第2話 実験と挫折。石ころはパンに変わらない――『価値』の定義を間違えた商人見習いの手痛い勉強料
王都を追放され、荒野へと捨てられた元・天才商人レン。手元に残されたのは、僅かな「自由財産」と、未知のスキル「等価交換」のみ。極限の飢えと寒さの中、彼は生き残るための「最初の取引」を開始します。さて、今回の対価は――石ころと、己の命です。
踏み出した右足が、ねっとりとした濁った汚泥に沈み込む。腐敗臭が鼻腔を突き、肺の奥を重く沈ませるが、それを不快だと断じる余裕は今の俺にはない。
視界の隅で明滅するシステムアラートが、生命維持コストの増大を無機質に告げている。だが、そんなノイズに意識を割く余裕はない。今の俺に必要なのは、現実的な資産の棚卸しだ。
胃の奥を常に焼くような、鋭利な「空腹感」。生物的な死への無慈悲なカウントダウン。
手元に残された資産は、保存用乾パンが三つと、銀の小片。そして、錆びかけたナイフが一振り。
「……まずは、正確な座標の把握。そして、このガラクタじみたスキルの実用性を検証する」
俺は腰を落とし、泥を纏った「石ころ」を一つ、泥濘の中から拾い上げる。どこにでもある、不純物が混じった岩の破片。俺は掌の上のその物体に意識を集中させ、網膜の裏にある演算システムへアクセスした。
「解析」
網膜に投影された羅列が無慈悲な事実を告げる。
[ 対象:石塊 / 純度:低 ]
[ 市場価値:0 ]
無慈悲な、そしてあまりに正確な鑑定結果だ。市場原理から切り捨てられた、このスラムの処理場そのものを体現するような数値。だが、俺が持つもう一つの力――『等価交換』が、この無価値な物体をどう定義するかで、俺の生存戦略は根本から変わる。
「……負債が零の時……ギルドの破産処理によって、俺の債務は帳簿上、一銭の残りもなく強制的に『ゼロ』へと清算されたはずだ。もし、このスキルの起動条件が法的、あるいは形式的な取引上の『ゼロ』を指すのであれば、今はその門が開いているはずだが……」
俺は仮説を検証すべく、右手の紋章に意識を強く収束させた。
「等価交換」
石を握りしめ、指先から微かな魔力を流し込む。脳内の天秤に、無価値な石と、一切れの新しい乾パンを乗せたイメージ。石が微かに発熱し、指先にじりじりと焼けるような不快な感触が走る。
だが、直後に返ってきたのは、俺の甘い試算を嘲笑うかのような鋭い「拒絶」の感触だった。天秤は均衡を保つどころか、接続を無機質に遮断する。スキルの出力口が強固にロックされたまま、行き場を失った魔力が石の内部で暴発した。
「――ッ!」
バヂガッ、という破裂音と共に石が砕け散る。同時に、指先に焼き鏝を押し当てられたような激痛が走った。
石はパンに変わるどころか、熱を失ったただの礫に戻っていた。だが、無謀な取引の代償は刻まれた。俺の右手の指先は、暴発した熱量によって赤黒く焼け焦げ、燻るような痛みを訴えている。
[ エラー:取引失敗 ]
[ 原因:概念的不適合 ]
「……ダメか。法的倒産による債務消滅は、『ゼロ』とは見なされないらしいな」
網膜の端を流れるエラーコードを読み解く。
「……概念的等価性の欠如。いや、それ以前に『信用ベース』の問題だ。ギルドの会計システムがそうであるように、このスキルにも『例外条項』があるはずだ。負債者が一切の取引を禁じられるなら、再興の機会すら与えられない。だが、現実の商売では倒産した者にも『残余資産の処分』だけは認められる。石は無価値だ。無から有を生む投資には、今の俺のクレジットは到底足りない。だが、銀はどうだ?」
銀の小片。商人であった頃の俺が最も信頼し、扱ってきた実物資産だ。これなら、資産を別の形に変えるだけの『処分』として、凍結された口座から引き出せる可能性がある。俺は銀を掌の窪みに置き、意識をその原子結合へと深く潜り込ませた。目的は暖房。この金属が持つ「富」という概念を、「熱量」という物理事象へ力技で置換する試行。
「『等価交換』――再定義」
銀の表面が微かな青白い燐光を放ち、凍てついた指先の皮膚に、じりじりと焼けるような微かな熱が伝わり始めた。金属特有の冷たさが、意志の力によって物理的な温度へと、無理やり書き換えられていく。成功だ。だが、ログを追うと、そこには物理的な質量保存則だけでは説明のつかない、莫大な「概念的摩擦」が生じていた。
「……やはり単なる物質変換じゃない。このスキルは、俺が負債者であるという『社会的低信用』を、変換レートの減衰係数として容赦なく適用してやがる。九割以上のエネルギーが、正体不明の『手数料』として世界に没収されている計算だ」
指先に灯った微かな熱は、荒野の剃刀のような冷気に抗う間もなく、一瞬で霧散した。
「……利回りが低すぎる。市場価値を物理事象に置換する際、ほとんどが世界に吸い取られている。商人としての本能が、この非効率な取引に警鐘を鳴らしているが……」
ステータスログの隅で明滅する『疲労度:2』の表示が、生存限界の接近を冷徹に告げていた。
「……このスキルの演算ロジックにある『ズレ』の正体を突き止めない限り、俺はどれほど資本を積んでも、この荒野という市場で再び破産する」
冷たい指先で空腹の腹をさすりながら、レンは懐を探り、最後から二番目の『保存用乾パン』の端を、親指の爪ほどの大きさだけ慎重に折り取った。口に含んだそれは、砂混じりの粘土を噛み砕いているような不快感だけを舌の上に残す。だが、その微かな熱量こそが、今の俺の生存を担保する唯一の資本だ。
暗闇の深淵から、こちらを品定めするように冷たく光る、黄金色の瞳が現れた。
「……一晩だ。このパンが尽きるまでに、俺はこの世界の『価値の定義』を解き明かす。そうでなければ、明日の夜を待たずに俺という個体は、この市場(世界)から永久にリジェクトされることになる」
乾パンの欠片が喉を落ちた直後、暗闇の奥の黄金色が一つではないと気づいた。複数。距離、縮小。呼吸音、意図的に消している。俺はナイフを抜き、右手の紋章に意識を寄せる――が、発動の気配は薄い。
ファンタジーにおける「変換スキル」をあえて物理法則ではなく経済的な「交換効率」や「手数料」の観点から描きました。レンが負った指先の火傷は、間違った取引に対する世界からの冷酷な『違約金』です。この絶望的な利回りをどう改善していくのか、商人の戦いはまだ始まったばかりです。




