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二人ぼっち


次に目が覚めた時、私は病院のベッドの上にいた。


点滴が繋がる左腕が重たく、乾いた汗で固まった髪が痒い。無我夢中で走り去る途中、激痛が走ったお腹を両手で抱きしめ、倒れ込んだことを思い出した。


「起きられましたか、もう大丈夫ですよ」

温もりの声がする方向を向くと、血圧やら血液やらとさまざまな測定検査が続いたので、この温もりは私の体の心配をしているのではなく、私の体が正常に動くかどうかを確かめたいだけなのです。

もう大丈夫だったことなんて私の人生で何一つも無いのだから。


「堕胎手術は保険適用ではありません。入院が続くと費用も嵩んでしまいますから、前倒しましょう。今日術前処置をして明日手術を行います。問題ないですか?」

そう問われ、未だぼうっとする頭で何とでもなれと頷いた。


そうして行われた術前処置は、麻酔をせぬままはじまった。

開かれた足の向こうに眠る子宮を細いピンセットによって捕まれ、思い切り膣の方へと引っ張られる。先生はカーテンの奥で悶え苦しむ私に構わない。水を吸収して膨らむスポンジと説明をする訳の分からない棒を何本も、ぐいぐいと膣へ子宮へと突っ込まれる。

ぼうっとしたままの頭では到底耐えられぬ、決して凌ぎきれぬ、この世のものとは思えぬ、子宮から脳天まで切り裂かれる電光石火の激痛が、遂に私の意識を現実に引き戻すことに成功した。


起きた事全てが夢の中だったのかと感じる程に今、私は現実を生きている。

処置を終えても続く鈍痛に下腹部をおさえながらゆっくりと歩き、病室のベッドに戻る。

シャワーも浴びれますよと言われたけれど、たった体ぼっちの私にそんな元気は残っておらず、大丈夫ですと呟いて、白いお盆に出された食事にも手を付けず、真っ白く硬い布団に包まった。

もう体の痒さも感じない。お腹が空いたとも思わない。眠くもない。感じる欲望は一つもない。何もない。何もいない。だってここには、

誰もいない。


お腹の上に両手を当てた。音もしない、声も聞こえない、動きもしない。

ここに宿った命という存在を、感じることすら許されない。

エコーのモニターに映る黒い砂嵐、ぴこぴこと動く白い影。私の黒い子宮に浮かぶ、私以外の白い影。終わり無く続く暗闇の中、思いなしか「おぎゃあ」と泣く赤子の声が聞こえた。


私のしがない人生で、私が最後に泣いたのはいつだったでしょう。


思い返すと、それは蛞蝓に出会うより前の夏だったように思います。

大好きだった父がなぜかあまり家に帰って来なくなり一抹の寂しさを覚える中、今考えれば離婚に向けた話し合いが行われていた頃なのですが、夏休みこそは行きたいのだと懇願し続けた遊園地に母が連れて行ってくれました。

いや少し違います。

私は父と母と家族三人で行きたかったのだと泣いたのです。

遊園地の床に寝転び、這いつくばるようにして泣いていると、見かねた母がオレンジジュースのしかもLサイズを買ってくれました。とても大きな、食べきれない程大きな、キャラメル味のポップコーンまで付いてきました。

途轍もなく美味しくて、美味しかったけれど、そんな美味しさで私の思いは満たされぬのだと、感情のまま泣いて、また泣いて、泣き続けていると今度は疲れて眠気に襲われました。


夢を見ました。


思い出か作り話かは分からない、知る日も来ない、家族三人仲良く温泉旅行に行った時の夢です。

母の手の中で眠る私は小さな小さな赤子でした。話すことの出来ない私は、何度も父と母に笑って泣いて訴えます。お腹が空いた。おっぱいを飲みたい。眠りたい。外に出たい。パパに抱きしめて欲しい。ママに抱きしめて欲しい。こうしたいのだと、ああしたいのだと、心の赴くままに訴えます。


そんな夢の中、また夢を見ました。


「楓の樹木には花言葉があるんだよ」

 そう語る父に、母が微笑んで答えます「大切な思い出、美しい変化」。父と母の真ん中で手を繋ぐ幼稚園児の私が「それはどういう意味?」と聞き返します。

「楓の木って今は鮮やかな緑に見えるけど、秋になると紅葉するの。赤やオレンジが混ざった誰もが美しいと息を吞む綺麗な色になるの」

 そう語る母に「そのどちらもが美しい。元の鮮やかな緑も変化を遂げる深紅の赤も、どちらも間違ってなんかいない」と父が微笑み返します。

「楓ちゃんは、過去も、未来も、どっちも愛せる子になれると良いわね」

 とても幸せな夢からはっとして目を開けると、目の前に父と母がいました。

「やっと起きたのね~」

 揃って笑った二人を見た私は、また泣いて、また泣きました。

 


「もしもし。聞こえますか。大丈夫ですよ」

 朦朧とする意識のまま、はっとした。かちゃかちゃと器具が合わさる音に、指から流れるどくどくどくという心拍音、胸元にかけられた身長の低いカーテン、天井の蛍光灯。私は気が付くと手術台の上に横たわっていた。

「今から局部麻酔を行いますね」

 そう言われた直後、機械的に開かれた足の間に先生の手が入り、膣の中に得体の知れぬ何かが入った。

「注射打ちますよ」


たった体ぼっちの私の体の中で、刺して良いはずのない最も柔らかい場所に、鋭利な針が奥深くまで突き刺さる。

一本、二本、三本、四本。


想像を絶する針の痛みが柔らかな粘膜を突き抜け、子宮を蝕み、腹に重くのしかかった後、血管を辿って津波のように、肺へ胃へ肝臓へ大腸へ小腸へ、子宮へ膣へと帰っていった。

そうして私は今ここに汚く、汚らわしく、強く、確実に生きているのだと知った。


「ここからは大丈夫です。静脈麻酔を打ちますのでもう痛みませんよ」

 看護師が、いつの間にか私の目から流れ出ていた涙の粒をタオルで受け止めた。


「ふわふわと夢の中に誘われるかもしれません」

 柔らかなリズムで私の右手をきゅっきゅっきゅっと撫で握る。温かだった母の鼓動。温かだった父の腕。

「聞こえていますか」

 とんとんとんと右肩に手が触れた気がしたけれど、目が開かない。

「聞こえています」

「少しお話しても良いですか」

「はい」

「あなたは、母体の奇跡を知っていますか」

「何ですか。奇跡って」

「赤ちゃんは体の外に出ても、これからもずっとお母さんの体の中に生き続けるんです」

「慰めですか、先生」

「いいえ、違います。医学的知見です。一度お腹に宿した赤ちゃんの細胞は、赤ちゃんがお腹の外に出た後もお腹で生き続けます。何年も何年も一緒に生き続けて、お母さんの病を治してくれる事があるんです」


「私の病を、ですか」

「はい」

私は、この子の病を治してあげることが出来なかった。それなのに。


「この子も、この子も私を感じていますか。一人じゃないですか。たった一人きりで飛び立つ訳じゃないですか」

「勿論です」

ぼうっとする頭のまま「ありがとうございます。ありがとうございます」とつらつら涙を流し続ける。泣きながらふと「先生、赤ちゃんには会えますか」と聞くと「今回はそうですね、会わない方が良いかもしれません」と、「先生、赤ちゃんに気持ちを伝えることはできますか」と聞くと「お空に帰るその瞬間まで、沢山の気持ちを伝えましょう」と。


会えないことを知りながら、伝えられないことを知りながら、安心した手の温もりにそんな事を尋ねる自分の姿をどこか遠くから眺めていた。

 

一体、この子はいつからこの子になるのでしょう。受精した時ですか。心臓が動き始めた時ですか。体が出来た時ですか。

この子はいつからこの子の心を持つのでしょうか。人間はいつから人間になるのでしょう。いつから体を持ち、いつから頭を持ち、いつから心を持つのでしょう。私の中で生き続けているあなたの細胞に、心は宿っているのでしょうか。


あなたに心はありましたか。

もしも、あなたの何処かに心が存在するのだとしたら、その心は今何を受け止めどんなことを感じていますか。

温かかい羊水でぷかぷかと眠っていたその瞬間、突然開いた光の窓から視界に入った、自分の体と同じ位大きな銀色のスプーンに驚きましたか。怯えましたか。


スプーンが迫り来ていると知った時、束の間にも母の中へと逃げようとはしましたか。

生きようと、生きたいのだと、母のお腹の中にさえいれば生きられるのだと、お願いだからここにいたいのだと、訴えましたか。泣きましたか。


意思とは無関係のまま、足を、お腹を、胸を、右手を、左手を、顔を、ぱらぱらと掻きだされたその体は今、痛みますか。その時、あなたの体の何処かに存在していた心は何処にいきましたか。


これから私が話すことその全てが正しく、その全てが間違いであることを知っていて下さい。


もしも体が痛くても、逃げられない苦痛があったとしても、心だけは一人どこかに逃げられることを覚えていてください。あらゆる苦痛から、心だけは一人遠くに行けることを覚えていてください。覚えていたならば、それを実践してください。


実践したならば今、心はどのあたりを旅していますか。日本ですか。それとも海の中ですか。山の上ですか。雲と虹の合間ですか。

好きな場所を好きなように旅したならば、どうか、私の心と合流して、たった二人きりの世界で、泣いたり、笑ったり、怒ったり、呆れたりしながら、たった二人きりの世界で、平和に丁寧に暮らしていて下さい。

どうか、どうか、一人きりでたった心ぼっちになることなく、二人きりでたった心ぼっちに。


どうか、どうか。


親愛なる我が子へ、心からの愛を込めて。

 

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