第二話 再誕の食餌
◇ ◇ ◇
眠りから覚醒する感覚……
自意識も五感もあやふやな……
俺は、いったい、なにを、なにが……
「───はッ?!」
くそ、なんだったんだあの箱!?
俺はどうなったんだ? 体に異常は……ない、みたいだ、けど───
「───は……?」
飛び起きる。何処。どこだ、ここ?
薄暗い。肌寒い。床が固い。そもそも俺の部屋じゃない。
「石畳? ゲホッ、ゲホッ! くそッ、カビ臭えしホコリっぽい……!」
うっすらと見える床は石っぽい。
凹凸の多さと丸さからして、これはコンクリートじゃない。
体は問題なく動くし、衣擦れの音がいやにはっきり聞こえるし、カビ臭いと感じるし、口中に残った甘いコーヒーの味からして、五感にも問題なし。服も部屋着のジャージのままだ。
周囲には誰もいない。いないように感じる。
わかっている事はと言えば、俺は自宅で宅配便の箱を開けて意識を失い、その間に何かが起きて、ここに移動した、ってことだけだ。
誰かの悪戯にしては悪意的すぎるし、そもそもこんな悪戯をしそうな知り合いもいない。だとすると、考えたくはないが……
「拉致……誘拐?! いや、でも……」
そのわりには手足を拘束などされていない。
手には痛みも怪我もない。ないように思う。足も同じだ。
あ、靴下脱ぐの忘れてた。でも好都合ではある。
知らない場所を裸足で歩きたくない。
(……! 光だ。外だ。出口だ!)
離れた場所にはちょうど出入り口と思われる穴があった。
扉も無く、開けっ放しの、まさに穴としか言えないような形の。
(ひとまずここから出よう。にしても、外は夕方か? 俺は何時間意識を失っていたんだ?)
生まれてこの方こんな異常事態に見舞われたことは無い。
まずは警察に通報して、それから───
「───ぇ」
などと考えていた矢先に、混乱。呆然。
頭が真っ白になる、という表現を、俺は初めてこの身で知った。
(な、んだ、これ)
光り輝く、黒い太陽。巨きい。
鮮やかな黄昏色の中天に、ぽっかりと口を開けたような。
夕焼けにしては明るい空には、鳥に、いや、蝙蝠に人の手足が生えたような生き物が、近くに遠くにいくつも飛び回っている。
周囲は廃墟。石造りの廃墟だ。
ここは高所だ。景色を見てわかった。この廃墟は小山の上にあるのだ。
切り立った崖の上のような高所であり、踏み外せば死ぬだろう。
遠くには街のようなものや、西洋の城のようなものもあった。
川がある。森がある。草原や、茶色い荒地も見える。
奈落に通じているかの如き、深く大きな谷もある。
足が竦む───腰から下の感覚が曖昧だ。
恐怖。虚無。痴呆。そしてなにより───既視感。
俺は───この景色に見覚えが、ある。
「デーモンの、祭祀場……?」
そう。カオスチャンピオンのゲーム開始時に、なんの説明もなく放り出されるスタート地点。全ての始まりの場所。ここはあまりにも似ているのだ。デーモンの祭祀場に。
わけがわからない。困惑の極み。
足元から這い上がってくるような怖気に全身が支配され、何も考えられない。
だから『そいつら』が俺の真後ろに舞い降りたことに、直前まで気づけなかった。
「ッッッ?!」
声にならない悲鳴をあげて振り返ったそこには、やはり俺のよく知る存在がいた。
レッサーデーモン。正式名、混沌のレッサーデーモン。
カオスチャンピオンにおけるモブエネミー。
人の考える怪物的な小悪魔の姿に忠実なそれが、三匹。
暗色の肌。背中には蝙蝠のそれに似た翼。
細長い手足。長い耳。つるりとした頭。皺だらけの顔。
ぎょろりとした大きな目。口から覗く鋭い牙。
人のような、しかし鋭い爪の生えた手には武器が握られている。
三又の槍のような、三本爪のようなポールウェポン。
リーチが長く、刺突と斬撃を共にこなす、命を奪うための器械。
何も知らずにカオスチャンピオンを始めたプレイヤーは、キャラクターネームを決め、男タイプか女タイプかを決め、ここに丸腰で放り出され、まず最初に出会うであろうこの敵たちに、寄ってたかって嬲り殺され、タイトル画面に戻るのだ。
なにしろ動きが素早く、飛び跳ねながら立体的な攻撃を仕掛けてもくるし、複数で襲い掛かってくるというのに、始めたばかりのキャラクターは生命力が低すぎて、一撃受けたら死ぬからだ。
キレやすい人ならここでまずキレる。
この時点では、死にゲーだというのに復活して途中からスタートできるシステムが開放されておらず、ゲーム開始から一分未満でタイトル画面に戻されるんだから。
そして死に方の表現もこれまた酷い。
血まみれの自アバターにレッサーたちが群がり、その手の爪槍で滅多刺しにされ、さらにはズタズタに引き裂かれて食われるのだ。
「───ぁ」
そんな記憶とともに思い出したセオリー。
慣れたプレイヤーがまず取るであろう一つの行動。
すぐに動けた自分に驚く暇も無く、俺は矢も楯もたまらず走り出した。
奴らは空中移動速度こそ速いが、地上走行速度は人よりも遅い。
それに気づけたプレイヤーは、まず逃走手段を模索する……!
ギシャア、という、いかにも人外の者共らしい奇声を背中越しに聞きながら坂を駆け降りる。駆け降りて左側にある盛り上がった大岩の上から飛び降りる。
降りた先には小さなトンネルがあり、左エリアから右エリアに抜けられるエスケープルートがあったはず……!
(……あった!!)
靴下しか保護するものが無い足の裏を、石やらなにやらを踏みつけたせいで激痛が苛むが、迫りくる死の恐怖の前では気にする余裕など無い。
そのまま駆け抜けて右エリアに抜け、近くにある岩壁の陰に隠れた。
「……ぅ、ぁ、ぁぁッ……!」
がくがくと震える体。荒くなる呼吸。漏れる嗚咽。
早鐘を打つ心臓がうるさくてたまらない。
ややあって、飛び立っていく三匹のレッサーの姿を確認できた時、俺は……動けなくなって、その場にうずくまってしまった。
「なんだよこれ……なにが、どうなってんだよぉッ……?!」
体験したことのない恐怖と混乱にどうすることもできない。
だからだろうか。その『音』に気づくのが遅れたのは。
「……っ?」
どん、ずん、ぎぃん、と。
遠く、いやそれほど遠くはない、むしろわりと近くから、金属音が混じった騒音が絶え間なく聞こえてくる。
連鎖的に思い出したカオスチャンピオンの記憶。
そのオープニングイベントの終わり。まさか───
(───アレも今、起きているのか?!)
ただの人間であるプレイヤーキャラクターが、混沌のデーモンの力を取り込んでカオスウォリアー……混沌の戦士に再誕する、オープニングチュートリアル最後のイベント。
俺は周囲を警戒しつつ、空を舞うレッサーデーモンたちに見つからないように廃墟の物陰に身を隠しながら、坂を下った先にある開けた空間に向かった。
そうして辿り着いた、崩れかけの石壁に囲まれた広い空間。
こっそりと顔を覗かせ、騒音が響くそこで見たものは、記憶と───
(───違う……?)
その騒音は、争音。
三人の武装した戦士が、剣や盾、槍や斧などの武器を揮い、数匹のレッサーたちと殺し合っていた。
いや、三人じゃない。数人分の人らしき死体がある。
それと、十数匹のレッサーデーモンの死体が転がっている。
記憶と違う……カオチャのイベントと違う?
いや、ある意味では違っていないが、内容が違う!
ゲーム通りなら、ここで戦っているのは一人のカオスウォリアーと、チュートリアルデーモンによく似た中型のデーモンのはずなのに。
「※※※ッ!! ※※ッッッ!!」
「※※※※※ーッ!!」
声を掛け合いながら小悪魔たちと斬り結ぶ三人の戦士たち。
しかし、わかるのは何か意味のある言葉らしい、ということだけ。
(何語だ……?! たしかゲーム中じゃ、英語音声だったのに、英語じゃないし、他の言語でもない気がする……)
新たな困惑と、隠れているというささやかな安心感。
それが、目の前の光景をじっと凝視させる。
ぱっくりと開く傷口。吹き出す血飛沫。
よくわからない体液で汚れにまみれる、戦士たちと小さきデーモン。
体質か資質か、俺は血やら傷口の画像やらを見ても狼狽えないタチだが、それでもこの凄惨な光景には若干気分が悪くなる。
だが、それでも眼は閉じない。そらさない。
今、情報の取得こそが、文字通りの死活問題である故に。
それが、またしても背後の警戒を疎かにした愚かさの言い訳だ。
ギシャア。
「ぃッ……?!」
すぐ後ろから聞こえた怖気を揮う奇声。
いつの間にか近づいていた、下品で醜悪な皺だらけの、しかし心底から愉しそうな笑みを浮かべて、口からはよだれを垂らした───
「うぁあああッッッ?!」
───レッサーデーモンが三つ爪槍を振り下ろす。
必死に飛びのき転がって殺意の鋭鋒をかわした先は、今まさに殺し合いが繰り広げられている、血生臭い戦場の真っ只中だった。
「※※※ッ!?」
突然現れた闖入者に驚いたのか、三人の戦士のうち一人が俺の方を向き、その隙をつかれてレッサーの槍で串刺しにされ、しかし刺し違いにナイフで反撃、相打ちになって双方が死んだ。
俺は倒れこんだまま。後ろから小さい悪魔が迫る。
そんなこちらに向かって走る一人の戦士。
それに気づかず俺にのしかかるレッサー。
「ひ……ッ?! やめ、ろぉッッッ!?」
大口を開けて食いつこうとする怪物から逃れんと、すさまじい恐怖の中で首をひっつかみ押し返そうとする俺の左手。右手は押さえつけられている。
走りこんできた戦士は横薙ぎに剣を一閃し。
「あづッ?!」
その瞬間に俺の左手で爆発した、いや、そう表現する他ない激痛。
戦士は俺の左手ごと、レッサーの首を刎ね───は?
おれ、の、ひだり、て……
「……ぁ。ぇ?」
ひだりてのゆびが、おやゆびいがい、なかった。
ちがあふれて、おれのひだりてがまっかにそまる。
まるでゆにつけたようにねつをおびたては、どくんどくんと───
「※※ァアアアッッッ!?」
「───うっ?!」
その絶叫で我に返った俺が見たのは、死にかけのレッサーの槍で腹を後ろから貫かれ、それでも逆襲して斬りかかった戦士の姿だった。
しかしそれが最後の反撃。全身から血を流し、くずおれて、倒れ伏すその顔に、生気はとうに失せていた。
唐突に、戦士は最後の力でこちらを向いた。
死にかけているというのに炯々とした眼光。
お前を 助けた せいで 殺された
そう言わんばかりの憤怒の形相で、睨め付けていた。
言葉の意味もわからないのに、不思議とそれは確信できた。
広い石畳の空間に、動くものはもう、いない。
呆然として血の海となっている辺りを見回す。
次に、親指しか残っていない自分の左手を見る。
瞬間、八つ当たりじみた激怒が、悲観が、諦念が、ない交ぜになって激しく、濁流の如く俺の中に沸き起こった。
倒れ伏した戦士に何か言おうとしたが、いつの間にか死んでいた。
彼はもう、何も言わないし、何も聞こえない。
「ふざ……けんなよ……ッ」
左手が痛い。指が一本しか無い。
ジャージは血と土と埃で汚れ、靴下なんかべちゃべちゃだ。
なんで俺はこんな目にあってるんだ?
誰が何をしたんだ? 俺が悪いのか?
自分で戦えるほど強くない、俺が悪いってのか?
何かが切れたような幻聴があった。
何かが失われたような錯覚があった。
きっと俺は、頭が狂ったのではなかろうか。
そうとしか考えられない。
だって俺はこの期に及んで、とんでもないことをしようとしている。
のそりと立ち上がった俺は、近くに落ちていたナイフを拾った。
たぶん俺に気を取られて死んだ、さっきの戦士のものだろう。
俺はそのナイフを握りしめ、たった今死んだ戦士に近づく。
腹に大穴を開けて血を流し、うつ伏せに倒れている死体を見下ろす。
そして苦労しながら死体を仰向けに寝かせ直し、咥えたナイフを右手で握り直して、腹の深い傷口にナイフを当て───ぎちぎちと上に切り開いていくと、骨が見えたあたりで再びナイフを咥え、体内に手を突っ込んだ。
カオスチャンピオンのオープニングイベントの最後。
ここでプレイヤーは、ただの人間から混沌の戦士へと再誕する。
その時、とある選択……二択を迫られる。
カオスチャンピオンに、キャラクターメイクの要素はほぼ無い。
初期ステータスも同様に、ほぼ変えられないのだが、しかし唯一ここでの選択で、低いステータスで始めるか、高いステータスで始めるかだけは変えられる。
一人の戦士と一体のデーモンが相打ちになって死ぬ場面を見た主人公は、おもむろに戦士とデーモンの死体に近づき、どちらかのソレを選ぶのだ。
ここで表示されるメッセージは今でも覚えている。
たしか、こんな感じだったと思う。
【汝、混沌を恐れるなかれ。再誕の食餌を受け入れよ】
目当てのモノを掴んだ気がした。
無造作に引っ張り出した。目当てのモノだ。
繋がっている管をナイフで斬って、取リ外シタ。
震える手で取り出したソレは赤黒く、意外にも温もりがあった。
太い血管をナイフで切断して取り出した温かい肉塊は、両手の上に乗せてみれば、思っていたより小さかった。
心臓。人の心臓だ。
これは人間の心臓として正しいカタチをしているのだろうか?
生まれて初めて見る実物の臓器に、こんな思いを抱いている時点で、俺の頭はもうだいぶおかしくなっているのかもしれない。
黄昏色の空の下、広い石畳にぶちまけられた血の海にひざまずき、危機的状況であることも忘れて呆然としてしまう。
わかっている。理解している。
この行為に賭けるしかないということが。
今から俺は、人間をやめるかもしれない。
だがこうしなければ、試さなければならないのだ。
そう自分に言い聞かせて───俺は、その心臓にかぶりついた。
そう。これがカオスチャンピオンというゲームにおいて、ただの人間が超人たる混沌戦士に生まれ変わるために必須の行動なのだった。
嚙みちぎり、咀嚼して胃の腑に落とした。
そして始まったのは肉体変成、いや、再誕。
想像通り、狙い通り───今後、どうなるかも顧みずに。
この時ゲームなら、あるメッセージが表示される。
これがなかなか不穏な内容で、忘れようにも忘れられない。
【人間性が10減少しました。残り90です】