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如雨露

あの日、あの後、小走りで退場した三峯教員が、その姿をお店に現す日は二度と訪れなかった。


一方の私も「フードルちゃんはこちらにどぞ〜」と副店長に言われ、控室が個室に変わったことをきっかけに、月曜から日曜まで入り浸り、朝から晩まで控室に寝泊まりするようになっていた。


ちりんちりん。

「カエちゃんおめでとう。出勤最初は二番さんですどうぞ~」


その夜もいつものように鐘が鳴るけれど、声の主は変わった。

掘の深い充血目の店長は唐突に神隠しにあった。

ミヤビさんの「女の子たちに手を出しまくっていたらしいわよ。あの二番目に若い子、妊娠させて問題になったんだって。そんな人に見えなかったけどねえ。大きな組織に消されたらしいわよ、風の噂だけど」の通り、今は同い年位若く見える赤髪の人間が店長を勤めている。

副店長が昇格すると思いきや、副店長はあくまでも副店長のネームを付けて血色の良い笑顔のままであったから、一瞬感じた社会の不条理は杯中の蛇影だ。


そうして入った着替え部屋の防犯カメラは、赤いランプが付いたままだった。

私はあの日カーテンごしに目があった充血目を思い出しながら、充血目を隠した神に届くように、カメラから目を反らさず瞬きもせず草臥れたブラジャーとパンツを脱ぎ捨てた。


「失礼します〜」こんこんと扉をノックする音と同時に、妊娠させられたはずの二番目に若い子が入室してきたので、タオルなんて気の利いたものが無い空間で申し訳程度に縮こまった。


しかし、二番目に若い子はそんな私に目もくれない。


「前の店長が辞めはった理由知ってますぅ? 私も誰か知らないんですけど、誰か妊娠させたらしいです。そういえば私も一回危ないことあって、赤マル出勤でタンポンが奥まで入って取れへんくなった時、取ってあげるわって言うからご親切にありがとうございますぅってベッドに寝転んだら、色々質問されながら関係ないところまで凄いぐりぐり弄られました。もう、くそ変態やんって思いますよぉ。痛いし下手やしアダルトビデオの見過ぎぃ。まあタンポンは取れたからそこは別に良いんですけどね」


とぺらぺらと喋りながら歌番組で時折目にする早技のように着替えを済ませ部屋を出て行った。



赤マルと言えば、私はここ最近ずっと自分の経血を見ていない。


私は、段ボール箱に無造作に入れられている新品のブラジャーとパンツを手に取り、「嬢が普段から着用しているものですよ」と言って一枚五千円で売っていた充血目を透視し顔に唾を吐いた。


二番扉に入るとところてんがいた。

店に来たのは三週間ぶりのことだ。

いつもなら鼻息荒く意気揚々とシャワーを浴びているはずのところてんはベッドに座り首を垂れているので、どうしたものかと隣に腰かける。


「久しぶりですね」

「うん」

「久しぶりに会えて嬉しいな」

「うん」

ゾウさんの形をした可愛い如雨露で水をあげても復活しない夏の終わりの向日葵のように、何を話しても首は垂れ切ったまま「うん」としか言わない。

「シャワー、浴びなくて大丈夫ですか?」

「うん」


その会話の直後水やりを投げ出した私により五分ほどの沈黙が続くといよいよ自力で生える気力を失ったようで、私の膝の上へ赤子のように倒れこんだ。


「嫁に、ばれたんや」

「嫁?」


「カエちゃんと会っていることが、嫁にばれてもうたんや」

「あら」

そうですか。あなた、ご結婚されてたんですか。おめでとうございます。

「めちゃくちゃ怒ってて、今朝なんてもう口も聞いてくれへんかった」

じゃあどうして懲りずにまた来たのでしょう。怒られたくないのなら、失えるものがあるのなら、懲りずに来なければ良いのではないでしょうか。


「怒られちゃったんですね」

「せやから、カエちゃんと会えるのは今日が最後になると思うんや」

 なるほど。懸命に育てた太客を失うのは、

「残念」

 ……極まりないけれど、正直この世界では石を投げれば当たるほどよくある話である。


「そうしたら今日は全部忘れて楽しみましょ」

「えっ?」

ところてんは、木製のところてん付きから前触れも無く突如すぽっと産み落とされたところてんの如くぷるりんと床に落ち、目を丸くした。


「僕たち会えなくなる言うてるのに、そない簡単な返事で良いん? 引き止めなくて良いん? 寂しくないんか?」

「寂しいですよ」

よく考えろ、冷静になれ。寂しいはずがないでしょう。

「でも、こればっかりは、しょうがないことだから……」


そうかそうかと頷きながら、ところてんは床から私の小さな胸に飛び付いて顔をすりすりと押し当てた。

「カエちゃん、ほんま優しいなあ。自分が辛い時でも僕に優しくしてくれるもんなあ。ほんまに優しい女の子やな。好きやわあ。可愛いわあ」

 優しい。女の子。可愛いわあ。


「そんなことありませんよ」

「なんやねん、もう。燃え上がってまうやん」

ところてんはそう言って唇に吸い付いた。


シャワーと共に忘れられた歯磨きの結果生まれたコーヒーやら煙草ヤニやら混ざる汚臭に吐き気を催しながら、今日が最後なのだと目を瞑り、いつにも増して聳え立つ赤黒い血管を無数に走らせるそれを咥え、ああ、心が無い私でも吐き気を感じることができたのは二度目ですので、吐き気は心から来るものではございませんし、加えて言うとそれから止まることの無い嗚咽にご飯が喉を通りません。


そうしてこの日最後だったはずのところてんは翌日もその翌日も訪れたから、あれはどうやら長い長い前戯だったようである。


一方の私が、意味も無く吐いた「今月まだ生理きてないんですよね、あとなんかずっと具合悪い。気持ち悪い」という言葉に

「たかがソープの女が調子に乗るんとちゃうで! たかが性の道具やろ! たかが性の道具がよぉ! 僕と一緒になれると思っとったんか! 気色悪い。恥知らずめ!」と額に青筋を張って怒鳴り散らし、こうしてはじめて部屋に店長を呼ぶ事態が訪れた。


同時にその時はじめて、生理が来ないということは妊娠の可能性があるのかと、止まらない吐き気は妊娠故だったのかと合点がいき、そういえばまだ今月は行けていない性の道具の定期健診にも行けるわと感謝をした。

そして、「恥を知らずめ!」が恥を知る為に店長とところてんが話し合うすぐ横でスマホを開き、唯一空きのあった明日午後一番に産婦人科を予約した。


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