あなたと私
町で見かけたら声をかけて下さい。
水沢さんはその後に続けて自分も見かけたら声をかけますとは言わなかった。そういうことかと事実が分かると更にどうすればいいのかと自室のベッドの上で唸る。
カフェで遭遇してしまった時にどうすればいいかと戸惑う一方で彼の目が自分を認識出来ないことに安心してしまった。最低だ、最悪だと今まで生きていた中で一番の自己嫌悪に陥っている。あまりにと沈んでいたからか、何か言おうとしたセツとハナは顔をお互いに顔を合わせた後に無言で側を歩いていた。
「……あ」
水沢さんからのメッセージが来ている。今日友達とカフェに行き気になっていたメニューを頼んでみたが想像以上に美味しかった。食べたことはあるか、ないなら食べてみてほしい。感想を言い合いたいとあった。
食べたメニューは知っている。気になっていたいうのも隣で聞いていた。それをあたかも今知りましたと言わんばかりに返事をした。
その後通話に切り替えて軽く喋り、明日は早く出勤すると聞いて早々に会話を終えて眠る。
真っ暗になったスマートフォンの画面を撫でる。
水沢さんの見る世界はこんな風になっているのだろうか。
生まれつきなのか後からそうなったのかは知らないが、目を閉じて世界を知る。
手を動かしてみると自分の部屋なのでどこに何があるのか良く知っている。しかし一歩踏み出すと怖くなる。どこに何があったのか、ここから何歩先が階段なのか、もしかしたら後ろに誰かがいるかもしれない。それが一体どんな人間なのか、良い人間か悪い人間か、視覚で得ている情報を彼はすべてそれ以外の感覚で知っているんだろう。
「……」
耳で聞いて、その人間の情報を知るのか。手で触れてその感触でどんな体をしているのか知るのかもしれない。
自分の手のひらを見つめる。ハナはハンドクリームやネイルをしておりきっと触るとネイルの飾りやハンドクリームを付けて柔らかくなった手でこれは女性の手だと分かるかもしれない。
自分やセツの手は血管が浮いていて固い感触だ。手のひら一つでこうも違う。きっと触れれば男の手だと分かるだろう。
(…もし)
次に水沢さんに会う時が来たら肩に手を置いて話しかけよう。そのまま白杖を持つ手に触れて自分のことを知ってもらおう。
自分は声が高い男です。
それを聞いて彼の表情がどうなるか真っ直ぐ見つめよう。
そう決意した夜に見た夢は今までの嘲笑された記憶をすべて注ぎ込んだような悪夢を見て赤ん坊のように涙を流して目が覚めた。
「失礼します」
「はい、お疲れ様」
「お疲れ様です」
これは施設長の声。今年で還暦を迎える施設長は自分がお世話になっていた頃よりも少し低くなっている。僅かに香る煙草の匂いは本数を減らしたからかだいぶ香りは弱くなっている。
視覚障がい児施設ひまわり園は子どもの頃にお世話になったデイサービスの施設だ。放課後や両親が仕事の際によく預けられており成人した後にアルバイトとして応募をして自分をよく知る施設長から改めて働くことの難しさを今教えられている。
「最近どう?」
「まあぼちぼち」
「やれること増えてきたな。ピアノはもうシキに任せようって話だし、ここにある絵本もまだ暗記してるでしょ?」
「うん。子どもと台詞言い合ってる」
「敬語」
「言い合って、ます」
「慣れないね」
「だって、ずっとため口だったから」
子どもの頃から知っている施設の大人だ。アルバイトを始めてなかなか慣れない相手への敬語が抜けてしまいまた怒られる。ただ二回目のそれは笑いながら言われて自分も思わず笑いながらごめんなさいと返してしまった。
高校を卒業後に始めたこのデイサービスでのアルバイトは進路に悩んでいた際に相談も兼ねてボランティアで訪れた際にならここでアルバイトでもしながら自分でお金を稼いでゆっくりやりたいことを決めればいいと進められた。全盲であるため国家資格を取得することも考えていたが本当に自分がやりたいのか長く考えていたためすぐに進路を決めずアルバイトをしながらゆっくり進む道を考えることにした。
いざアルバイトとはいえ働くことは出来るのかと思ったが、施設の中はよく知っている。清掃や子ども達の相手、求められばピアノを弾いて歌を歌う。何とか毎日過ごしており、そして月に一度こんな風に話をしている。
「こっちは助かるけどね」
「本当に?です?」
「保護者もな、シキが働いてるの見て少し前向きになるらしい」
「だったら嬉しい」
「…ところで」
「え?」
「最近スマートフォン触ってる時間が多いって」
「休憩の時だけ、です」
「楽しそうだって」
「…まぁ、うん」
「何か出会いがあった?」
「んー…」
「ま、いいや。プライベートだし」
「……」
確かにスマートフォンを触る時間が増えた。和泉さんからの連絡やほぼ毎日している電話での会話。迷惑かとも思ったが、つい自分の楽しい時間を優先してしまう。働いている自分より大学生の自分の方が時間があると、笑って返していた。
「…あの」
「ん?」
それでもふと考えるのだ。
「健常者と仲良くなれますかね。俺」
「……後ろめたい気持ちがあると最初は仲良く出来ても離れることになるかもね」
「見える世界が違うから、共有出来ないことが多いと思う。それが煩わしいとか、面倒だとか…そう考えるときりがない」
「相手と会って、それがお互いストレスに感じるならきっとその子とは最初から合わなかったんだよ」
「……もっと仲良くなりたい時に、一歩踏み出して失敗してやっぱり踏み出さなきゃ良かったってなった時、立ち直り出来るかな」
「…若いうちは多分、そうやって崩れる人間関係もあるかもね。年を取るとまず踏み込むことすらしないから。でも、まぁ経験だね」
「……経験」
「悩め、若者」
聴覚で得た情報しか知らない和泉さんと並んで歩けることを自分が出来る限りの想像力で見つめる。自分の手のひらを触ると皺の形と最近うっかり紙で切ってしまった箇所に貼っている絆創膏。そして五本の指。この指に相手の手を絡めて並んで歩くことは出来るだろうか。
「……」
施設長との話を終えて仕事に戻る。清掃を終えて保護者が迎えに来るまで子ども達を見て相手をする。手探りで触れ合いながら聞こえてくる音を拾い何か異常はないか見える同じ施設の職員と働く。
子どもの体力は無限にある、最後の一人を保護者が迎えに来たのを確認して部屋の片付けを終えて退勤する。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様」
荷物をまとめたリュックを背負い白杖でいつもの帰り道を歩く。施設から家までは駅に向かって歩き、電車で二駅、慣れた道で駅の人も自分のことを覚えているかもしれない。
「……?」
ふと、視線を感じる。
立ち止まり周囲の音を確認するが特におかしな雰囲気は無い。ほんの少し立ち止まり警戒するが特にそれ以上の動きはなく再び歩みを進める。
感じた視線はもうどこにもない。
(…目が)
見えていないのに合ったように見えた。
この街で視覚障がい児施設といえばここだという。普段は殆ど興味も無い街の地図をスマートフォンで広げて見つけたここに足を運ぶと水沢さんがアルバイトを終えた後なのか駅に向かって歩いていた。
その後ろ姿を見つめていると立ち止まり振り返る。立って歩いている姿を見ると、自分よりは低いが平均的な男性の身長だ。服は家族が選んでいるのか無難というかごく普通のシャツにジーンズ。黒いリュックには定期券がぶら下がっていた。
見えていない目を自分に向け続けると小首を傾げた彼は再び駅に向かって歩き出す。
何だかストーカーのようだと自嘲するが、自分も大学からの帰りだから仕方ないと同じ道を歩む。
「……ぁ」
すると水沢さんのリュックにぶら下がっていた定期券が落ちてしまった。長いこと使っていたのか音もなく静かにチェーンの部分が外れるとコンクリートに落ちた定期券を慌てて拾う。
「……う」
落ちましたよ、と声がかけられない。
そうしている内にどんどん先に行ってしまう。このままだと水沢さんが帰れない。こっそりリュックのポケットの中へと入れてしまうかと思ったが所定の位置にないことに混乱するかもしれない。
「……っ」
意を決して早歩きし水沢さんに並ぶ、人の気配を感じたのか少し表情を変えた水沢さんの白杖を持っていない反対側の手を無言で取る。
「…わっ!」
突然のことに声を上げた水沢さんに周囲が気付き不審者として見られる前に彼の手に落ちた定期券を握らせた。
「え?え?」
そして一目散に側から離れる。周囲の戸惑った視線を受けながらその場からどんどん離れるが狼狽えていた水沢さんが定期券のチェーンが外れていることに気付いたらしい。
「あ、ありがとうございます!」
大きな声で彼にお礼を言われた。
久しぶりに走り汗が伝いながら改札に着くと振り返り呟く。
「…こちらこそ…」
自分にこんな行動起こさせることが出来たのは水沢さんのおかげだよ。