第6話 雨漏りする安宿での夜。確保したのは安心ではなく、ただの『屋根』だ。生存への足場固め
廃棄物処理場での過酷な選別作業を終え、俺は初めての労働の対価――数枚の銀貨を手に入れた。周囲の剥き出しの殺意を『解析』しつつ、俺が次に向かったのはスラムの最深部。
今回の取引は――「屋根」という名の生存機能への投資だ。
追跡者を路地の複雑な地形を利用して撒くのは、造作もないことだった。
むしろ、彼らが騒ぎを起こしてくれたおかげで、現場の監視に一時的な空白が生まれた。俺はその隙を見逃さず、処理場の深層へ再突入し、最初に目をつけていた『本命』――汚泥の底に沈んでいた軍用魔導車のシャフトを回収したのだ。
リスクと引き換えにした、追加労働。その対価を受け取る権利が、今の俺にはある。
俺は背後に突き刺さる視線を無視し、無造作に右手を差し出した。
「……報酬を」
「……ああ。約束通りだ。持っていけ、よそ者が」
泥を噛んだような声と共に、親方の太い指から数枚の硬貨が零れ落ちる。それを俺は空中で受け止めた。
「解析――銀貨三枚、銅貨十二枚。純度は低いが、法定通貨としての機能に問題はない」
掌に感じる、銀貨の重み。
かつての俺なら、部下の報告書を一枚めくる労力にも値しないと考えたであろう端金だ。だが、今の俺はこの冷たい金属の感触を、肺に送り込む酸素と同じくらい切実に求めていた。
「確かに受け取った。……契約終了だ」
「……親方だけでない。周囲の作業員どもの視線も、湿り気を帯び始めている」
効率的に「利益」を抽出する俺の動きは、彼らにとって驚異であり、同時に格好の略奪対象だ。これ以上の長居は無用と判断し、俺はポケットに報酬をねじ込むと、処理場を後にした。
出口の鉄門をくぐると、急速に夜の気配が濃くなる。
「……」
足元を這い回る風が、一段と冷たさを増していた。体温の低下は判断力の低下に直結する。蓄積した疲労レベルは限界に近い。これ以上の野宿は、翌日のパフォーマンス低下という、生存に関わる取り返しのつかないコストを支払うことになる。
「……拠点を確保する。今夜は、屋根と壁という機能に投資すべきだ」
俺は街の深部、さらに澱んだ空気が滞留するスラムの奥へと視線を向けた。
かつてのような、王都のギルド本館にある清潔な自室に戻ることは不可能だ。だが、今の俺にはこの労働の対価がある。
俺は懐にある鉄棘の残骸の感触を確かめた。拠点の簡易防衛線の構築には、まだ材料が足りないが、まずは雨風を凌げる「場所」が必要だ。
奪われるリスクを最小限に抑えつつ、最も効率よく安全を提供してくれる場所。俺は記憶にあるスラムの地図を頼りに、一軒の安宿へと足を向けた。
脳内で進行ステータスが『拠点確保フェーズ』へと移行するのを確認する。足裏に伝わる地面の感触は不快そのものだが、掌に残る銀貨の重みだけが、俺の思考を現実に繋ぎ止めていた。
「……銀貨三枚、銅貨十二枚。このスラムでの購買力に換算すれば、半年は遊んで暮らせるほどの額だ。だが、俺の事業計画においては、たったの三日で消える運転資金に過ぎない。かつての俺なら、使い捨ての筆記具一本すら買わなかった額だな」
この報酬は、俺が「労働者」として社会の底辺に楔を打ち込んだ証明でもある。疲労で軋む膝を、一歩ごとに無理やり駆動させる。
「生存コストは、明日以降、指数関数的に上昇する。今夜のうちに安全な拠点を確保できなければ、この金はただの遺品になるだろう」
俺は暗がりの先に浮かぶ宿の看板を見据え、歩幅を広げた。
見上げた空の色は、鉛を溶かしたような濁った灰色に変貌していた。
「解析――湿度八十七パーセント。降水確率、九十二パーセント。……三十分以内か」
鼻腔を突く湿った土の臭いが、雨の到来を予告している。この環境下での野宿は、体温の劇的な低下と、それによる免疫力の減退を意味する。
俺の四肢は、潤滑油の切れた旧式機械のように不快な軋みを上げていた。一歩踏み出すごとに、脳の深部で警告音が鳴り響く。
「疲労によるパフォーマンスの低下率、十五パーセント……いや、二十は超えているか。今ここで野宿を選択すれば、明日の稼働効率はさらに半減する」
それは生存戦略上、許容できない「負債」だ。
「……効率が悪いな」
吐き捨てた言葉が、冷え込み始めた大気に白く混じる。
銅貨数枚の「宿代」というコストを惜しんで、明日という「元本」を損なうわけにはいかない。俺は懐にある銀貨の冷たさを指先で確認し、その確かな感触で、折れそうな意志を補強した。
スラムの深部は、腐った果実のような甘ったるい死臭と、排泄物の臭気が幾重にも重なり合っていた。俺の視界の端では、『解析』が捉えた無数の熱源がノイズのように明滅している。
「殺意指数、平均四十二。空腹による衝動性が高い個体が多数。……関わるだけ時間の無駄だ」
路地の両脇から突き刺さる澱んだ視線を、俺は事務的な数値として処理していく。狙うべきは「清潔な場所」ではない。「略奪する価値すら感じさせないほど崩壊した場所」だ。
目の前に現れたのは、外装の煉瓦が剥落し、支えの柱が飴細工のように歪んだ一軒の安宿だった。看板の文字は判別不能。だが、そのみすぼらしさこそが、今の俺には「安全」という名の迷彩に見える。懐にある鉄棘の残骸が、不規則な歩行に合わせて重苦しく揺れた。
「コスト、銅貨二枚。リスク、想定内。……ここだな」
俺は報酬の銀貨を指で押さえ、泥濘に沈む足を引き抜くようにして、その暗い入り口へと踏み込んだ。
扉の奥は、重油と安酒が混ざり合ったような粘り気のある沈黙が支配していた。
カウンターの向こう側、煤けたランプの光に照らされて、岩のように動かない影がある。「宿の主」だ。
「一晩だ。いくらだ」
俺の問いに、主は濁った瞳をゆっくりと動かし、俺の全身を品定めするように舐めた。
「……銅貨三枚だ。二階の端、空いてるぜ。朝の粥付きだ」
解析――心拍数安定。嘘の兆候はなし。だが、衛生状態は劣悪、防犯機能は皆無に等しい。
「屋根に穴は開いていないか。それと、部屋に内側からかけられる鍵はあるか」
俺が求めているのは、安らぎという情緒ではない。体温を維持できる「屋根」と、睡眠を中断されない「障壁」という物理機能の担保だ。
「内鍵は生きてるが、破られねえ保証はねえな」
「理解した。そのリスク分を差し引いても、外で野宿するよりはマシだ」
俺は無造作に銅貨三枚をカウンターに置いた。今の俺にとって、この三枚は生命維持のための投資、その一環でしかない。
俺はさらに銀貨の一枚を並べ、店主に冷徹な視線を投げた。
「……十日分だ。釣りはいらない。その代わり、俺の部屋には誰も近づけるな。何人たりともだ」
店主の目が、欲望と困惑の混じった色に濁る。労働の対価として得たばかりのこの銀片は、かつての俺にとっては塵のような価値しかなかった。だが、今の俺にはこれが生存の権利証そのものだ。
「……へっ、わかったよ。客人は神様だ。邪魔はさせねえ」
汚れた指先が、蜘蛛のような素早さで銀貨を奪い去る。引き換えに投げ出されたのは、煤けた鉄の鍵だった。
「解析――材質、軟鉄。損耗率、十二パーセント。……最低限の遮断機能は果たせるな」
指先に伝わる鍵の冷たさを、俺は「屋根」という名の防壁の感触として処理する。このコストは、明日というリソースを確保するための、極めて合理的な支出だ。感情的な満足感はない。ただ、暗闇の中に一歩ずつ陣地を固めていくような、微かな手応えだけが思考の端に残った。俺は鍵を握りしめ、埃の舞う階段へと足を向けた。
ギシギシと悲鳴を上げる木階段を上り、指定された二階の最奥へと向かう。
扉を開けた瞬間に鼻を突いたのは、発酵し始めた「湿った藁」の重苦しい異臭だった。
[ 解析:室温14℃ / 湿度62% ]
[ 状態:不快(指数高) ]
薄い木壁を透過して、湿った肺が鳴らす喘鳴と、粘りつくような鼾が耳腔を打つ。
「解析――周辺熱源、四。個体A、睡眠深度4。個体B、不規則な呼吸……アルコール摂取による中枢神経の抑制か。脅威度は極めて低い」
俺は歪んだ床を軋ませ、藁の詰まった粗末な寝床に腰を下ろした。
俺は外套の内側に隠し持っていた鉄棘の残骸を取り出した。
それを、歪んだ扉の取っ手と、唯一の明かり取りである窓枠の隙間に静かに張り巡らせる。
[ 解析:引張強度 -36%(低下) ]
[ 機能:警報システム / 状態:稼働 ]
「警報器の設置完了。物理的な障壁はないに等しいが、情報の取得漏れは防げる。これで、ようやく脳の稼働を最小限に抑えられる」
俺は腐りかけた藁の上に身を投げ出し、意識の深度を落としていく。だが、深い眠りに落ちる寸前、不規則なリズムが鼓膜を叩いた。
天井から滴り落ちる液体の音が、腐朽した静寂に等間隔の穴を穿っていた。
「解析――周期三・二秒。重力加速度による位置エネルギーの変換。……ただの雨漏りか」
俺は鉛のように重い瞼を無理やり押し上げ、闇の中に広がる小さな水溜まりを睨んだ。
泥濘の路地で冷たい雨に打たれ、体温を奪われながら略奪者の影に怯えるよりは、この悪臭漂う「箱」の方が機能的には優れている。
「解析――外部との隔絶、八十パーセント。生存確率は野宿と比較して四倍以上に向上」
ふと、意識の端をかつての自室がかすめた。王都ギルド本館。
あそこの空調は恒常的な魔力制御によって、不快指数をゼロに保つことが義務付けられていた。……今の俺には、それらすべてが処理を阻害する冗長なゴミデータに過ぎない。
[ 解析:日次スケジュール読込中... ]
[ 目標:04:00 起床 / 利益目標:銅貨8枚以上 ]
銀貨三枚と銅貨数枚。かつてのレンにとってはゴミのような端金も、今の状況下では生命維持に直結する重みを持っています。劣悪な安宿への宿泊を「休息」ではなく、翌日のパフォーマンス低下を防ぐための「コスト支出」と捉えるのが、彼の冷徹な合理性です。湿った藁の上での浅い眠り、その先にあるのは安らぎか、あるいは新たな負債か。




