008 【幕間】コロス
(ちっ、今日もあいつを仕留め損ねた)
桔梗丘綾女は霊山の中腹にある洞窟に身を潜めていた。
キサラギにおける忍者の階級では「マスター」という称号をもつ数少ない使い手。
その自分に倒せない男がいる。
同じくキサラギ出身の剣聖、不死家卜全。数々の武勇を誇る男だが、すでに老境の年齢にある。引退して、このヴァリス王国の北の半島の端っこ、霊山で隠遁している。
そんな、余生を過ごしているだけの男にまったく歯が立たない。
はじめは日中に背後から襲った。頸動脈を狙う一閃だったが、それよりも早い動きで屈まれた。
食事中の気の抜けた瞬間も狙ったが、あやうく熱湯を浴びせられそうになった。
入浴中を狙ったが、手桶ですべて攻撃は防がれたうえに、全裸であることを誇示されて撤退せざるをえなかった。
就寝中の暗殺もできなかった。脇差で刺した時には、高級ダッチワイフにかわっていた。
われわれ忍者は卑怯だ。というか、卑怯であらねばならない。殺しに対して美学などない。
だから最強の暗殺者であるはずだった。非情でありつづけられるものが生き残る。
(だというのに……)
明らかに私は、不死家を仕留められない。
あらゆる不意をついた。つきまくった。
そして……。なのに、あいつは私を襲ってこない。
(バカにしています)
アヤメは洞窟の外で火を焚きながら、仕留めた野鳥を調理していた。
この霊山に入って一か月近く。ミッションを果たせずに野営を続けるとは思っていなかった。
もとはといえば、キサラギの貴族が名誉欲のために「世界最強の剣聖」を倒すという目的でクライアントになった。ただ、それだけだ。しかし、忍者の里では、ミッションに失敗した忍者に居場所はない。「忍者マスター」の地位にまで辿り着いた自分であればなおさら、組織が許しておくはずもない。
雨が降ってきた。
アヤメは調理した鳥だけをもって洞窟に戻った。簡易的な寝床がある。またそこでわずかな睡眠をとって、剣聖の隙を狙うことになるだろう。
そのとき、悲鳴のようなつんざく音が響く。鳥の鳴き声のようにも思えた。
「ぎゃーーーーーーー」
羽音のようなものとともにそれは近づいてくる。
身を負ながら外を覗くと、小さな鳥、――いや、カラス? 服を着ている。亜人というやつか。その背後には赤い羽に覆われた大きな怪鳥が襲い掛かろうとしている。
(鳥が鳥を喰らおうとしているのか)
どちらもキサラギでは見かけない生き物だ。霊山はやはり勝手がちがう。
しばらくアヤメは様子をうかがう。
だが、追われているカラス人間は幼子のように見える。
(まるで、あの時の私だ……)
捨て子なのか、なんなのか、自分の生い立ちはわからない。
気づいたら小さな子どもたちが肩を寄せ合って街のはずれで底辺の暮らしをしていた。
ゴミ拾いと窃盗で日々の生活を凌いでいた。
いつも、誰かに追われていた。
仲間は誰も助けない。
ただひたすら走り抜けて無事だった子どもだけが次の日を迎えられる。
そうして自分は生き延びた。
そして、忍者マスターに拾われ、くノ一になった。
自分の人生はそれだけだった。
人は助けるものではなく、殺すものだ。
だが、あの時の自分を見殺しにできるのだろうか。
使命を果たせず、洞窟で無為に考えごとをしていたせいか、妙に思考にノイズがはいる。
(ちっ)
考えもまとまらず、アヤメは怪鳥と鳥の亜人の間に入った。
すかさずクナイを打つ。魔力によって無限生成できる魔法苦無。そして、それを一度に三十三を放てるアヤメの得意技、三十三哀突。
怪鳥にはすべてヒット。すかさず驚異的な跳躍で中空の対象に接し、刀を抜き払い、三太刀斬りつける。
怪鳥は甲高い末期の声をあげて、地に堕ちた。
アヤメは刀を鞘に戻すと、カラス人間の子に目をやる。
腰をぬかしているようだった。しかし、安心したのか、涙を流して嗚咽しはじめた。
こうしてみると見た目は翼のあるカラスの亜人だが、かつての自分と同じ迷い子の姿に重なる。
「もう、大丈夫です」
アヤメはいう。いつか、自分がかけられたかった言葉だったかもしれない。
本来、忍者にあってはならない感情だが、気づけばカラスの亜人を抱きしめていた。
どうしても倒せない男に出会って、おちょくられ続け、殺し続けてきた人生が急激に虚しくなりはじめた。
(私はもう終わりですね)
※ ※ ※
カラスの亜人――カラス天狗という種族だそうだが――、その子は「烏丸五条」と名乗った。
近くにある霊山神社の管理人で、たったひとりで御神体の世話をしているという。
「なぜ、ひとりなのです?」
アヤメはカラス天狗に問う。ちなみにアヤメは常に敬語で話す。殺す相手に対して敬意と、油断をあたえるために。そうならってきたからだ。
「100年にひとり、一族の中から選ばれて、その役目が与えられるんです。100年、お勤めしなければなりません」
「長寿の種族なんですね。たったひとりとは、寂しくはないのですか?」
言ったとたん、アヤメは自分を振り返って、苦笑する。自分もずっとひとりだった。
「はい。最初の10年は心細かったのですが、去年、この山に人が来ました。ある日突然、バイクでやってきました」
(それは、もしや、標的では?)
そうに違いない。あいつはバイク乗りだ。そして、ここは人を食らう大蛇がいるという伝説があって、ほかには滅多に人は寄り付かない。
「その男と親しいのですか?」
「え? なんで男の人だと? もしかして知り合いですか?」
「ま、まあ……毎日のように顔を合わせていますが」
「そうだったんですか。僕もお屋敷にはときどき行きますが、お姉さんとは、お会いしたことはありませんね」
(基本、奇襲ですからね)
「でしたら、お屋敷に泊まればいいのに。こんなところではいろいろと不便でしょう?」
「ええ、そうですね」
「僕から卜全先生に言ってあげますよ。先生も寂しがり屋だから、ほんとは泊まって欲しいんだと思いますよ。僕、料理が得意だから、よく先生に食事をつくっているんです。よかったら、ごはんだけでも一緒にどうですか?」
(いや、うーん。うーん?)
アヤメの奇襲はことごく失敗している。すでにいま考えられる暗殺方法はない。
状況を変えてみるのは一つの手としてあるかもしれない。それに、この子が奴の弱点となりうるかもしれない。
「わかりました。ご馳走にあずかります」
※ ※ ※
「えっ?えっ? なんで? どゆことー?」
剣聖・不死家卜全は取り乱していた。
あれほどすべての暗殺術を、退屈そうな顔でいなしていた武人とは思えない。
「先生、この人は僕を助けてくれたんだ。知り合いなんでしょ? 桔梗丘綾女さんだよ」
「いやー、はじめて名前聞いたわー。はじめましてだわー。不死家卜全と申します」
「毎日会っているのに、名前知らなかったんですか?」
カラス天狗の五条くんは不思議がる。
「そりゃだって、ワシを殺しにきた人だもん。挨拶とかせんよー、五条くんー」
「えっ!!そうだったんですか、ごご、ごめんなさい。僕知らなくって」
「いいよいいよ、ワシ、死なないし」
「コロス」
「はじめて声を聞いたよ。すごいかわいいね。もしかして声優?」
「コロス」
「もしかしてワシの追っかけ?」
「コロス」
「えーだってすごい美女だし。寝込みを襲ってくるし、そりゃ勘違いするよーー」
「コロス」
アヤメは顔を赤らめる。
女扱いされるのは人生初だ。
「コロスしか言わないんだね。でもなんとなくニュアンスの違いはわかるよ」
「コロフ」
「味噌汁飲みながら喋らないほうがいいよ」
アヤメは烏丸五条が用意した飯を黙々と食べ出した。
「で? もう暗殺はやめてふつうに殺しにきたってこと?」
アヤメは味噌汁を飲み終わると腕を置き、手を合わせた。
「そうね。とりあえず、この子がご馳走をふるまってくれるというから来ただけよ」
せいいっぱい平静を装う。
「コロスしか喋らない設定じゃなかったんだねー。そっかー。うれしいよ。よかったら泊まっていってよ。部屋もいっぱいあるし、布団もあるし。いつでも殺しに来ていいから」
「コロス」
(なんという侮辱ですか。ていうか、友達ですか。いや、私には友達がいないから、こういうツッコミが出るのはおかしい。どっちにしろバカにしています。私は暗殺者。標的を倒せなければ、私には生きている意味がありません。私の人生そのものを否定するのですか。それくらいの侮辱です)
しかし、感情をコントロールできない者は忍びとして三流だ。免許皆伝の「忍者マスター」は、この程度の挑発には乗らない。
静かに座って、表情を崩さない。この状況、完全にありえない。暗殺者とその標的が、畳の上で何事もなく食事を共にする。ここまでしなければ、この男は仕留められないかもしれない。あらゆる手を尽くしてダメだったのだ。常識は捨てるべきだ。
そして、カラス天狗の少年は、今晩は全員で食事にしようと提案した。
献立は石狩鍋だった。全員で囲炉裏を囲む。
それが、私たち〈家族〉の最初の団欒だった。




