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第3話 泥水が極上の清水へ。飢えを凌ぐための等価交換。これが俺の、最初の商売だ

前回、スキルの試行錯誤によって指に深い火傷を負ったレン。退路のない荒野で、渇きと飢えが彼の冷徹な論理を侵食し始める。目の前にあるのは、魔力に汚染された泥水の溜まり場。さて、今回の取引は――死地での生存を懸けた、価値の再定義。

暗がりの奥から、主がその姿を現した。痩せこけた体に、不釣り合いなほど鋭い牙。汚泥と腐臭を纏った、スラムの野犬だ。


だが、その眼光は明らかに俺を「獲物」として品定めしていた。俺はナイフを構えることもなく、ただ静かに、射殺すような視線で殺意を返し続ける。「俺を襲っても、コストに見合う利益カロリーはない」と告げるように。


数秒の交錯。やがて野犬は鼻を鳴らし、興味を失ったように踵を返した。


「……利益メリットが見合わないと判断したか。賢明な獣だ」


睨み据えた視線の先、黄金色の瞳は闇の奥へと完全に消えた。

俺は一息つき、重い足を引きずり、一歩、さらに一歩と荒野の深部へ踏み込んだ。膝の関節が軋み、肺が焼けるような乾燥に悲鳴を上げている。


「……計算外だな。疲労蓄積が想定より三割は早い」


意識の端で、現状を冷徹に査定する。現在地、王都外縁より南西。疲労レベル三。

右手の指先には、先ほどの実験失敗で負った火傷の痛みが、脈動に合わせて鈍く疼き続けていた。


休息地を求め、突き出した岩が影を作る窪みに身体を滑り込ませる。

ふと、遠方の地平線に、揺れる小さな灯火が見えた。夜の荒野を移動する行商人の馬車だ。


「……客が来たか。まずは、明日の食料を買い付けるとするか」


懐のナイフと、眼下に見える「商品トレードのみこみ」の価値を算出しながら、俺は音もなく立ち上がった。立ち上がった拍子に、膝が僅かに折れる。


「……血圧低下。極度の脱水による、循環機能の不全か」


俺は岩壁に背を預け、数秒の「調整時間」を自分に課した。指先の火傷は、先ほどの取引によって疼きこそ引いたが、皮膚は赤黒く変色したままだ。代償として支払った苦痛の残滓が、神経の端々で小さな警報を鳴らし続けている。

地平線の灯火が、ゆっくりと横に流れていく。商人の隊列だ。

この荒野を抜ける商隊は、例外なく武装している。ただの浮浪者として不用意に近づけば、交渉のテーブルに着く前に射殺されるのが関の山だろう。

喉が鳴った。胃の腑は空だ。

痛む指を丸め込み、俺は「商談」の場へと向けて、重い足取りを刻み始めた。


一歩踏み出すごとに、視覚情報の処理にラグが生じる。


「……思考の同期が遅れているな。深刻なグリコーゲンの枯渇、および電解質バランスの崩壊か」


俺は歩みを止めず、脳内の帳簿を冷徹に更新した。懐に残った乾パンは、もはや湿気た欠片が三つ。一食分どころか、胃袋の壁を撫でることすら叶わない残滓だ。

現在の疲労レベルは三。それは「休息を要する」などという生温い段階ではなく、生命維持装置が過負荷で悲鳴を上げている状態を指す。


「……このペースでの熱量消費を続ければ、代謝が停止し、夜明けを待たずに心機能が沈黙する確率は九割を超える。明日の朝、俺という個体がこの荒野の塵に還っていない保証は、どこにもない」


乾燥しきった唇が割れ、滲んだ鉄の味が口内に広がる。

論理が導き出す答えは常に残酷で、一点に収束していた。現在のリソースでは、明日の朝を迎えるという「取引」は成立しない。

生存という名の「利益」を確定させるためには、あの遠方の灯火から何としても物資を勝ち取るしかない。俺は機能不全を起こし始めた足に、無理矢理次の歩法を命じた。


岩陰を離れ、さらに歩みを進めるにつれ、周囲の風景はより一層凄惨さを増していった。荒野の亀裂のあちこちに、月光を不吉に撥ね返す**泥水の水たまり**が点在している。


「……汚染の密度が上がっているな。王都の排泄物が滞留する、文字通りの『吹き溜まり』か」


普通なら、ここはただの死地だ。立ち入るだけで魔力中毒を招く「毒の海」を前に、多くの人間は絶望し、立ち止まるだろう。だが、今の俺の目には、この忌まわしい銀色の光沢は、死神が残した不渡り手形などには見えなかった。

それは『等価交換エクイバレント』というフィルターを通すことで、命を繋ぐ清水にも、あるいは対価を毟り取るための商品にも変貌し得る「無限の資本」だ。


「……絶望を資源リソースとして再定義する。……商売の基本だろ?」


右手の火傷が、自戒を促すように疼く。俺は喉の奥で冷たく笑い、泥濘に足を取られぬよう慎重に、しかし確実な足取りで、遠方の灯火が示す「市場」へと距離を詰め始めた。


立ち止まり、足元の新たな泥濘を凝視する。


解析アナライズ


網膜に走る無機質な走査線が、泥水の成分を冷酷に暴き出す。

[ 対象:汚染水 / 水分率 42% ]

[ 毒性:致死性重金属・魔力毒 ]


「……最悪の不良債権だ」


先ほどの失敗――物質の「形状」を無理に固定しようとする愚は二度と繰り返さない。このスキルは創造ではなく、あくまで価値の移譲だ。この水を「飲用可能な清流」というプラスに転換するためには、それに見合うマイナスを帳簿に刻まねばならない。


算出すべきは、毒素という「負債」を相殺するための通貨だ。


「……空腹による眩暈か、それとも指先の神経を焼くこの火傷の疼きか。……いや、今の俺に払える最も安価な対価は、この蓄積した『疲労』そのものか」


俺は自身の代謝系に冷徹な監査の目を向け、生存の帳尻を合わせるための最適解を演算し始めた。疲労を加速させる代わりに、泥の不純物を無価値な砂利へと置換する。そのレートは、俺の寿命を数分削ることに等しい。


だが、死に金を持ったまま野垂れ死ぬ趣味はない。俺は泥濘に手をかざし、計算通りの「取引」を確定させた。


等価交換エクイバレント


俺は右手の火傷が放つ「激痛」と、喉を焼く「渇き」を代価に、不足分を「生命の価値」から前払いした。泥濘が内側から沸騰し、毒素が砂利へと剥離・沈殿する。代わりに現れたのは、月光を透かすほどに澄んだ水だ。代償を支払った指先は冷たく麻痺し、感覚が消え失せる。だが、この透明な「資本」こそが、死地を脱するための唯一の鍵となる。


俺は震える手で、精製されたばかりの水を掬い上げた。掌から伝わる冷気が、感覚の消えかかった指先を僅かに刺激する。


「……ふ、っ」


一口飲み込むごとに、熱を持っていた喉の粘膜が潤いを取り戻していく。泥の臭みは微塵もなく、無機質なまでの透明感が胃の腑へと落ちた。


[ リソース補填確認:完了 ]

[ バイタル:心拍・血圧 正常値へ復帰 ]


俺は防水布を丁寧に畳み、残った清水を慎重に懐へ収めた。岩陰を縫うように移動し、商隊の進路を遮る巨大な堆積岩の背後へ滑り込む。


「止まれ。取引トレードの申し入れだ」


暗闇から声を投げると、乾いた空気の中に金属の擦れる音が響いた。


「何奴だ!」


男の鋭い怒声と共に、三本のクロスボウが俺の潜む岩の影を射貫く。

俺は両手を上げ、手の内にある防水布を強調しながら、ゆっくりと姿を現した。


「賊なら、正面から声をかけたりはしない……投げるぞ」


俺は無造作に、清水を満たした防水布を地面へ放り投げた。


受け取った商人の表情が、中身を確認した瞬間に一変する。疑念が驚愕へ、そして剥き出しの渇望へと上書きされる。短い交渉の末に差し出されたのは、小石ほどに硬い黒パンの塊だった。


岩陰に背を預け、俺はそれを無造作に噛み砕いた。


顎を鳴らして黒パンを胃に流し込むと、僅かな熱量が全身へ波及した。だが、ここは安眠を許す揺り籠ではない。

俺は周囲の瓦礫から鉄棘の残骸をいくつか拾い上げ、岩陰の入り口付近へと慎重に配置した。それはかつて境界を仕切っていた防護柵の成れの果てだ。


泥水を清水に変える。それは奇跡ではなく、自身の火傷や生命の危機という『負債』を代価にした、極めてシビアな商取引です。スキルの本質が所有者の主観的な価値の重みに依存すると確信したレンにとって、この荒野はもはや単なる死地ではありません。

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