改訂三版のための序文-1
第一部冒頭での、筆者、すなわち私の主張とは裏腹に、本書は恐ろしくくだらない事柄で占められている。もちろんそれは、今の私にとっても、くだらなく思えているということである。なぜそのようになったのかと言えば原因は明らかで、つまりここでの「私」と本書の第一部から第三部のそれぞれに現れる「私」は、もはや別の存在だからである。空間的、および時間的諸条件に加え、「私」と一貫して称されている私自身も多くの点で変化している。第一部から第三部において、つまり最初に本書が書かれ、この三版の改訂に至るまでには二十年ほどの隔たりがあるのだから、外的要因だけでなく、私自身の内的環境による認識の変化があるのは当然のことであろう。
もっとも、経過した時間によって変化が進んでいったと単純に考えるのは妥当ではない。なぜなら、それに従えば、今現在のこの私を基準にすると、この序文を執筆する直前に書かれた第三部、つまりこの改訂三版で追加された内容がもっとも変化が小さく、第一部はもっとも変化が大きく、第二部、つまり最初の改訂版(二版)で加わった部分はその間に位置することになるが、全くそうではないからである。
正直に言えば、第一部こそが現在の私にとってもっとも理解あるいは共感しやすい。第三部がそれに続くが、単純に時期が近くて記憶が鮮明だからということに過ぎない。第二部が最も理解しがたい。あるいは、そこで書かれた説明を理解することはできるが、同じような心境に至るのが、最も困難になっていると言うべきか。例えば第一部の頃には政治家はみんな馬鹿だと、勘違いした子供に特有で、ありがちな見方を抱いていたが、第二部の頃にはもっと冷静に、それぞれ検討した上で判断しなければと考えていた。ところが第三部の頃には、第一部の時点とほとんど同じ心境になっているのである。
いずれにしても、本書の各部分はその当時に書かれたものであって、遭遇した出来事や、実際に考えたり感じたりした時期から数日と経過しないうちに、それぞれ一応の完成を見た。今回の改訂三版で、加筆、および改訂は二度目となる。
改訂と言っても、たいした変更は無い。名前を伏せているようなところも、後になって配慮して修正したわけではなく、その当時からそういう形にしていた。別の箇所に、口汚い幼稚な表現がそのまま残っていることからも、これについては察していただけると思う。馬鹿げた本書のタイトルについても、変えてしまいたいがこれ以上にふさわしいタイトルがない、あるいは考えたくないということもあり、最初に付けたままである。第二部以降が付け加えられたことで、タイトルの意味がずれているのは明らかだが、だからと言って適切に修正するというのは無理だったし、意味が変化しより一層適切になったとこじつけて強弁することもできる。する気はないが。
誤字等については、意味不明になってしまっているような場合は今回修正したが、そもそも当時から何回か読み返していたので、この点についてはたいして手を加える必要がなかった。もちろん、それは誤字脱字が存在しないはずだと自信を持っているというわけではない。あったとすれば当時の筆(正確にはキーボードである)の滑りと、それを起こした感情を保存しているものと考えていただきたい。当時の文体がその役割を果たしているのと同じように。逃げ道を用意するのは愚か者の典型的な態度である。