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三峰教員

一方、対価のことなんてまるで考えていないような今にも消えて無くなりそうな、三峯教員、のような人間もいる。


一人暮らしをしようと決めた高一の冬、図書室に飾られている額縁に入った大きな日本地図を前に、目を瞑ったまま赤いマジックペンをこつんとぶつけた。

目を開けると私の行き先が決まっていた。


滋賀県の琵琶湖沿いにある雄琴という地区である。

それは一体どこなのかと首を傾げつつ、一五五センチちょっとしか無い私の背丈では西日本に決まることは分かっていた。

日本地図を覆うガラスの雄琴の上に、赤印を付ける。


そうして高三の卒業式の次の日に、コンビニのアルバイトで貯めた六万円を握りしめて、母と二人質素に暮らしていた東京三鷹のアパートを出た。


名前さえ書けば入学できる定員割れの大学へ無事に入学した私が、願書上で丸を付けた学部の名前を意識した事は頑として無かったけれど、どうやら私は創造学部という名前でそこからぶら下がる三学科のうちフィロソフィー科というところに所属するらしい。


フィロソフィーが愛を意味するフィレインと知を意味するソフィアを結び合わさせた哲学という意味を持つ合成語だと知ったのは後のことだとしても、それにしても何を創造する学部なのか甚だ疑問なので創造という単語の前にそれを修飾する別の単語が必要な気もする。

一方でそれこそが生徒の腕の見せ所、売りは自由な校風なのですし、そんな事を疑問に感じる生徒は初めから入学しないので一切の問題がありません。


今思えば義務教育でも無い創造学部なんぞにわざわざ性で稼いだ金銭を落としながら通わずとも、普通に働きさえすれば一人暮らしは出来たのでは、これが右も左も分からない高校生の思い付きの行動かと妙に納得しつつ、いいや違う、

「どうしても通いたい学校があるのです。家賃は払えるかどうかでは無く払うのです」

と駅前の不動産屋にいた細見短髪に首を垂れ続け、霊が出るとか出ないとかの静かな物件を「夢を持つ大学生だから」と激安で紹介して貰ったことを思い出し、創造学部フィロソフィー学科に両手を合わせた。 


そうしてこれまた適当に丸を付けた履修科目で四月から教壇に立つ人間が、今にも消えて無くなりそうな、三峯教員、なのである。

が、創造的かと言われると首を傾げたくなるほど真面目で、多くて五人しか座らない教室で、私しか座っていない日も、意外と興のあるフィロソフィーを繰り広げるのだった。


「皆さんが何に期待してこのクラスを履修しているのかは知りませんが、私はデカルトを専門に研究しているので、基本的にはデカルトの話をしたいのです。デカルトというのは勿論フランス哲学および西洋哲学のルネ・デカルトですね。

当たり前です。

しかし、私が研究中の概念を語ってもきっと君たちは興味が無いのだろうし、私はそれに苛立ちを覚えてしまうのだろうし、例え興味を抱いたとしてもその先は理解出来ないと思いますので、このクラスでは毎回分かりやすい言葉を一つ例に挙げ、そのものを対話して答え抜いて参りましょう。

と言っても、昨今は如何にも簡易にまとめられたベストセラー哲学書に記載された太文字ゴシック体のほんの一行を読んだだけで、その通りだと感銘を受け、万物の神を知り、精神を知り、肉体を知り、愛を知り、無限を知り、よく生きるということの答えを知る流行があるそうですが、甚だ可笑しな話なのです。

哲学は理解をしようと試み近付くことができたとしてもそれは気のせいで直ぐに遠ざかり、まあ最も例に挙げてしまったが最後、そもそも問うという事自体が問うという一つの答えであり、その中でそれでも問い続け答え抜いたのが世の哲学者たちな訳で、その先人たちが答え抜いた答えを更に問いまた答え抜くという行為こそがこの社会には必要な訳で、分かりますか、それこそが立派な哲学となる訳です。


いかがですか。

みなさんは、どう思いますか。


という事で、抜け出せない対話の入り口へようこそ。


初回の今日は、今から配布する書籍の第一章を読み、レポート用紙に感想文を書いてください。

思ったこと、感じたこと、疑問点、何でも良いですから」


三峯教員の授業は、生徒の顔を見ること無く、人数を確かめる事無く、出席を取ること無く、下を向いたままいつも一方通行に進むのに、十五分に一回は下を向いたまま「どう思いますか」と問いかける。


私はどう思うのだろうと迷路の途中に立ち止まっていると、また一人するりとすり抜け次の迷路へと進んでいくから、本当は「どう思いますか」なんてことは思っていない。

というところも含めて意外と興のある授業なのであった。



そうしてバスに揺られる帰り道、スマートフォンの明かりをつけると一通のメッセージが届いていた。


〈久しぶり。元気? 再来週って空いてる? 滋賀の方に行く予定ができたんだけど、会えるかな。美郷〉


本当に久しぶりである知り合いが遣う久しぶりという言葉と後部座席タイヤの上の心地良さに身を委ね、〈久しぶり。元気だよ。会おうか〜〉と体の良い社交辞令をタップする。


高校三年の時、夏の二週間だけ通った塾の無料体験コースで隣の席になった同い年の人間だ。

以来、節目節目で向こうからメッセージが届くようになった間柄だけど、全国模試総合ランキング七位のその後有名私大に入学した人間が、創造学部フィロソフィー学科に入学した人間なんぞに構う真意は定かでない。


一人暮らしをしたいがためご丁寧に馴染みのない土地を選び性を売りながら家賃を払う私に、人間の性格の善し悪しなんて判断出来ないけれど、それでも話していて嫌な気持ちがしたことは無いし、偉ぶる様子も誰かを見下す様子も無い代わりにそこまで印象にも残らない。

人間が最初に忘れるのは人間の声だと風の噂で聞いたことがあるけれど、思えば声だけは特徴的で「楓はこのクラスで一番可愛いと思うよ」という囁きがぞわっと耳に残っているから、風の噂にだけは騙されないぞと胸に誓う。


〈何の予定があるの〉

〈それはちょっと秘密だわ〉

〈そっか、二日間くらいそっち行く〉

〈長いね〉

〈長いか?〉

〈長くないか〉

〈でも秋だからあんまりホテル空いてない、そのあたり温泉街だもんね〉

〈なるほどね〉

〈だから楓の家に泊まっても良いかな〉

〈え、私の? 狭いし汚いよ、〉

〈ほらオーバーツーリズムの片棒担ぐと申し訳ないから〉

〈それは来る時点で担いでるよ〉

〈そっか〉

〈うん〉


とそんなこんなで気が付けば社交辞令に毛が生え続け、来たる再来週に、私が一人暮らしをするアパートに二泊することになった。


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