金曜日
金曜日、
三峯教員は「今週の授業で分からなかったこと、聞きたいことはありますか」と言った。
分からないことは沢山ある。聞きたいことも沢山ある。
気が付けば他の生徒がいない教室の中で、しかし一人小さく「大丈夫です」と頷くと、私の頷きを見たか見ないか分からぬ目のまま「分からないことはあなたには分かりません」と言った。
「ただ、何も分からないということを分かっていれば良い。何も知らないということを知っていれば良い。自らの無知を自覚していることは、自分はなんでも知っていると見せかける人よりも優れている、と古代の先人は言いました。
今日は金曜日、今週最後の授業ですから、五つの問いについて私が思う概念をお話しようと思います。
良いですか。
嘘でも本当でもある話をしようとしている時、自分の行動が自らの意志かを考えている時、死とはどういう状態かを考えている時、知らないということを自覚しようとする時、全ての場合において、今ここにそれを考えようとしている自分という何かが確かに存在するということだけは紛れも無い事実だということです。
全ての概念における否を考えている時、それでも否定出来ずにここに残るのは〈それを考えている自分という何か〉という存在です。
デカルトはそれを精神と呼んだ訳ですが、それを研究しているうちに、
一方の私は……、あ、失礼いたしました。
この授業ではデカルトの書き記したことは語らないと決めていました。
とは言えですね、昨日までにもちらほら語ってしまった概念がありますね。
それでは今日の授業を終わります」
平日だからと言って必ずしも学食が営業中とは限らない。
水漏れ点検の為本日は終日休業いたします、というゴシック体の張り紙と共に、金曜に存在するはずの日替わりうどんが存在しない事もある。
生きようとするつもりは無いのにお腹が空いたからと食事を求める自分に呆れながら、そんなことを考えている自分という浅い何かが今ここに存在していることを知る。