嘘
これで良かった。
これで良かった?
本当にこれで良かった。
本当にこれで良かった?
頭の中で何度も繰り返しながら良かった。良くないを繰り返している。大学の講義を頭を入れなければいけないのにまったく集中が出来ない。あの日から度々連絡をしているがそっけなく、なるべく急にではなく少しずつ距離を置くようにしている。そうすると段々と連絡の頻度は減っていきそしてまるで自分と水沢さんの間には何の繋がりもなかったと思うぐらいに記憶も薄れていくだろう。
そのはずなのに何度も水沢さんの夢を見る。目の前に水沢さんがいて近付こうとして足を動かすが近付けないまま床が地面がドロリと溶けていく。手を伸ばせば降れることが出来る距離なのにちっとも近付けやしない。
頭の中で諦めろよと思っているにも関わらず、本心はそれを置き去りにしてまだまだ水沢さんと会えることを望んでいた。
講義の中で何を話していたか大切なことは話されていただろうか。それを確認しようにも真っ白なノートにはさっきの時間に何があったのか記されてはいなかった。
「……」
水沢さんとのやり取りは一つも消されることなくスマートフォンに記録されている。通話で話したそれはさすがに記録には残っていないがそれでも何を話したか、どんな会話があの時間にあったのか思い出すことが出来る。
(楽しかった)
そうだ。楽しかったのだ。
彼をこれ以上自分が吐いた嘘で傷付けないようになかったことにしなければいけないのに未だにそれが出来ていない。記録に残ったそれを削除しますか?はいかいいえのはいを選択すれば終わるのに。
「なぁ」
「……」
「なぁ」
「……」
「なぁって!」
「え!?」
静かな講義室の中に自分の声が響いた。顔しか知らない同じ大学の男が自分を呼んでいた。上の空だったため驚いてしまった。
「…当てられてる」
「…え?…すみません。全然聞いてませんでした…」
素直に頭を下げて謝ると周囲の様子がおかしいことに気付いた。こっちは顔も名前も知っている大学の先生が驚いた後に笑って言った。
「和泉、お前声でかくなったな」
「え?」
「前は当てられても小さい声で全然聞き取れなかったのに」
確かにと、周囲が笑う。
そういえばと、自分の口に手を当てる。喉からはっきり声が出た。あれだけ自分が喋れば笑われる、きっとからかわれる。堂々と声を出せるのは昔から自分をよく知るセツとハナ、二人の前だけだった。
それがある日一人増えたのだ。
(水沢さんだ)
自分の声で堂々と話せる人間がある日突然増えたのだ。はっきりと、大きく声を出して綺麗だと言われたのは初めてだった。
喋る時間が日に日に増えていき自分はこれでいいのだと、この声でいいのだと知らない間に思っていたのを離れて今ようやく気付いた。
それなのに自分が吐いた嘘で離れることになってしまった。ここまで思わせてくれた彼に何も返さずにこのまま離れて消えていこうとしている。
席から立ち、周囲の視線を浴びる。怪訝な表情をこちらに向ける周囲に声を張り上げて言う。
「…すみません!急用が出来たので早退します!」
え、困惑していた周囲が驚く。それを見ない振りをして一気に荷物をまとめると一目散に走り出す。呆気に取られていたが慌てた声で「待て」が聞こえるが走るのを止めずにどんどん前へ前へ進んでいく。
「あ」
向こうにセツとハナが見えた。二人と目が合うと走る自分の姿を見て追いかけて来る。
「どこ行くんだよ!」
「水沢さんのところ!」
「は?お前、まだ講義の時間じゃ…」
「早退!」
「何それ!」
二人が横で声を上げて笑いながら並走している。廊下を走り、大学を抜けて真っ青の空の下に飛び出していく。
息を切らしながら走って行く。本格的な夏の太陽が容赦なく肌を照らしていった。汗が顔から腕に、背中を伝い服にシミを作っていく。
施設の前を掃除していた水沢さんも手を止めて流れる汗を服の袖で拭っていたのを思い出す。今向かえば彼はきっとまだ外で掃除をしているはずだ。
「俺達はどうすればいい?」
「誰か来ないように監視していればいいかな?」
「離れた場所にいて、知らない人間が二人もいたら流石に気付かれるかも」
「そうだな」
「スズヤ、頑張ってね」
「うん、行ってくる」
施設が見えて来るとセツとハナは歩みを止めてここから自分一人になる。更に近付くと掃き掃除の音が聞こえて水沢さんの姿が見えた。
不審者が入って来れないようにこういった施設はどこもそうだがフェンスが高い。ただ目隠しするような塀と違って隙間から様子が見える。この施設がどういった建物かきちんと頭の中に入っているのだろう。まるで見えているかのように掃き掃除をしている。
「……みず」
「せんせいー」
彼の名前を呼ぼうとした時、小さな子どもの声が走って聞こえた。幼稚園、小学生ぐらいだろうか。男の子がやって来た。
「なーに?」
「えほん無い、ふわふわのえほん」
「…あぁ、破けたから今職員室で直してるよ」
「いっしょに来て」
「掃除終わってからね」
この男の子も視覚障がいがある子なんだろう。施設のことを把握してるのか白杖無しに歩いている。
「……!」
その男の子の歩く先に袋いっぱいに詰められたゴミ袋があった。このままだと転んでしまうかもしれないと思い男の子が一歩、二歩、あとほんの少しでぶつかる時に声が出た。
「止まって!」
自分の声に男の子と水沢さんの動きが止まる。男の子は驚いて周囲を見回していた。
「あ、ぼくがゴミ袋とぶつかりそうだったから」
男の子が首を傾げて手を伸ばすと自分の前に大きな障害物があったことに気付いた。
「……和泉さん?」
「……」
「…ごめんね。ゴミ袋があるの言ってなかったね。先生まだ掃除するから部屋に戻って」
「分かった」
「良い子」
「お姉ちゃん、ありがとう」
「…お姉ちゃん……お兄さんだよ」
この言葉に男の子は首を傾げたが水沢さんに促されて来た道を戻って行った。
そしてこの場所に残されたのは自分の存在を認識した水沢さんとその水沢さんに会いに来た自分だけ。
「…そこの」
「え?」
「裏に回って下さい。物置小屋があるところです。俺も行くのでそこで待ってて下さい」
「…分かりました。待ってます」
フェンス沿いに進んでいくと確かに物置小屋が見えた。錆びており何年も使っている様子が見える。そのすぐ側に蔦が絡んだ扉があり試しにドアノブに触れてみると日差しの熱さを吸い込んで思っていた以上に熱くなっていた。
「和泉さん」
「水沢さん」
「そこに扉があるでしょう?」
「あります。蔦が絡んでる錆びた扉」
「鍵かけてないんですよ。だから中に入れるはず」
「…防犯的にどうなんですか?」
「開くとは、思われてないみたい」
言われた通りに開けてみると蔦が千切れる音がしながら中に入ることが出来た。これで水沢さんと自分を物理的に隔てるものが無くなった。目の前に立つ水沢さんに向かって深呼吸をして口を開く。
「…まず、謝ります」
「謝る?」
「水沢さんを騙していたことです。俺はこんな声をしているけど正真正銘の男です。周りが声変わりして低くなっていくのに…俺には声変わりが来なくて高い声のままの男になりました」
「うん」
「ずっと嫌だったんです。喋ると馬鹿にされて笑われて…それを何年も何年も感じていました…だけど、あの時たまたま水沢さんが間違い電話でかけてきて…声を褒められて…嬉しかった」
「……」
「だから、嘘を吐いて…それでも水沢さんの側にいたかったんです。あなたが目が見えないことを知ってからも言い出せなくて、騙し続ければ今が続くと思って……」
それでもこのままずっと続けられるわけもない。本当のことを言ってどんな反応が返ってくるか分からないと怯えていた矢先に水沢さんを知る人が先に本当のことに気付いてもう二度と会うなと言われたこと。
「当然だと思います。言われた通りに離れることにしたんです……それでも俺は、俺は水沢さんに自分の声をありのままでいることを与えられたのに、何も返すことが出来ないまま、本当のことを伝えずに謝ることをせずに関係が終わるのは駄目だと思って来てしまった」
「…和泉さん」
「…本当にすみませんでした…会えて良かったです」
俯くことなく逃げないように真っ直ぐ水沢さんを見て頭を下げた。この後にどんな言葉が来るのかそれが何であっても受け止める覚悟でいる。
「和泉さん」
「…はい」
「俺、知ってたよ」
「……え?」
「和泉さんが男だって、初めから知ってたよ」
「え?」
「あぁ、覚えてない?お互い子どもだったから」
「…子ども?」
「それでその時、お互い同じ嘘を吐いた」
ここの裏口、ずっと鍵が壊れていていかにも鍵がかかってますという風に見せてるけど子どもの頃からここを利用していた自分はその事を知っており内緒でこの扉から外に出た。
職員がうっかり備品を買い忘れたことを話しておりそれを聞いた自分は何度か一人で歩いたこともあり大丈夫だろうと思いその備品を買いに行ったのだ。
勿論今働いている立場なら当時どれだけ周囲が青ざめたか分かるが、子どもの自分は大人の代わりにお使いをすれば褒められると思い出てしまったのだ。
案の定、立ち止まってしまった。
慣れた道から逸れてしまったのか、自分がどこにいるか分からなくなり不安と恐怖が襲っていた。白杖を上に上げれば気付いて助けてくれるかもしれないが、そしたら帰った時に怒られるかもしれない。
どうしようと、ひたすら焦っていた時だった。
声が聞こえた。