012 壱之太刀
「お母さん、久しぶり」
五条は穏やかな瞳でノロイを見つめていた。
確かにそれは母の姿だった。腹を刀で刺し貫かれ、鬼の形相をしていたとしても。
「なんじゃ、見逃してやったカラスか。なぜここに来た」
「お父さんが死んだあと、四十九日も待たないで、お母さんは僕に内緒でノロイの元に行った。書き置きだけ残して。短い間だけど家族でいてくれてありがとうって」
「なぜ、ここに来た」
「うん。来てはダメだとも書いてあったね。でもね、もう少し待っていてくれたら、お父さんに会えたんだよ。成仏できなくってね。僕たちのことが心配だったんだろうね。僕もなぜか霊を見ることができたんだ。きっとお母さんにも見えたはずだよ。家族だからね」
「ここに来たら、お前は食われる運命じゃと、言うたであろう……」
「僕はお父さんと200年も暮らすことができたよ。すっかり大きくなったでしょう。お父さんには剣術を教えてもらったよ。だからいまは先生って呼んでいるんだ。でも世界一教えるのがヘタなんで、実際のところ、僕のは我流さ」
ノロイはじっと動かなくなった。
「麓の近くで茶屋をはじめたんだ。あのあたりはまだヒトが入れるからね。ぜんぜん儲かっていないから、僕はたまに異世界市というところでバイトもしているよ」
「だまれっ」
「まだまだ、いろいろ話たいことがあるんだけれど、いちばん伝えたいのは、僕も先生も、お母さんを取り戻すことを諦めなかったということだよ。だから今日はここに来たんだ」
「だまれ!」
ノロイはクナイを放った。
五条はさっと飛び退ける。
「さっさと帰るんだよ! ゴ、ジョウ……」
「えっ? いま僕の名前!?」
ノロイは腹に刺さった刀を引き抜いて五条めがけて駆け出した。
五条はとっさに受け止める。
「うわっ」
凄まじい力だった。たくさんの殺意を浴びてノロイの攻撃力は上がっている。
「これは無理だ」
五条はばっと翼を広げて、空に飛び上がった。
「お母さん。もう終わりだ」
「何度ももうすな。終わるのはお前じゃ。今日ここで食われるのじゃ」
「もう少しだから待ってて。ほら、父さんとも話してみてよ。記憶が戻るかもしれない」
「バカを申せ」
すると、五条は地上のある場所を指差した。
そこは、剣聖・不死家卜全が瘴気に絡め取られていた場所だ。
ノロイはそこへ目をやる。
だが、卜全はいなかった。
あるのは数枚の護符。瘴気は消え失せていた。
「なに!?」
ノロイは周囲を見渡す。さきほどの記憶の混濁もあって冷静ではないようだった。
「待たせたな」
眼前に阿部野ハルカの姿があった。
しかし、これは違う剣聖その人だ。
「迎えにきたよ、アヤメル」
ノロイが気づいた時には間合いをとられ、その切先を見上げなくてはいけなかった。
「慈悲の心で斬るッ――――壱之太刀!!!」
その剣筋はとてつもなくゆっくりに見えた。
ノロイはそれをうっとりと見つめている。
200年前の光景が脳裏にやってくる。
走馬灯のように、温かい思い出が映し出される。
殺意がすべて消えていく。
そう、数千年溜め込んできた殺意。
カラスに母を殺された一匹の白蛇。
人になぶり殺された自分。
祟る存在として神として祀られた。
それからは人の殺意を食って怪異となった。
あのころ昇華できなかった殺意をときはなち、それを食って糧とした。
殺意が殺意を呼び、ただそれだけの存在になった。
五条くんのご飯は本当に美味しかった。
ボクちゃんもいつも優しかった。いつも冗談を言っていた。
どれだけ優秀な暗殺者になっても得られるものなどなかったのに。
すべてが消えていく。
だけどとても心地がいい。
壱之太刀はようやく地に辿り着いた。
卜全は見た。その穏やかな微笑みを。
「ありがとう……」
唇は動いていなかったが、そう、聞こえた。
白い蛇が体から抜け、天に昇る姿を見届けたカラス天狗は、家族の元へ戻った。
※ ※ ※
阿倍野ハルカが目覚めたのは七日後のことだった。
肉体的な傷もさることながら、取り憑かれ状態で長く戦いすぎたのが響いたようだった。
庵で目をさますと、師匠も五条くんもいつも通りだった。
ご飯を食べながらことの顛末を聞いた。
「そっかやったのか。ウエッ、ウエッ……」
ハルカはごはんを口に入れながら泣き出した。
「ハルカさんのおかげですよ。あんなにすごい力があったなんて」
五条くんが言う。
「力だけではない。覚悟じゃ。そのふたつがノロイを圧倒した。なんにせよ、お主のおかげで勝てた。礼を言わせてくれ」
「マジメに褒められたっ。でも嬉しいっ」
ハルカが顔を真っ赤にして言う。
「本当にありがとうございました。二百年たってようやく母の供養ができました」
「そやな……。長いことかかったな……」
食事を食べ終わると、ハルカはあることに気づいた。
「今日、八月三十日やんけっ!」
「それがどうしたのじゃ?」
「夏休み終わりやんけ!」
「お主は学生じゃったのか?」
「いや、ちゃうけども。なんかおわりな感じやん?」
「宿題が終わっとらんのか?」
「いや、宿題とかちゃうくて、……ん? そやウチ、ここに何しにきたんやっけ?」
「剣術修行を兼ねたバケーションじゃろ」
「いや、ちゃう。違かったはずや……そうや、忍者になるんやった。まあ、でもええか。辿り着いただけで報酬は出るし、市役所の情報が間違ってたんやから、報酬は満額出してもらわんとな」
ハルカはブツブツと呟いている。
「でも、ここを出るのも名残惜しいなー。あーそや、五条くん、鳥居の外出られるようになってるの?」
「入れたんだから、出られるでしょう」
「おい、まさか最初から? 騙しやがったな」
「すみません。あ、あと市役所のミッションですが、まだクリア可能ですよ」
「は?」
「忍者マスターがおりますので」
ずっと気づかなかったが、霊体がもうひとつあった。
「はじめまして、ハルカさん。いつも主人と息子がお世話になっております」
着物を着たしとやかな女性がお辞儀をする。
「あ、あ、アヤメル?」
「はい」
「あんたも地縛霊に?」
「そうみたいです」
「また家族三人で暮らせるんです。ありがとう、ハルカさん、うっ、うっ」
「五条くんそれもう何回目よ。ワシだって、ワシだって」
「いやだわーボクちゃんまで。うふふふふ」
「なんじゃ、これ」
ハルカは畳にずっこけた。
(でも、まあ、よかったやん)
ハルカは、明日一日、滞在を延長することにした。
アヤメルに取り憑かれての忍者修行。
まるで夏休みの宿題のように。




