2-1.経緯(2)
二つ目。私が真面目くさっているからだ。正確には、中途半端に真面目くさっているから。おかげで、カンニングをした罪悪感で苦しむという意味不明な矛盾に陥っている。
大学の講義がきちんと理解できたことが、一度でもあったかどうか疑わしい。高校の勉強とはまるで違っている。それは単に、数学から解析学とか線形代数学という名前になったというだけの話ではなくて、文字通りに、別の科目というか分野というか、全く別物を前にしているように思えた。
高校では、難しくてよく分からない曖昧な話は単元の最初の方でさらっと済まされ、後は問題の解き方を覚えるだけだった。だから、根本的な理解は必要なかった。そんな状態でも良かった、というか、そんな状態で分不相応にこんな大学に入れてしまったものだから、解法が全部書いてある教科書の練習問題すら、理解できずに苦しむハメになったということだろう。
頭の中で、いくつもの、離れた場所を、同時に動かさないといけないような感覚だった。そしてそれがうまく行ったことはほとんどない。結局理解して記憶できたのは、ほとんど、試験で出される問題を答えるために必要な情報や方法だけだった。
しかし恨み言を言わせてもらえば、それを何に使うのかが分からないままだったから、前向きにというか、どこかで真剣になれなかったんだろうと思う。もちろんこの先、卒論とかを書くときには、全部ではなくても使うことになるのかもしれないけれど、今はまだ、どこにたどり着くかも分からないのに、とてつもなく急な山というか絶壁を登らされているような感覚でしかなかった。
もちろんそれ自体が、つまりそこでの経験自体が目的という場合もある。例えば学生実験。「学生実験棟」という、そのためだけの建物に毎週通い、毎週違う分野の実験を行い、毎週苦しんでレポートを書いた。いや、書いている。
確かにそのまま役には立たないようなことばかりではあったけど、シラバスにある授業の目的、つまり「探究心を養う」だとか「実際に手を動かし、体験することで、科学法則と現象の関係に触れる」だとかは達成されているし、意味があるような気はする。だからと言って、喜んで受けられるというわけではないけれど。
紙や黒板や画面の上(中?)で展開される学問の方は、そうも行かない。例えば中学生の頃、つまりいわゆる中二病が私の中で最高潮だった頃に、イラストと、どういう理屈でそういうことになったのかという部分が完全に省略された魅惑的な言葉で表された現象を通じて夢中になっていた宇宙とか量子力学とかいったものは、実際に触れてみると、そういう分かりやすさ、無責任なほどの分かりやすさとは無縁の、どう扱ったらいいのか分からない、そしてここからどうしたらあんな結論が出てくるのか分からない数式しかないのだった。そこに楽しさは見つからないし、有用性というか使い道も(今はまだ)分からないという状態では、どうにもならない。