、一条ずつ読み始めた。
……聖女の義務。回復魔法による治療の提供。神殿の指示に従い職務を遂行すること。住居の提供。俸給の支払い。
書いてあることは、まあ、そうだろうなという内容。
問題は、書いていないこと。
「オルヴァス猊下」
「はい」
「労働時間の上限が記載されていません」
「……は?」
「休日の規定もありません。健康管理に関する条項も。あと、契約違反があった場合の解除権がこちら側に設定されていないんですが」
オルヴァスの目が、ほんの一瞬だけ細くなった。すぐに笑顔に戻る。
「聖女様、これは慣例に則った——」
「慣例は結構です。追記をお願いします。三点」
私は指を立てた。前世のクライアントミーティングと同じ要領。
「一、聖女の健康管理は神殿側の義務とし、過労による能力低下が認められた場合は休息を保障すること。二、上記に違反した場合、聖女側から契約の解除を申し立てる権利を有すること。三、業務改善のために必要な情報へのアクセス権を聖女に認めること」
場が凍った。
(前の職場で契約書を読まずにサインして、残業代も出ないまま三年間こき使われた私の教訓、今ここで活きてます)
「——前例がございません」
オルヴァスの声から、微かに温度が下がった。
「契約条項を聖女が求めるなど、過去に一度も——」
「契約は双方の合意が原則ではないか」
声は、後方から。
振り返ると、壁際に立っていた男が一歩前に出ていた。
——大きい。
それが最初の印象だった。百九十はあるだろう長身。黒い軍服に似た騎士の制服。短く刈った暗色の髪。切れ長の目は感情を映さず、口元は引き結ばれている。
雪で作った彫像みたいだ、と思った。冷たくて、硬くて、表情がない。
「……騎士団長レオン・ヴァルトシュタインと申します。聖女様の護衛を拝命しております」
事務的な声。事務的な一礼。
オルヴァスが、一瞬だけレオンを見た。その視線に何かが混じったが——すぐに消えた。
「……左様ですな。騎士団長の仰る通り、契約は双方の合意。聖女様のお申し出、承りましょう」
にこりと笑う。あっさりした承諾。
……引いたな。
引いた理由はおそらく二つ。一つはレオンの発言で、この場で拒否すると「大神官が不当な契約を押し付けた」という形になること。もう一つは——
(この人、条項を軽く見ている。「健康管理義務」なんて書いたところでどうせ形だけだと思っている)
いい。
形だけだと思っていてくれていい。
私は羊皮紙に三つの条項が追記されるのを確認し、魔法の刻印が押されるのを見届けた。
◇
「——こちらが治療院です、聖女様」
案内してくれたのは、フィーネという名の神官見習いだった。十七歳。栗色の髪を三つ編みにした少女で、顔色が悪い。目の下に濃い隈がある。
治療院は、広い。
広いのだが——。
人が、溢れていた。
夜明けから並んでいるのだろう。廊下まで続く長い列。泣いている子ども。うめく老人。包帯が赤く染まった男。
「毎日これですか」
「はい。朝から日没まで、途切れることはありません」
「日没後は?」
「……重傷者がいれば、深夜まで」
フィーネの声が小さくなった。
「休日は」
「聖女様に休日はございません。——あ、その、前の聖女様も……」
言葉が途切れた。フィーネが何かを飲み込むように口を閉じる。
「前の聖女様?」
「……いえ、なんでもありません」
その一瞬の沈黙を、私は覚えておくことにした。
治療院を歩きながら、私は数えた。前世の癖だ。待ち人数。平均待ち時間。スタッフの動線。ボトルネック。
(回復魔法の術者が私一人。軽傷も重傷も全部私が診る。トリアージなし。フロー分岐なし。シフトなし。引き継ぎなし)
この構造、知っている。
前世の広告代理店。繁忙期。案件が全部一人のディレクターに集中して、誰も手伝わなくて、進行管理が崩壊して——。
視界の端がちらついた。
終電の車内。白い蛍光灯。揺れる吊り革。デスクに突っ伏した自分の手。動かない指。
「聖女様?」
フィーネの声で、意識が戻った。
「……大丈夫です」
また言った。大丈夫です。前世で最後に言った言葉も、きっとこれだった。
◇
深夜。
初日の業務が終わった時、私の足は自分の体重を支えられなくなっていた。
宿舎への廊下を歩く。壁に手をつきながら。視界が揺れる。回復魔法を使いすぎた。体の奥から何かが抜け落ちていくような感覚。
——前世と同じだ。
隣を、レオンが無言で歩いている。
護衛。そう言われた。影のように寄り添って、一言も発さない。
宿舎の扉が見えた時、足がもつれた。
壁に手をつこうとして——届かない。
視界が傾く。
冷たい、と思った瞬間、目の前に水筒が差し出された。
銀色の、使い込まれた水筒。レオンの大きな手が、それを私の視界の真ん中に突き出している。
「……え」
「飲め」
一言。
受け取った。蓋を開ける。口をつける。
——温かい。
白湯だった。冷水じゃない。熱すぎもしない。弱った体に負担のない、ちょうどいい温度の白湯。
「……ありがとうございます」
「任務だ」
それだけ言って、レオンは視線を逸らした。廊下の先を見ている。顔に何の表情もない。
(無愛想な人だな)
でも、白湯は温かかった。
宿舎の部屋に入る。狭いが、清潔なベッド。小さな机。窓の外は真っ暗だ。
ベッドに倒れ込んで、天井を見上げた。
石造りの天井。蝋燭の灯りが揺れている。
三日目にして悟った。
このままでは、二度目の過労死だ。
——前世では、死んでから気づいた。ああ、休めばよかった、って。逃げればよかった、って。でも気づいた時にはもう心臓が止まっていて、何もかも手遅れだった。
今度は違う。
今度は、死ぬ前に手を打つ。
私はベッドから起き上がり、机に向かった。引き出しから羊皮紙とペンを引っ張り出す。
書く。
業務フロー。トリアージの基準。シフト表の雛形。軽傷者の薬草処方マニュアル。
前世で何百回と書いた進行管理表と同じだ。フォーマットが羊皮紙に変わっただけ。
(定時で帰る。絶対に)
ペンが走る。蝋燭の灯りが揺れる。夜明けまで、まだ少しだけ時間がある。
——明日、この神殿を変える。




