改訂三版のための序文-2
ただし、今回の改訂では、あえてこれまで以上に手を加えることにした。箇所は多くないが、特に用語の面で、現在人口に膾炙しているような言い方が適切だと思われる箇所を言い換えた。最初の改訂の際には、できる限り原文を尊重する方針としたが、今回は、そのようにして、多少なりとも、いわば現代的な装いとなるようにした。
表面的にとはいえ語彙の面で矛盾が生じることは明らかだが、その上でなぜそのようにしたのかと言えば、現在のところ、これ以上の改訂の予定あるいは見込みがないからである。もちろん、それは毎回同じではあった。第一部が書かれた当時において、その部分はそもそも「第一部」ではなかったし、そのために、冒頭の「1」の表記もなかった。これは最初の改訂において、第二部を追加する便宜上追加したものであって、「3」以降を続けられるようにしたわけではない。ただ単に、既存の箇所と追加分を区別するというだけのことだった。
とはいえ、第二部を書き終えた後に、いずれ第三部を書くことになるのではないかという予感がなかったとは言い切れない。確かに最初の改訂後、私は本書についてすぐに忘れ去ったが、それは第一部の完成後も同じだった。本書は、むしろその存在を私が意識していた時期の方が、時間としては圧倒的に短い。ふと思い出すこともなく、ふと何かのきっかけで目について意識に顔を出すということもなかった。執筆あるいは改訂の時期の狭間には、完全に存在感を消しているのである。
しかし、読者諸氏にはお分かりの通り、それぞれ同じような、いやほとんど同じことをきっかけとして、私の元に舞い戻ってくる。あるいは、そこから離れようと背を向けて歩いていたと思ったら、結局そこに舞い戻ってしまう道を選んでばかりいたというようなことか。
読者諸氏などと書いたが、私以外の読者は念頭にないし、存在しないと思っている。だから公開する気が起きたことは一度もない。そもそも本書は、これは一体何なのか?
私自身にとっても、ここに書かれているのは自己満足の妄想ですらない。ならば、私という読者すら想定されていなかったと言うべきかもしれない。しかし読者は実際にいたのである。私にも想定外の、正確に言えば「当時の」私も想定していなかった、「今」の私という読者が。
従って、私の呼びかけは私だけに向けられている。それを聞くことができる私がいれば良いのだが、その可能性は、今のところ疑わしい。もし次の改訂があれば、この節の「私」という用語の使い方が厳密になるように、修正か注記をするべきだろう。
しかし、今の私には、すでに述べた通り、その機会の可能性は無いように思える。それは本書の存在がどうせすぐにまた私の中から消えてしまうだろうからではなく、その逆で、これまでにないほどに、その存在感が強く、そして長く持続しているからである。このため、第三部の追加だけでなく、あえて大きな(相対的には大きい)改訂を施したのも、一種の逆療法として、本書の存在感を、そうやって私の中で消費してしまおうとしたからなのかもしれない。どうやら、うまくは行っていないようだが。
読者は本書の第三部が持つ重大な欠陥あるいは欠損部に気づかれるはずだが、それも改訂の可能性を考えられないことと無縁ではない。単純な論理として、その箇所も含めて第三部が完成することが、そもそも次の改訂に必要なのだから。
非常に疑わしいが、仮に改訂の機会があったとして、読者にして筆者であり、さらに改訂の担当者は、本書、特にこの序文についてどう感じるであろうか。今のところそうなり得る可能性があるのは一人だけだが、今はまだ存在すらしていない。持つべき最も適切な感想は、くだらないと一笑に付すことだろうが、さて。
本書は私にとって、今では忘れたい存在でしかない。かつては、勝手に忘れてしまえたものであり。今回もそうすることができればいいのだが、それはつまり、これまでと同じように、第四部の追加とさらなる改訂を私に強いることを意味する。そのような機会が来ないようここでは祈ることにして、序文を終える。
以上、筆者。(かつての私と同じように入試のためにこの街を訪れたらしい、見慣れない制服の娘を見かけた日に)