母
産婦人科はいつ行ってもどこに行っても細いオルゴール音の流れる白い壁に囲まれた清潔な空間だ。
順番を待つ人間たちが、規則正しく前を向く四列の長ソファに喜びや悲しみや憎しみや怒りを殺しながら規則正しく座っている。
受付を済ませた私がそんな正しい規則を眺めつつ不規則な席に腰かけると、ふと足元で、ほんの小さな桃色の人間がさらに小さな桃色の子供を抱きかかえながら「お腹に赤ちゃんがいます」とこちらに微笑みかけている。
なんと奇遇ですね、私と同じです。
掌より小さいそれを両手で拾ってジャンバーの右ポケットにしまい込み、壁掛けのテレビが静寂な空間に向けて次々と流す特有の文字をぼうっと眺める。
〈子宮頸がんは予防できます。あなたは必ず検診を、お嬢さんには必ずワクチンを〉
〈葉酸タブレット販売のご案内〉
〈分娩予約は二〇週までに〉
〈母と子のメンタルヘルス〉
〈意外と知らない月経のこと〉
〈赤ちゃんのためにDHA・EPAを摂取しましょう〉
〈更年期障害を乗り越える、ジョセイのココロとカラダのトリセツ〉
と、そこまで眺めたところでスピーカーから久しぶりに苗字を呼ばれたかと思えば、もっと久しぶりにフルネームを呼ばれた。
ジョセイのココロとカラダのトリセツ。ジョセイのココロとカラダのトリセツ。ジョセイのココロとカラダのトリセツ……。
ぼそぼそと呟きながら立ち上がり診察室へ向かうと、ちょうど診察を終え出てきた人間が、腰まで伸びた黒髪をふらりふらりと左右に揺らし、足の関節を無くしたようにその場に倒れこんだ。
はあはあはあと呼吸を乱すその人間は、間髪を入れず駆け寄ってきた看護師二人によって抱きかかえられ奥の部屋へと姿を消した。
「失礼いたしました。どうぞお入り下さい」と言う先生の声に診察室へと視線を戻し、あ。はい。と足を踏み入れる。
「今日はどうされましたか」
先生は白衣ごとこちらに向けて、ゆっくりと口を開いた。
「生理が来なくて」
「そうでしたか。妊娠の可能性はありますか」
「可能性……」と呟いた瞬間すぐに「失礼いたしました」と囁いた先生の口角をじっと見つめる。
「先月の排卵日あたりに性交はされていますか」
排卵日がいつか知らないけれど、
「もちろん、ずっとしています」
間髪入れずにそう言うと「お、そうですか」と微笑んだあと「もしかして妊活中? 検査薬は試された?」と続けた。
思ったよりも「いいえ」の声が大きかった私に、「分かりました。そうしたらエコーで見てみましょうか。まだお腹の上からは厳しいと思うので、念のため下から見てみます。隣の部屋でお待ち下さいね」とパソコンに何かを打ち込み始めた。
恐る恐る隣の部屋に移動すると、まるで随所に拘りの詰まった自慢の持ち家に招き入れたかのようなハイテンションの看護師がスリッパを抱えて待ち構えていた。
「こちらで靴を脱いでスリッパに履き替えて下さい。パンツを脱いだら検診台に座ってくださいね。あ、座る時は汚れないようにスカートを持ち上げて下さい。良かったらこのタオルを膝掛けにどうぞ」
単語の量に比較して口調はおっとりとしている。
ビニール製の検診台にひんやりと張り付く太ももの冷たさを感じていると、胸の辺りまで掛けられたカーテン越しに先生の声がした。
「お待たせいたしました。それではお尻を持ち上げますね。足が開きますよ~」
「はい」
毎日ありとあらゆる人間に開き続ける恥を知らぬ足なのに、自分の意思と無関係に足を開くのは人生二度目のことなのに、機械によってゆっくりと上向きに開かれていく足は何故か閉じたくなるほどひんやりと恥ずかしかった。
「大丈夫ですよ。リラックスしてくださいね」
そうして膣に棒型の器具が挿入され、暫くすると顔の横に位置するモニターに砂嵐のような黒い影が映った。
「おめでとうございます。妊娠されていますね」
ちりんちりん。
鐘の音と共に毎日五~六回現れる胡坐をかいた「おめでとうございます」という言葉が、私の目の前で表情も髪型も変えて体育座りをした。
「これが妊娠? あの。どれが赤ちゃん? ですか?」
「今、赤ちゃんは六センチ程の大きさです。小さいですが顔も手足も出来始めていますよ。ほら、心臓がぴこんぴこんと動いてる」
先生の指が、黒い砂嵐の影の真ん中にてろてろと動く小さな白い影を差す。
「詳しいことは先ほどのお部屋で話しましょう」
いつの間にか太もも部分が人肌程度に温まった検診台から降り、備え付けのティッシュで股を拭いた後、両手でお腹の上に手を置いた。おめでとうございます。
妊娠されていますね。
おめでとうございます。
妊娠されていますね。
体育座りをしたその言葉たちが私に向かって一斉に歩き出し、思わずぎゅっと目を瞑った。
それから診察室で話されたのは現在が妊娠十五週目であること、赤ちゃんはしっかりと脈を打ち順調に育っており初見では特段の問題は無いということ、母子手帳の交付を受けに市役所に行くこと、等という本来ならばきっと喜ぶべきことだった。
結婚していないと話すとお付き合いされている方はいるか、いないと話すと赤ちゃんの父親に心当たりはあるか、複数人あり過ぎるので取り敢えず無いと話すと産むつもりはあるか、というやり取りへ会話の雰囲気が一変し、決断のリミットは妊娠二十二週目までであると告げられた。
自分勝手に動いた口が「性別は分かりますか。セクシャリティーの」と聞くと、それが分かるのはリミットである妊娠二十二週目以降だという。それにしても性別が分かったから何が変わると言うのだろう、この自分勝手で我儘で憎たらしい口め。
診察室を出て、待合室に並ぶ長ソファに向かい、既に座っている人間の規則に合わせ正しい位置に座る。私には決断なんて出来ない。
他人との会話にすらイエスかノーという選択肢を持たず、取り繕った言葉でのらりくらりと生きてきた私に、そんな決断が出来る訳ないでしょう。
しかし、てろてろと動く白い影を、先生が心臓と話すそれを見た時に、私の中に私とは別の人間が宿っていることを知ってしまった。
私以外の人間のことなんて、私に決める権利がありますか。
人間は別の人間と決して交わることが出来ないという事実が骨身に染みたのは、小二の終わりだった。父と母と私が三人揃って過ごす日常はもう二度と訪れない、という現実を知った時である。
母と私が毎日真面目に通っていると思い送り出していた勤務先で、父は、自分より二十個も若いボブヘア―の人間に現を抜かしていた。
徐々に連絡が減り、徐々に帰宅時間が遅くなり、徐々に帰宅日が少なくなり、いつの日か帰宅する家が変わった。
最初は憤慨し離婚だなんだと騒いでいた母も、最終局面では「元の形に戻れさえすれば良い」と眉間の皴をほどいたものの、加害者であるはずの父の気が変わることは無かった。
家庭のお財布を父に握られていた母が、たった一人きりで探偵や弁護士を雇う金銭的余裕を持ち合わせるはずも無く、何とか自力で浮気の証拠をかき集めようとするも惨敗し、慰謝料は一円たりとも支払われなかった。
母は憔悴しきる日々の中、知り合いが営んでいた近所の雑貨屋に拾って貰いパートを始めた。
母と私が最低限食べるため、最低限生きるための選択であるはずだった。
異変を感じたのは小五の夏だった。
避難訓練を終えた私が通常より二時間ほど早く帰宅すると、玄関の鍵が開いていた。
母はパート中であるはずなのに、どうしたんだろう。私の帰りが早いと知って帰宅してくれたのか。はたまたパートが早く切りあがったのか。そう思い、音を立てずに玄関を開け、音を立てずにリビングのドアを数ミリ開けた。
中を覗くと、母がいた。
しかし、そのどこにも母はいなかった。
茶色い芝の上で目を瞑って耐え忍ぶ私のように床に寝転び、しかし頬はほんのりと赤く法悦とした表情を浮かべている。母の上に乗る人間は、母に以前知り合いだと紹介された雑貨屋の店主だった。
私は、音も気にせずリビングのドアを閉め外へ出た。そんな中でも、通い続けることが許されていたダンス教室も、発表会のための衣装やスタジオ写真の話が出た夏の終わりに許されなくなった。いや、父のせいでも母のせいでも無く、それは蛞蝓のせいだったように思う。
私が中学生に上がると家に入り浸るようになった雑貨屋の店主もいつしか姿を見せなくなり、母はスナックで働き始めた。
すれ違う昼夜の生活の中でたまに会う母の服装は派手に、化粧も濃く、香水は臭く、もう私の知っている母は消えて無くなった。
その間、父から連絡が来たことは一度も無い。
〈葉酸タブレット販売のご案内〉
〈分娩予約は二十週までに〉
〈母と子のメンタルヘルス〉
〈赤ちゃんのためにDHA・EPAを摂取しましょう〉
つい先程聞き流していたテレビの言葉が鉄製の重たい剣に変わって高熱を帯び、ずどんと音を立ててお腹に突き刺さる。
もうこの剣はどんな勇者によっても抜けることは無いと悟ったと同時に、私を支配する蛞蝓の力が少し弱まるのを感じた。




