味噌煮込みうどん
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意味も無くクリスマスが過ぎ年も明け、妊娠二十週に入った真冬の朝。
控室で目覚めた私は、コンビニで朝ご飯でも買おうとスウェット姿のまま外に出た。
しかし、今日はエースたちの予約が一件も無いこともあり、どんよりと雨が降っていたこともあり、ふと目を覚ました時間が朝の八時だったこともあり、ちょうど目の前にバスが止まって扉が開いたこともあり、開かれた扉に乗り込む。
到着したのは学校だった。
教室には八時五十五分に到着した。
五分待つと扉が開き、入室してきたのは当たり前だけど、三峯教員、です。
そうして始まった授業の冒頭で、「自分の力で制御出来ない何かに苦しんだことはありますか」と問いた。
「今日は特別にデカルトの概念を引用して話をしようと思います。デカルトは、いくら良いものでも、我々の外にあるものはすべて等しく自らの力から遠く及ばないとみなしていました。つまり、生まれつきによる良き物がないからと言って、自分の過ちで失ったのでなければ、それを残念に思ってはいけないということです。
深く話せば海よりももっと深い意味を持つ訳ですが、私はそのデカルトが伝えたかった真の意味を研究している訳ですが、簡易に表現するとこうなる訳で、どう思いますか。自分にコントロール出来ない事柄に頭を抱え思い悩んでいるそんな時間があるならば、この概念について深く考え悩む時間に代えてみて下さい」
三峯教員は授業の最後に、突如、
下を向いたまま「先に個人教員室へ、行っておいてくれますか」と話した。
私に向けて何かの言葉を発したのは、それが初めてのことだった。
私に向けられた言葉なのか、誰に向けられた言葉なのか、そもそも周りに生徒が座っていたかは見ていないけれど、これは私に向けられた言葉なのだと何故か確信していた。
教室を出て廊下を歩き、〈三峯〉と記載のある教員室の扉をノックし、返事がないことを確認して先に入室する。如何にも三峯教員らしい無機質な部屋だった。
整頓された紺色の書類フォルダが並ぶ本棚に、白いテーブルとソファ型の一人椅子。本棚に並ぶ本の背表紙を眺めると、カタカナの人物名と難解な漢字の列が、横に広がり縦にぶつかり積まれていた。
私はそれらに背を向け、閉じられたカーテンの方を向く。右手で少しカーテンを開け窓の外を見ると、どんよりとしていた雲が去り太陽光が差し込んでいたので、思わず勢い良くカーテンを閉じた。口角が緩んだ。
暫くすると、がらがらがらという音と共に扉が開いた。
振り向くと、入室してきた三峯教員は、笑っていた。見たことの無いような笑顔で、いや、張り裂けそうな唇を目尻にぐいと近づけて、不敵に笑っていた。
笑っていた。
そうしてぐんぐんと縮まった距離の後、どうしてですか、スウェットの中に右手を入れてお尻を触り、どうしてですか、黙っているとパンツの中に手を入れられ、残る左手で胸を弄ってきたので、私はその両手を払いのけ、そのまま学務課に向かった。
設置してあるパソコンから無言で退学届をプリントアウトし、学務課というシールの貼ってあるボールペンを握ると、名前と住所を書き殴る。
親指をインクに押し付けて名前の横に印を押し、お世話になりました、と呟いて学務課のポストに差し込んだ。
最後に食べた学食の日替わりうどんは、どうしてですか、味噌煮込みうどんで、箸入れにはご当地フェア開催中という文字が並んでいます。
「自分にコントロール出来ない事柄に頭を抱え思い悩んでいるそんな時間があるならば、この概念について深く考え悩む時間に代えてみて下さい」
あれは、そう語る人間がコントロール出来なかった衝動と言いたいのですか、それともコントロールすることを辞めた結果と言いたいのですか、コントロールをしなくても良い相手だと思ったのですか、それとも深く考え悩んだ結果の行動なのですか。
私はどういう存在ですか。ねえ、ミヤビさん。どうしてでしょう。
私、こんな風に終わりを迎えることになりました。こんな風に終わってしまうこともあるんですね。
渡された味噌煮込みうどんを完成形のまま返却棚に置くと、虫の知らせなんて持ち合わせていないはずの母から〈元気?〉という虫の知らせが入った。校舎を出て、歩きながら電話で答える。
楓ちゃんから電話なんて珍しいねえ、どうしたの
ん?元気にやってるよ
お母さんこそ元気かなって思って
お母さんは元気だよ~この間なんて彼氏とバスでイチゴ摘みに行ってさあ。
良かったね
食べたい?
そうだね、食べたい
でも彼氏がイチゴ大好きだからさ全部食べちゃったもんね
そうなんだね
たまには帰っておいでよ楓ちゃん、一緒にイチゴ食べよう
そうだね、春休みあたり帰ろうかな
待ってるねえ
私たちは電話だと普通の親子のように話せるのに、面と向かって数時間過ごした途端必ず言い合いになりどちらかが家を飛び出すのは、どちらも幼少期に欠けた父の愛を探し求めているからだろうか。
私が春休みにも夏休みにも帰ることは決して無いのだとどちらもが察しながら、いや、たまには帰っておいでと言う母がそんな事を微塵も思っていないことを察しながら、五分にも満たない見せかけの虫の知らせを切る。




