第2話: 最初の一歩
開店初日。
朝日が裏路地に差し込む頃、俺はすでに店の中にいた。
『エリュシオン』の看板が、朝の光を浴びて輝いている。まだ塗りたての文字だ。自分で書いたにしては、なかなか上手く書けたと思う。
「......さて」
俺は深呼吸をして、店の扉を開けた。
開店の札を掛ける。カラン、と小さな鐘が鳴った。この鐘も、昨日市場で見つけたものだ。
店内には、焼きたてのパンの香りが漂っている。今朝、俺が作ったものだ。『神聖料理』スキルで焼いたパンは、普通のパンとは香りが違う。もっと深く、もっと温かい香りがする。
テーブルは綺麗に磨いた。椅子も全て点検済みだ。カウンターには、丁寧に淹れたコーヒーの準備ができている。
完璧だ。
あとは——お客さんが来るのを、待つだけ。
一時間が過ぎた。
誰も来ない。
二時間が過ぎた。
やはり、誰も来ない。
裏路地だからだろうか。それとも、新しい店だから警戒されているのだろうか。
俺はカウンターに座って、窓の外を眺めた。時折、人が通り過ぎる。でも、誰も店を見ようともしない。
「......まあ、初日だしな」
自分に言い聞かせる。焦る必要はない。ゆっくりと、少しずつでいい。
三時間目。
ついに、変化があった。
扉が開いて、一人の男が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
俺は笑顔で迎えた。
男は四十代くらいだろうか。作業着を着ていて、近くで働いている職人のように見える。少し疲れた顔をしていた。
「......ここ、新しい店か?」
「はい、今日が開店初日です」
「そうか。じゃあ、コーヒーを一杯もらえるか」
「かしこまりました」
俺は厨房に戻って、丁寧にコーヒーを淹れた。『神聖料理』スキルを使う。豆の香りが一層引き立ち、深い色合いになっていく。
「お待たせしました」
カップを男の前に置く。
男は一口飲んで——目を見開いた。
「......これは」
「いかがですか?」
「うまい。いや、うまいなんてもんじゃない。こんなコーヒー、初めて飲んだ」
男は驚いた様子で、もう一口、もう一口と飲み続けた。そして、カップが空になると、満足そうに息をついた。
「あんた、料理人か?」
「ええ、一応」
「一応じゃない。本物だ。このコーヒーを飲んだら、疲れが全部吹っ飛んだ。体が軽くなった気がする」
それが、『神聖料理』の効果だ。HP回復、MP回復、疲労回復。俺のスキルには、そういった力がある。
「ありがとうございます」
男は銅貨を五枚置いて、店を出ていった。その背中は、さっきよりもずっと軽やかだった。
「......よし」
俺は小さくガッツポーズをした。
最初のお客さんだ。たった一人だけど、それでも嬉しかった。
その日は、結局三人のお客さんが来た。
二人目は若い女性で、サンドイッチを注文した。一口食べて、涙を流しながら「美味しい」と言ってくれた。
三人目は老人で、スープを頼んだ。飲み終わった後、「長年悩んでいた膝の痛みが和らいだ」と驚いていた。
三人だけ。
でも、三人全員が笑顔で帰っていった。
それだけで、俺は満足だった。
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二日目、三日目と、少しずつお客さんが増えていった。
口コミで広がっているのだろう。裏路地の小さなカフェに、人々が訪れるようになった。
「ここのコーヒーは本当に美味しい」
「疲れが取れるんだ」
「また来たいな」
そんな声を聞くたびに、俺の心は温かくなった。
これでいいんだ。
俺は、戦士じゃない。勇者でもない。
でも、料理で人を笑顔にすることはできる。
それが、俺の戦い方だ。
一週間が過ぎた頃。
ある日の午後、俺は店のテーブルを拭いていた。今日は昼の営業が終わって、一息ついたところだ。
そのとき——。
扉が開いた。
カラン。
鐘の音が響く。
「いらっしゃいませ」
俺は顔を上げた。
そして——息を呑んだ。
店に入ってきたのは、一人の女性だった。
深いフードを被っていて、顔ははっきりと見えない。でも、そのシルエットだけで、彼女が尋常ではない美しさを持っていることがわかった。
白い衣装。長い金髪がフードから覗いている。そして、何より——彼女の周りに漂う、神聖な雰囲気。
この人は、普通の人じゃない。
「あの......」
女性は少し戸惑ったように、店の中を見回した。
「ここは、カフェですか?」
その声は、鈴を転がすように綺麗だった。
「はい、カフェ『エリュシオン』です。どうぞ、お座りください」
俺は笑顔で答えた。
女性は少し考えてから、一番奥のテーブルに座った。人目を避けたいのだろう。フードを深く被ったまま、メニューを見ている。
「おすすめは何ですか?」
「今日は、ミルクティーとショートケーキがおすすめです」
「では、それをお願いします」
「かしこまりました」
俺は厨房に戻って、丁寧にミルクティーを淹れ始めた。茶葉を選び、お湯の温度を調整し、ミルクを温める。
そして——『神聖料理』スキルを発動する。
レベル99の力が、俺の手に宿る。ミルクティーが淡く輝き、香りが一層豊かになる。
ショートケーキも、今朝焼いたものだ。スポンジは柔らかく、クリームは甘すぎず、苺は新鮮だ。これにも、スキルの力が込められている。
「お待たせしました」
トレイを運んで、女性の前に置く。
「ありがとうございます」
女性は、ゆっくりとフードを少しだけずらして、ミルクティーを一口飲んだ。
その瞬間——。
彼女の体が、微かに震えた。
「......これは」
声が、わずかに震えている。
「いかがですか?」
「......美味しい、です」
女性はもう一口、もう一口と、丁寧にミルクティーを飲んだ。そして、ショートケーキをフォークで切って、口に運ぶ。
彼女の動きが止まった。
数秒の沈黙。
そして——。
「信じられない......」
女性は顔を上げた。フードの下から、碧色の瞳が俺を見つめている。
「このお店の料理は、ただの料理じゃない。これは......神聖な力が込められている」
俺は驚いた。
この女性、俺のスキルに気づいたのか。
普通の人なら、ただ「美味しい」と感じるだけだ。でも、彼女は違う。俺の料理に込められた力を、正確に感じ取っている。
「あなたは......何者ですか?」
女性が静かに尋ねた。
「カイト・リーバスといいます。ただの料理人です」
「ただの料理人が、こんな料理を作れるはずがない」
女性は立ち上がった。そして、フードを脱いだ。
俺は息を呑んだ。
金色の長い髪。碧色の瞳。絶世の美貌。そして、白い聖女の衣装——。
「私はエリシア・ルミナス。聖教会に所属する、聖女です」
聖女。
伝説の存在だ。王都で最も力のある魔法使いの一人。S級冒険者。
その聖女が、今、俺の店にいる。
「あなたの料理は、本物です。神聖な力が込められている。こんな料理を作れる人は、この国にはいないはずです」
エリシアは真剣な表情で俺を見つめた。
「お願いがあります。また、ここに来てもいいですか?」
「え?」
「あなたの料理を、もう一度食べたいんです」
聖女が、俺の料理を食べたいと言っている。
信じられない。
でも——嬉しかった。
「もちろんです。いつでもどうぞ」
俺は笑顔で答えた。
エリシアは、初めて微笑んだ。
その笑顔は、まるで春の陽光のように温かかった。
「ありがとうございます。では、また明日、来ますね」
エリシアはフードを被り直して、店を出ていった。
俺は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
聖女エリシア——。
彼女が、俺の店の客になる。
これは、夢なのだろうか。
いや、夢じゃない。
カフェ『エリュシオン』の物語が、今、動き始めたんだ。




