第八話 再戦と新たな備え
月のかわりに夜空を照らす、黒い太陽。
あれは太陽であり、月であり、北極星だ。
沈まず、動かず、そして不吉な、混沌の象徴。
「~っ、っあぁあああ……」
岩風呂に身を委ねながら、篝火の眩しさに眼を閉じる。
熱い湯が心身の疲れを癒し、体の芯まで温めていく。
最高だ。住処たる洞窟の前に即席で作られた風呂とは思えん。
彼女が魔術で岩をくりぬき、同じく魔術で谷底の川の水を溜めて、焼けた岩を沈めて作ってくれた時は、あまりの早さと魔術の精度に目が点になった。
ちなみに、彼女の風呂は洞窟の中に作ってあるらしい。
見になんか行ってねえぞ。興味津々だけど。
「一時は気が狂うかと思ったけど、ホントラッキーだった……」
体を見下ろす。傷痕、増えたな。でも……
レベル 29
生命力 20
混沌量 15
持久力 15
瞬発力 15
体格 12
筋力 10
器用 10
理力 12
人間性 89
……たぶん、最低限の準備は調った。
ゲーム風に換算すれば、今の俺はこんな数値になるだろう。
あれから五日。俺は谷底の敵性生物を斃しに斃した。
カオス・マターを稼ぎに稼ぎ、幾度となく魔女ヴィオラに力へと変えてもらい、時には混沌結晶に変えて、役立つ小物と交換してもらいもした。
まず生存能力を高める方向で成長させたが、ゲームだったらこんなステ振りはしない。危険な場所も敵も知っているし、逃げ方もやり過ごし方もわかっているから、さっさと攻撃力を増やす目的で、筋力、器用、理力のどれかに集中して振るからだ。
しかし、この現実はゲームでもなければ遊びでもない。
まず生存能力をある程度確保し、安全マージンを得る事を優先したのだ。
とはいえ、様々なビルドにおける最低限の数値以上には成長させていない。今後どうなるかわからないから、いくらでも調整できるように。
それと、実験的に体格を少し成長させてみた。
イメージしたのは足腰強化。特に、大腿筋の表と裏、そして下腿筋だ。
ざぶり、と、湯船から出て、もらった布で体を拭く。
下半身はとくに発達し、足の長さも少し伸びた気がする。
一回り太くなった大腿とふくらはぎは力強く、一流アスリート顔負けの、野生動物じみた跳躍が可能になった。
体を洗った石鹸は、ヴィオラが分けてくれた。
ついでに服も、雑ではあるが洗濯し、篝火で乾かしておいた。
谷底の夜風で火照った体を冷ましたのち、乾いた服を取る。
ひとまずは上下の肌着だけ。後々はレザーアーマーとかも欲しいな。
「……そろそろか」
夜空の黒い太陽が、月の如き淡い光から少しずつ輝きを増していく。
やがて空は、妖しい黄昏色の明るさに染まり始めた。
この世界にも夜があり、そして朝がある。
「部屋着のジャージ、もうあちこちボロボロだな……」
が、贅沢は言ってられん。黙って着る。
着心地はまだまだ悪くない。なによりこちらの世界の服で、これより上等な服が手に入る保証は無いから大事にせんとな。
「ベルトよし、ナイフよし。ロングソードよし。ブーツよし。外套よし」
腰袋とポケットの中の小物もチェック。
よし、全部ある。これで準備は完了だ。
いつでも出発できる恰好になった。
「いよいよか……」
空が明るくなっていく。急速に。
この世界に迷い込んで、六日目の朝がやってきた。
「もう往くか?」
ちょうどそこへヴィオラがやってきた。
結局、彼女がこれだけ世話してくれた理由はわからなかったな。
「ヴィオラ様、短い間でしたが大変お世話になりました。ご恩は忘れません。この借りは、いつか必ずお返しいたします」
「よい。気にするな。私も久々に楽しい時を過ごした故な。にしても、この数日ですっかり発音が達者になったな」
そういやもう喋るに苦が無えや。
しかし本当に世話になった。ごはんも風呂も寝床も提供してくれた上に、俺のちょっとした思いつきにも真剣に考えてくれて……いやこれは彼女の嗜好の問題だわ。
とはいえ、なんでこんなに良くしてくれたんだろう?
「望外の厚遇、本当にありがとうございました。ですが、どうしてここまでして下さったのですか?」
気づいたら聞いてた。
「ふふっ。不思議か?」
すると彼女は、ここ数日でたまに見せてくれていた微笑を玉貌に浮かべ、どこか切なげな表情で語り始めた。
「衷心からの感謝、礼儀、誠意……人間性を喪い、デーモンに成り果てるどころか、亡者の如き【なりそこない】に落つる者多き中で、世に貴公のような者の少なきことを知れば、情も湧こうというものよ。まして出逢うてから、隠し事こそ有りはすれど、一度も偽りを申すことが無かったとくれば、な」
「……? 俺が偽りを言っていない保証など、どこにも───」
「───あるさ。魔女と聖女は偽りを見抜く故な」
「えッ!?」
「己も偽りを云えぬ、という誓約を遵守する限りはな。ふふふ……やはり知らなんだか」
無かったぞ、そんな設定?! これは記憶に自信がある!
彼女らが偽りを見抜くような場面は勿論、匂わせるようなフレーバーテキストだって無かった!
これは……本格的に気を付けないと。
何者かがこの世界をモデルにカオスチャンピオンを作ったのではないかという疑惑は半ば確信に近いものがあるけど、仮にそうだとしたら、制作者が意図的に伏せている事実が相当あると見た方がいい……!
「魔女も、聖女も、縋る者や崇め奉る者こそ居れど、本質は孤独なものさ。だからどちらも、血の異なる姉妹を欲しがる。混沌の理を知れば知るほど人間性を喪っていくことに怯え、同じ恐怖を抱ける者を懐に抱えたがるのさ」
「そういう……ことでしたか」
「素直な雛鳥との会話など、特に和む。貴公が女であれば、妹として抱え込んでいたであろうよ」
「あ、あはは……」
どんな態度取ればいいのかわかんねえ……笑っていいのかこれ。
「前にも云ったが───」
困った俺に、彼女は言葉を付け足した。
俺はこの時の彼女の顔を、決して忘れはしまい。
「───人間性を大切にな。デーモンになど成るんじゃないぞ」
ともすれば冷たくも見えがちな切れ長の眼に、慈愛と諦念が複雑に入り混じった感情を湛えた……人間味に溢れた、この儚い微笑を。
「はい。そのお言葉、忘れません。では、往きます」
「うん、それで善い。ではな」
同時に、俺たちはあっさりと、お互いに背を向け合って別れた。
◇ ◇ ◇
「ここだ……こういうところは記憶の通りなんだな」
目の前には断崖絶壁、に、見えて、実はつづら折りの細い上り坂になっている、谷の上へと繋がっている道があった。
各所に落下ポイントがあり、もちろん登れば登るほど、落ちた時に大怪我では済まなくなる。無縁墓の谷底の難易度を上げている要因のひとつだ。
加えていくつかの横穴があり、敵が潜んでいる。
しかも、ゲームでは積極的に谷底へ突き落とそうとしてくるAIが組まれているという、殺意に満ちたエリアだった。
ワンミスイコール即落下。崩れる足場の天然アスレチック。
谷底初日は挑む気にすらならなかったこのルートだが───
「行くぞ……!」
───突破する準備と自信はできた。
踏み出す。進む。岩壁に沿って慎重に。
手すりなどという親切なものは無い。
この世界には、安全基準とか安全配慮義務なんて言葉は無いのだ。
(最初の折り返し……周辺に敵影無し)
ナイフを抜き、岩壁の隙間に刺し込んで、とっかかりにしつつ細い足場を進んでいく。どうせなまくらのナイフだ。多少雑に扱ったって構わない。
(ここでもう一度折り返し。そして横穴が……あった)
ちょうど死角になっていて、位置的に存在に気づけなくなっている横穴だ。この中に───
「───いるんだよなぁ! お前が!」
ギャアッ?! という、人外の叫び。
さほど深くない横穴に潜んでいたレッサーデーモンに、俺は抜剣したロングソードで、不意打ち気味に突き込んだ。
「【燃えろ】!!」
岩と炎の魔女が編み込んだ混沌の炎が、刃を通してレッサーの体内に叩きこまれ、小さきデーモンは一撃で炎上、絶命した。
知っている。ひっかかっている。ゲームで何度も。
ここに潜んだレッサーデーモンは、敵を見つけると不意打ちで谷底に突き落とそうとしてくる。
このルートには、悪意的で厄介なことこの上ない配置の敵がいるポイントがいくつもあり、しかしこちらが相手を一撃で斃せる攻撃力を用意できており、加えて初見でないのなら、対処するのはそれほど難しくない。
【炎のロングソード】様々だ。マジで殺傷力が高い。
序盤で持ってていい武器じゃねえわコレ。
感謝しますよ、神様仏様ヴィオラ様!
あと名前も知らない混沌の戦士さんよ!
(よし、順調!)
その後もおおむね問題なく、絶壁の半分を登り切った。
多少肝を冷やす場面もあるにはあったが、ほぼ想定の範囲内だった。
やがて大きな横穴が見えてきた。これも記憶の通りだ。
この横穴は中も広く、戦闘も可能な程度のスペースがある。
踏み外したら即落下の岩壁ルートは一度途切れ、ここで少し広めの洞穴を経由して、上半分の岩壁ルートに移るのだ。
そこで、俺は足を止めた。
十秒。二十秒。身動きせずに待つ。
しばらく待った後で、俺はゆっくりと踏み入った。
「よう、待ってたぜ……【なりたて】」
そこには、暗い洞窟をカンテラで照らし、岩の上に座って俺を待つ、あの時のフードの男がいた。
(待ち伏せてたか……)
一見、敵対するような素振りは無いように見えた。
しかし、抜き身の曲剣はすぐ手に取れる位置にあり、俺の一挙手一投足を見逃さぬよう警戒に満ちたぎらぎらとした目つきからして、少しの油断もできない状況であることは疑いようもなかった。
「すぐにやる気は無えよ。外套をめくれ。得物を見せな」
ひとまず俺は従った。外套の前を開き、ベルトに下げたロングソードと腰袋を見せる。ついでに、腰の後ろのナイフも見せた。
「……杖もなし。アミュレットやタリスマンみてえなブツも身に着けてなし、か。魔術師ってわけじゃなさそうだな」
……魔術は発動を補助する触媒が無ければ、使うのに十数秒もの集中がいるからな。そりゃ魔術師には見えなかろうよ。
奴の目は俺の腰のロングソードから動かない。
大胆さと慎重さが同居した挙措だ。下手に動かない方がいいな。
「テメエは【魔女の眷属】とか名乗ってる連中かとも思ったが、どうも違うみてえだな」
こいつもその勘違いしたのか。どんな連中なんだ?
ゲーム中、それっぽいキャラは出てこなかった。
フレーバーテキストの中で存在が示唆されてるだけで、詳細がわからないんだよな。
「しかしあの偏屈な魔女がなあ。風呂までこさえて迎え入れるたぁ、テメエの何をそんなに気に入ったのかね。よう、そこんところ、どうなんだ?」
……見られてたのか。ひょっとして、ここ数日見張られてたのか?
「どうって、なにが」
「とぼけるなよ。あの魔女に気に入られるために、何をしたんだって聞いてんだ。なりたての、しかもよそ者がよ」
途端に剽げて声を弾ませるフードの男。下卑た口調と表情から、俺はこいつが言いたいことを、なんとなく感じ取った。
(ああ……つまり、そういう想像をしたのか)
思わず鼻で笑ってしまった。
あの女性がどんな理由で俺を世話してくれたのかを知らなければ、こんな発想になっちまうのか。さもしい男の悲しい性なのかねえ。
「……気に入らねえ嗤い方するようになったじゃねえか。あん?」
一瞬で表情が凶暴さに染まった。
いかん、無意識だったが、調子に乗ってるように見えたか。
(後ろは崖……位置的に不利……まずいな)
だとすれば。
「やっぱ一度は痛い目を……ッ?! テメエッ!!」
身を翻して、俺は逃げた。
横穴から出て、岩壁沿いの細い道に逆戻りしたのだ。
「待ちやがれッ!!」
当然追ってくるフードの男。そりゃそうだろうよ。
お前には、数日前の俺の、思い切りのいい逃げっぷりが脳裏に焼き付いているだろうからな!
剣を手に横穴から飛び出し、こちらを確認する。
怒気に歪んだその顔が───
「な……ッ?!」
───俺の目の前にあった。
待ち伏せの警戒、怠ったな?
ドォン!! という、爆音一つ。
「ぐ、が……ッ?!」
相手がたたらを踏んで後退した瞬間、俺は踏み込んで横穴を背にした。
───立ち位置入れ替え成功。
───目標の体幹耐性値、大減少。姿勢維持、困難。
辺りには焦げ臭い匂いが漂い、俺の左手には黒い煤が付着していた。
(何が起きたか、わからなかっただろうよ)
俺の左手は一度、指四本を斬り飛ばされ、しかし【再誕】した時にいつの間にか治っており、今は無傷で問題なく動かせる。
ただ一点、以前と違うのは、手首から指先まで、左手全体がデーモンのような黒っぽい色に染まっており、肌の質感も硬質なものに変わっている。
俺はこの左手を魔術触媒として、一つの魔術を発動したのだ。
───【爆ぜる掌】。後々習おうと思っていた、しかし意外な方法で修得できてしまった、まさしく怪我の功名……!
【掌から前方へ指向性を持たせた小爆発を放つ魔術。
射程も短く範囲も狭いが、瞬間的な威力は高い。
だが魔術師は、接近される前に敵を斃して一流と見る。
故にこの術を編み出した者と使う者を、未熟と侮る馬鹿者がいる】
たしかテキストはこんな感じだったな。
低い理力で修得可能で、体勢崩しに重宝し、理力を高めれば威力も吹き飛ばし距離も伸びていく、地味に高性能な近距離魔術!
◆ ◆ ◆
『人皮紙でスクロールが作れるのなラ、人の肌に直接術式を刻み込んデ、スクロールのような効果は得られないのデしょウか?』
『……何?』
『イえ、あの、こう……刺青みたいにしテ』
『……貴公、その左手は?』
『コれですか? コれは【再誕】の直前に指を四本欠損して、ソの直後に【再誕】しタのですが、気づいたラ……』
『【再誕】の際、混沌の力が集中的に流入して、そうなったと?』
『はイ』
『して、その左手の肌を使ってみたいと』
『はイ』
『……新しい』
『はイ?』
◆ ◆ ◆
俺のちょっとした思い付きは魔女の好奇心を大いにくすぐり、その後、数日に渡って俺の左手は上機嫌の彼女にいじくり回された。
刻まれた魔術は【爆ぜる掌】と【遠視】の二つ。
理論構築、試作、実験。その際、ついでにカオス・マター稼ぎ。
これを五日間、俺と彼女は延々と繰り返した。
結果、この何度でも使えるスクロールとも言うべき代物が生まれた。
正確に言えばこれはスクロールではなく、魔法の杖と同じ、魔術触媒なのだ。
言うなれば、肉体埋め込み式・術式固定型魔術触媒。
決まった魔術しか効果を得られないが、手としても使える魔法の杖……!
───【混沌の魔手】と、魔女はこの左手を、そう命名した。
間髪入れず、俺は追撃にかかる。
崩れた体勢が回復するまで待ってやる理由など、無い。
(好機だ……!)
カオチャには魔術の他に、戦技というものがある。
いわゆる技である。他のゲームでは、スキルとか呼んだりもする。
それは武器に備わっていたり、体術だったり、色々なパターンがある。
当然最初から使えるわけではなく、様々な手段で体得しなければならない。
そんな戦技の数々は、しかしただ一つ、最初から使えるものがある。
「ッッッ?! 待っ───」
「───落ちろ」
用途は豊富。属性は打撃。それがこれ……【キック】である。
【足を突き出して蹴り飛ばす、単純だが実用的な戦技。
自分より体重が軽いか、同程度の相手の体勢を崩す体術。
まずは蹴るがいい。ただ蹴る事から悟れる型も戦術もあろう】
体格のステータスを少し上げた分の成長は、足腰の強化。
そしてこの戦技は、体格と筋力によって性能が向上する……!
力一杯突き出された俺の蹴りは、奴の腰のあたりを打ち据えた。
ただでさえ体勢を崩していたところで、避けようのないキックを受けたフードの男は宙に投げ出され───
「ひぎゃぁああああッッッ!?」
───真っ逆さまに、崖下へと落ちていった。