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蛞蝓

翌朝、壁の薄い隣の部屋から聞こえる爆音アラームに目を覚ました。


青白い頬の私たちは、何事も無かったかのように、いや、特に触れる必要も無く、いや、酔っ払いが一部始終を覚えているはずも無く、今日は何をしようかという話になった。


「そういえば美郷、学校は?」

「今日火曜か。あるよ。午前」

「行かなくて良いの?」

「いるから、美郷が。考えて無かった」

「関係無いよ。良いよ、行って」

「分かった」

「ってか哲学の授業? 例の先生?」

「そう」

「ああ。じゃあ、一緒に行こうか」

「じゃあって何。一緒に? 授業受けるってこと?」

「うん。大丈夫っしょ」

「まあ」


そんな会話をして家を出た。

いつものルートで歩いた先で甘鮭むすびとお茶のパックを買って、隣の美郷は海老天むすびとミルクティーを買って、教室に到着したのは始業から三十分ほど過ぎた九時半だった。扉を開け教壇を見ると、消えて無くなりそうな三峯教員が今にも消えて無くなりかけていた。


誰もいない教室に向かい、いつものように下を向いて授業をしている最中だったので、視界の隅に入れたまま、俯き加減に視線をそらした。

美郷と二人、一番前の中央に並んで座る。


「……と、イデアのことを語った訳ですね。人間は欠けている存在を補うためにイデアに向かうのですが、これこそがプラトニック・ラブと囁かれる言葉の由来です。愛というのは哲学史上最も重要なテーマの一つと言っても過言ではありません。どう思いますか」


三峯教員の語る言葉は、一行でも欠ければ理解が追い付かない。

最初からしっかりと聞いておけば良かったと、想像以上にこの授業に興味を抱いている自分の眉間に皴を寄せていると、隣に座る人間が右腕を挙げた。


隣に座る人間は当たり前に美郷なのであるが、三峯教員の「どう思いますか」に「こう思います」と挙手する人間を知り合いだとは思いたく無かった。


「先生、聞いても良いですか」

 三峯教員の右眉がぴくりと上がる。


「それはどんな質問ですか」

聞いても良いかは質問を聞いてから考える、とでも言いたそうに右眉を正位置に戻す。


「愛のイデアについて教えてください」

机の上に両肘を置いて食い気味に答える美郷に、一呼吸置いて口を開いた。


「その質問は本質的には間違っているので、つまり本質的に間違った質問にはどうやっても答えを返すことが出来ません」

美郷は顎を上げて目線を右横にそらした。

「じゃあ、人を愛するとはどういうことですか」


「はい。哲学的にはこう答えます」と話す三峯教員に、「いや、哲学的にではなくて、先生が個人的に答えてください」と続けた。


三峯教員は下を向いたまま「個人的には」と言って束の間口を閉じ、「個人的には、ドラッグの一種であると考えます」と言った。


「肌と肌が触れ合うこと、唇と唇が触れ合うこと、高揚する肉体、強い執着心、それらは人に強い快感を覚えさせます。

そしてそれらが自分に欠けているという事実に人は頭を悩ませ、幻覚を見せ、誤った道へと走らせます。

それらは抜け出さなければならない領域であると共に多いな恥であるということは、アダムとイブを思い出して下さい。

善悪の区別を知る知恵の木の実を食べ、知恵を得た二人は、人間がそれぞれ独立した存在だと知りながら、しかし、いまだ完全に結ばれることのない存在であることを知り、それを恥じるのです。

恥じても、罪の意識を感じても、それでも恥より罪より何よりも強く覚えている快感に手を染めてしまうのが人間である証拠です」


三峯教員。



人を愛するという言葉の意味を理解出来ない私は、恥じることも、罪の意識を感じることも出来ない私は、恥より罪より何よりも強く覚えているという快感を知らない私は、たった体ぼっちの私は、果たして何者なのでしょうか。


私は人間ですら無くなってしまったのでしょうか。

アダムとイブはどこで知恵の実を手に入れたのでしょうか。

ねえ、どう思いますか。


「先生は、人を愛したことがありますか」

美郷がまた唐突に問う。


三峯教員は無表情を貫いていた。

「それは授業と関係のある質問とは思えません」


「それでも大事な質問なので、答えて下さい」

 美郷は前傾姿勢のまま食い下がらない。


「すみませんが答えることは出来ません」

「じゃあ、独り身ですか。奥さんか娘さんはいますか」


やめろ。

その汚らしい口を閉じろ。


「それは」

三峯教員は数瞬の間を置いた後、くっきりと目を開け、美郷の目を見つめた。


「かつて、いました」


ぷつり。

その時、私と美郷を繋いでいた透明の唯一本しかない細い糸が音を立てて切れた。


美郷は、人間に心があり、そこから生まれる愛があることを疑わない、疑う必要の無い安楽な人生だった。

美郷が両親からぬくぬくと注がれた眼差しは、美郷をすくすくと成長させ、それこそが人間の正しい姿なのだと、それ以外に正しい人間の姿など無いのだと、美郷自身を殴り込み続けている。


美郷は、自分が誰かを愛せる人間であることを疑わない。

自分が誰かから愛される価値のある人間であることに、疑問を抱かない。


私は切れた糸と共に、美郷の存在を頭から消した。

とは言え、そもそも私はイエスかノーかという二つの選択肢を持ち合わせていないので、適当に飾られた体裁の良い見せかけの自分を吐き続けることが出来る。

だから、「美郷~もうやめな」と笑いながら口を開くことも出来る。


その日学食で渡された〈日替わりうどん〉は型どおり山菜温うどんだったけれど、隣で美郷が選んだ日替わり定食は参鶏湯だったので、わざわざ専門店に赴かないと食べられない類の参鶏湯であったから、定食を修飾する日替わりという言葉を信用してはいけないという事実に別条は無かった。


アパートに帰り、「そっちに二日行く」と話していた美郷のことを二泊だと思っていた私の勘違いに気が付いたのは、玄関に投げ捨てられたボストンバッグに荷物を詰めている美郷を一瞥した時だった。


「新幹線の時間、十五時だからさ」

「へえ」

「バイト、外せないからさ」

 ボストンバックが肥えていく。

「今教えてる高校生がもうすぐ入試で」


美郷が塾の講師をしていることを聞いたか聞いていないかは覚えていない。知ったのは初めてだったけれど、また「へえ」としか思わない。

「あ、違った。十五時三十分だ。少し時間に余裕ある。買いたいお土産あるんだよね」

「へえ」 


そうして私たちはアパートを出て、駅へ向かった。

足早に歩く私の一方で明らかなスローモードを決め込む美郷は、駅の看板の前に到着するとスローモードどころか足を止める。寂しいやら、帰りたくないやら、またすぐに会おうやら、今度はいつ空いているのやらと、スイッチが壊れ制御の利かない猿のシンバル人形の様に、ひたすらに口を動かし続けた。

「お土産買うんでしょ」

 美郷の口を遮る。

「うん」

「もう行けば」

「あ、うん」

 美郷は下を向いてまた「うん」と重ねた後、ざんばら頭を掻きむしり顔を上げた。

「楓、ありがとう。またね」

 私の方へ一歩近寄り、上半身を傾ける。

何をするのかと思いきや、合わせてきたのは唇だった。


午前中にぷつりと切れた美郷から生える透明な糸が、排水溝で水垢と共に絡み合い匂いを放つ。

私から生える糸は乾燥し、固まった。息を吹きかけるとぱらぱらと地面に崩れ落ちる。

唇が離れたことを確認した私は、美郷と目を合わさずに「じゃあ」と言い、背を向けて歩き出した。


真っ直ぐ歩き、右に曲がり、左に曲がり、また真っ直ぐ歩いてアパートのドアの前に到着するまで、一度も振り返ることなく歩き続けた。


鍵をあけて家の中に入った私はすぐに洗面台に向かい、突き出した両掌の中に冷たい水を溜める。


じゃばじゃばと唇に水をかけ、必死に洗った。

引き出しを開け、控室から持ち帰って来ていたうがい薬を取り出す。

蓋を開いて茶色い液体を両手に注ぎ、唇に塗る。


もう一度、塗る。


苦い汁が私を満たしていく。


そうして歯ブラシが入っていたプラスチックコップにうがい薬をなみなみ注ぎ、飲み干した。


何回もそれを繰り返した頃、ポケットの中で一回スマホのバイブレーションが鳴り響いた。


顔と手から水滴を滴らせたまま、ポケットからスマホを引き抜く。


差出人の宛名は〈美郷〉。

親指でタップし、メッセージを開いた。


 〈二日間まじで楽しかった。ありがとう。楓のこと、本気で好きだよ。これからは彼女としてよろしく。またすぐ会いにくるから〉


 爆弾だ。


 「でもあたしはずっと爆弾を抱えて生きてる。爆弾の栓を抜いたら、きっともうクリスマスツリーも一番星も全部全部見れなくなる」

 「爆弾?」

 「楓は無い? そういうの」


あの夜語った爆弾は、私と同じ型かもしれないと感じた爆弾は、私とまったく異なる型をした爆弾だった。


クリスマスツリーに飾られた一番星がその証だったことに、私は何故気が付かなかったのだろう。

何故糸が完全に切れるまで放っておいたのだろう。


度々来る連絡に居心地の悪さを感じなかったのは、確かに美郷の前では取り繕った返信をしないで済んでいたのは、私の体に心が無いから若しくは美郷が持って生まれた才能なのだろうと思っていたけれど、その全てが間違いで、私に嫌われないよう好かれるよう誠実で親切な人間であろうとした努力の結果だった。


全てが腑に落ちた瞬間、全てが崩れ落ちた。


私が美郷に何をしたというのだろう。美郷の何を動かしたというのだろう。何の意味があるのだろう。何を求めているのだろう。視界がぐらぐらと揺れる。私には心が無い。


愛が生まれる隙は無い。


美郷から向けられた好意がねっとりと肌の表面を這い回り、痺れる足をこじ開けて股下に潜り、膣から子宮に粘ついたかと思えば、血管から全身へと一気に駆け巡った。


あ、これ、あれだ、あの時の蛞蝓だ。

今度こそ、私の体の中に棲まわせてなるものかふざけるなよ。


私は買い替えたばかりの灰色の絨毯に額を付けた。


人差し指と中指を合わせ出来る限り喉奥まで突っ込んで嗚咽を誘い、胃の中の汁が全て無くなる極限まで吐き出した。

抵抗力を失った蛞蝓が、うがい薬と共に、口から鼻から目から壊れた水道の如く飛び出してくる。


体の中に心が無い私でも吐き気は感じることができたので、あの時の祖母も心はすでに旅に出ていたのだと知った。


 〈楓、本当に可愛かったよ〉

 〈あ、告白はちゃんとするから安心して。記念日は別で作ろう〉


連続で鳴るスマホのバイブレーションが、絨毯と顔中に纏わりつく蛞蝓を小刻みに揺らす。

スウェットを脱いだ。

靴下を、下着を、体に纏わりつく全ての布を脱ぎ捨てた。


そのまま四つん這いで棚から殺虫剤の缶を手に取ると、顔に体に、膣から体の中へ、自分の体が空になるまで吹きかける。


皮膚や性器が体中のあらゆる場所がひりひりと、焦げ焼ける痛みに悲鳴をあげた。



思い返せば、私が性をお金に変えようと思ったのはいつだったか。


大学一回生の一年間は、高校時代に慣れ親しんだ勝手知ったるコンビニでアルバイトを続けた。

しかし大学生相手とは思えぬ時給の低さに生活が困難になり、偶然駅前で配られたティッシュ裏に刻まれた時給の高さに目が眩んだ。

電話をかけた。ガールズバーだった。


最初こそ少し緊張したもののすぐに慣れ、そのうち続く夜勤に体を壊しかけた頃、ボーイから「ここよりもっと時給が良くて効率的な昼職がある」と系列店を紹介された。

風俗だった。


性を売ることに何の躊躇も感じないと気が付いたのは、いや、自分が楽になることに気が付いたのは、一番最初の客を相手にした時だった。


「はじめまして」

「あんた、初日やろ? 最初の客やろ?」

「はい。初めてです」

「やば。最高やん。自分何歳や」

「一九歳です」

「一九歳。ええやん。ほんなら処女か」

「違います」

「なんやねん。はあ、今の女は股開くのが早いな。ほんま呆れるわ」

「すみません」

「まあ、ええや。取り合えずそこ、膝まづいて」

「はい」


「舐めてくれや」


二人目、三人目、四人目、五人目、六人目、七人目、八人目。考える暇も無くあっという間に人数が増えていった。

相手をすればするほどあの日穢れた自分が消えていく気がした。



雑草が生い茂る空き地で蛞蝓に棲みつかれた小三の秋の自分。

大好きだったダンス教室からの帰り道、知らない人間から呼び止められた記憶が確かに薄れていった。


「ねえ、君。ちょっと良いかな」

 突然の声に自転車のブレーキを踏み、辺りを見回した。


「そう。君だよ、君」

「私ですか?」

 知らない人間が私を呼んでいる。目を丸くした。


「君、名前はなんて言うの」

「カエちゃん。カエちゃんです」

「カエちゃんかあ。可愛い名前だね」

「ありがとうございます」

 頭を下げて礼を、言った。


「おじさん図書館を探しているのだけど、この辺りに図書館はあるかな。カエちゃん場所知ってる?」

「駅前に行けば大きな図書館があります。それかここを真っ直ぐ行って右に曲がると小さな図書館があります」

身振り手振りそう丁寧に説明をした。


「ありがとう。助かったよ」

 髭面の知らない人間は微笑んだあと、会釈をして去ろうとする私をもう一度呼び止めた。

「顔にゴミが付いているね」

「ゴミですか?」


 顔を触る私に「僕が取ってあげるよ」と言いながら付けていた手袋を外し、「目を瞑れる?」と聞いた。

言われた通りに目を瞑ると、突然、蛞蝓に似たそれが、両親以外にまだ誰も触れたことの無かったはずの私の唇の上を、ゆっくりと、しかし確実にねっとりと這い回った。


今自分の身に起こっていることが何なのかどう言う意味を持つ行為なのか。

色の存在しない万華鏡の中に閉じ込められたかのように、全く理解出来なかった。


「なあカエちゃん、ちっちゃい可愛い女の子のカエちゃん、なあ。これは誰にも秘密だよ。お母さんにも秘密だよ。なあ、二人だけの秘密だよ」


 そうして唇に放出された生温かい汁は、口内を通り首筋を突き抜け、腹に重くのしかかった後、血管を辿って津波のように、肺へ胃へ肝臓へ大腸へ小腸へ、子宮へ膣へと駆け回った。


次に開かされた足からも出ては去りを繰り返したあと、心臓がびりりと音を立て遂には私の全てになった。

そして確かにそこにあった麗しく澄んだ皴の無い心だけが、屈強な人間の腕から逃げることに成功し、逃げられなかった身体には巨大な蛞蝓が棲みついたのである。


何分、何時間が経ったのだろう。


雑草の上で寒さも忘れて仰向けに寝転んだまま、遠くで「ありがとう」と叫ぶ人間の声を呆然と聞いた。


震える手で洋服のボタンを締め、掛け違いは無いかと念入りに確認した後、粘液がべちょりと伸びる口元を袖で必死に拭きながら自転車に跨った。

ふと雑草の上に血痕を見つけた時、それが何と名前の付く行為かも知らなかったのにどうしてだろう、この事は母にも先生にも友達にも誰にも、決して言ってはいけないことなのだと、知ったら皆が傷付くのだと唇を噛んだ。


帰宅するとすぐに洗面台に向かい、何度も何度も何度も何度も口を濯いだ。

それから風呂場へ行き、冬の真水の冷たさも感じぬまま体中をごしごしと擦り続けると、足の間から垂れている血に気が付いた。

何の血か分からなかった。


「あら、先に帰っていたのね。おかえり。もうお風呂だなんて外寒かった?」

脱衣所から尋ねるパートから帰宅した母に、「ただいま。寒かったから入っちゃった」と、母からは見えやしないのに全力の笑顔で答えた。

お気に入りだったピンク色のイヤーカフを忘れた事に気が付いたのはそれから随分と先のこと、あの日から涙を一滴も流していないことに気が付いた頃のことである。


あの日の汚れは嘘だったと知るために、私は決してあの日に穢れた訳ではないことを証明するために、元々醜かった自分を見つけ出すために、生まれてから死ぬまで誰からも愛されることは無いのだと誓うために、私は私をもっともっともっと血眼になって自分を汚していく。


汚れれば汚れるほど、穢れれば穢れるほど、あの日の記憶が薄れ、心が満たされ癒やされた。


それなのに今、決して郷美のせいではないと知りながら、私はあの日の記憶を鮮明に思い出している。やはりどうか親愛なる心だけは不帰の客としてこのまま決して帰ることの無い長い旅に出ていて下さい。


私は、蛞蝓だらけの指をスマホに這わせ、美郷の連絡先を完全に消去した。

そうして連絡先と共に萎んで溶けていく蛞蝓を横目に、意識がうっすら遠のいていくのを感じた。


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