水曜日
水曜日、
三峯教員は「あなたは今、自分の意思で動いていますか」と言った。
「もしもあなたが、自分の意思で自分の体を動かし言葉を発しているのだと言う場合、その証拠はどこにありますか。あなたはそれを何と説明しますか。またはもしもあなたの意思ではない場合、絶大で強力な天の力によってあなたの行動を支配されている可能性はありますか。僕はいつか答え抜きますので、あなたもいつか答え抜いてみて下さい」
日替わりうどんの食券列の前に並ぶ三人を見ながら、私を含む四人とも今自分以外の誰かの意思でうどんを選択したのかと総毛立ち、一方で過去の自分に起きたことが全て自分以外の誰かの意思であることは酷く確かな事実であった。
両親の意思、友の意思、赤いマジックペンの意思、加えて粘り付く蛞蝓の意思、常に強力で絶大な意思によって支配され突き動かされている。
私が抗えない、抗おうとしないのは、私の人生に私だけが存在しないからである。
その日、三番扉を開けると、自称芸人のエースが一四〇センチちょっとの身体を揺らして手を振っていた。
「会いたかったよ」
ハの字眉毛をぴくぴくと痙攣させた後、私を手招きし抱擁する。
「私もです」
抱擁越しに短い腕でお尻を弄る様は酷く滑稽で、傍から見れば抱きしめられているのは私か自称芸人か不明である。
危うい立場の憂慮に耐えず、体を離すまでがお決まりの流れ。
「実は今日は報告が二つあって来たんだ」
「報告ですか?」
「どっちから聞きたい? 凄く良い報告とちょっと良い報告」
「じゃあちょっと良い報告で」
「珍しいね」
「そうですか」
自称芸人が短い腕を組む。
「この間、静脈麻酔を受けたんだよ。内視鏡検査のためにね。で、麻酔から醒める時、人って自白剤飲まさたように本音言い出すって知ってた? 僕知らなかったからさ、もうびっくりしちゃった」
「へえ。そうなんですね」
「僕、何て言ったと思う」
「何でしょう」
「お笑いで日本一獲りたい。今頑張らなくていつ頑張るんだ。必ず獲るんだ。ってずっとぺらぺら喋ってたんだって」
「良いですね」
「でも最終的には、お母さん~お母さん~って泣いてたらしい。なんだよ最後はお母さんかよマザコンかよ!ってね」
自称芸人のすべらない話に、自称芸人が滑って笑った。
「実はこれが凄く良い報告にも繋がるんだけど……、年末の賞レースに出ることが決まりました!」
自称芸人が手を頭の上にあげ拍手をする。
「良かったですね」
そういえば毎年年末には、SNS上がお笑い芸人の話題で持ち切りになる一日ある。意識していなくても入ってくる情報だ。
「やっと夢が叶ったよ」
目と鼻の間を擦り、顎に手を当てた。どこか遠くを見るその目には何が映っているのだろうか。
「やっと僕が日本国民全員を笑顔に出来る日が来た」
夢。叶う。俺が。笑顔に。出来る。
「見ますね」
見れたらね。
「うん。敗者復活戦の第三組だから、午後の二時くらいに放映されるはずだよ。投票よろしくね」
いや、敗者復活戦なのですか。
「関西出張の時は、また遊びに来るから」
「待ってます」
夢を叶えたいと願う意思は、俺こそが誰かを笑顔に出来ると信じて疑わない意思は、自称芸人が自称芸人自身で決めた意思なのか。
誰かを笑顔に出来る程に他の人間より面白い可能性があると、自称芸人に思い込ませたのは誰だったのだろう。はたまた、これ位の実力ならば俺にも務まると思わせた芸人は誰で、こんな風になりたいのだと憧れを持たせた芸人は誰なのだろう。全てを紐解いた時、それは自称芸人自身の意思だと言えるのだろうか。
ただ一つ、私が今ここでシャワーを流しながら、自称芸人の背中に二つの小胸を擦り付けている動作は、私の確かな意思だ。
これこそは、これだけは私の確かな意思だ。
元から汚れていたこの心臓を消す為に。汚れを上書きすることを決めたのは、紛れもなく私の意思だ。
私だけが存在しない私の人生で起こす、たった一つの私の意思だ。