夜空の灯火
作り物のような綺麗な青空に、雀が泳いでいる。
平和そのものの景色を眺めて、小夜は涸れてしまった目元を指先で撫でた。
背後で小さな音がして振り返ると、昼寝をしている二人の兄弟の末の方の掛布団がはだけていた。寝返りを打ったらしい。
小夜は立ち上がって布団をかけ直してやり、今一度、窓辺に戻った。
片手で丸みを帯びてきた腹を摩り、もう一方で畳の上に置いておいた一通の手紙を取る。
もう何年も前に届いたそれは、一度も開かれることなく、今に至る――。
*
幼い頃、小夜は小さな集落に住んでいた。農民である家庭は貧しく、借金は膨れ上がる一方だった。
だから小夜の両親は、涙を呑んで自分達の娘を遊郭に売る決意をした。
日々の食事にも頭を悩ませるような暮らし振りだったから、小夜も幼いながらに薄々いつかそうなるであろうと覚悟はしていた。自分が遊女になることで家族が楽になるのなら、それでも構わないと思っていた。
だが、覚悟ができていたのは小夜と彼女の家族だけだった。急に別れを伝えられた幼馴染みには、相当応えたようだ。
幼馴染み――灯次郎とは、生まれた時からの仲だった。同じ年に生まれ、共に育ち、遊び、喧嘩も沢山した。
そんな彼は虫も殺せないような優しい性格で、この時もすぐに涙を零して、どうにかならないのかと訴えた。
だが、もう決まったことなのだ。覆すことは敵わない。
ならば二人で逃げようと、彼は言った。何処か遠くへ、誰の手も届かないところまで逃げて、二人で暮らそうと。
けれど、そんなことができるわけがない。小夜がいなくなってしまったら、残された両親がどうなるか分からないのだ。
黙って首を振る小夜に、灯次郎は益々涙を流した。
灯次郎は、本当に優しい。小夜のことを心から想って泣いてくれているのが、よく解る。
それを見ていたら小夜も悲しくなってきてしまい、二人は暫く向かい合ったまま泣き続けた。
そして日も暮れ始めた頃、ようやく落ち着いてきた灯次郎が何かを決心したように顔を上げた。
「小夜ちゃん。おれ、大人になったら江戸に出て一杯稼ぐから。そしたら――そしたら、」
端に涙の粒を残した瞳に小夜を映す。
「小夜ちゃんを、迎えにいくからね」
夕陽に照らされた赤い顔が、いつになく頼もしく見えた。
そんなことを言われるなんて露ほども思っていなかった小夜は驚いて、けれど「うん」と頷いてみせた。
*
あの日交わした約束は、片時も忘れたことはなかった。
遊郭に来てから、辛くて苦しいことは数え切れないほどあった。しかし、その度にあの約束を何度も反芻して、それだけで乗り越えられてきたのだ。
いつか灯次郎が迎えにきてくれる――そう思うだけで、頑張ることができた。
だが、その約束が果たされることはなかった。
いつまで待っても、灯次郎は姿さえ現さなかった。
何年か後には、格子窓から見知らぬ男達が遊女を値踏みするのを夜毎に眺めて、諦めと悲しみに暮れる日々を過ごした。
きっともう、灯次郎は小夜のことを忘れてしまったのだろう。
成長して家庭を持ち、小夜の知らぬ誰かとそれは幸せに暮らしているのだろう。
灯次郎が幸せなら、それで良い――そう思うのに、どうしてか小夜の心は鉛のように重くなっていく一方だった。
*
ある日、小夜に一通の手紙が届いた。差出人は、灯次郎だった。
自分のことを覚えていてくれたと喜ぶ反面、小夜はその手紙が怖くて堪らなかった。
そこに知らない誰かとの幸せな日常が書かれていたら、小夜のことはもう知らぬと綴られていたら――そう考えるだけで、胸が押し潰されそうだった。
だから、中身は見ることができなかった。けれど捨ててしまうことも敵わず、手紙は開くこともなく荷物の奥に仕舞ってしまった。
*
月日が過ぎ遊郭にいることが当たり前になった頃、小夜は呉服屋の息子に見初められた。
彼は月に一度ほどやってくる馴染みの客で、どんな遊女にも優しく丁寧に接してくれる穏やかな方だった。
そんな彼が、小夜を身請けにと選んだのだ。
断る道理はなかった。こんな狭い鳥籠の中から出られるのなら、こんなに素敵な殿方の許へ行けるのなら、文句なんて一つもありはしない。
小夜は、二つ返事で頷いた。
その時、僅かに髪を引かれるような感覚を覚えたが、見て見ぬ振りをした。
*
彼との生活は、幸せそのものだった。
呉服屋の跡取り息子の妻として仕事を覚え、家事をこなし、子宝にも恵まれた。遊郭での日々が嘘のように、絵に描いたような幸福な時間だった。
だというのに、小夜は心の一部が暗いような気がしてならなかった。眩い幸せの光に照らされれば照らされるほど、その闇が濃く深くなっていくようだった。
そんな中、小夜の許に突然の報せが舞い込んだ。
灯次郎が、亡くなったというのだ。
報せの差出人は、彼の母親だった。仲の良かった小夜には伝えておきたいと、彼女の居場所を随分捜してくれたようだ。
灯次郎は、先に故郷で起こった大火事の際、家屋の中に取り起された幼子を助けようとして、炎に捲かれたという。
彼は数年前に江戸へ稼ぎに出たが上手くいかず、一度故郷に戻って立て直そうとしていた矢先のことだったらしい。
小夜の両親は無事だとも書いてあり、少しだけ安堵した。
しかし彼の訃報を聞いても、涙は出なかった。あの頃の灯次郎との楽しかった思い出を振り返って悲しい気持ちにはなるのに、小夜の瞳は涸れ果てた泉のように一滴の雫も現れなかった。
自分はなんて、非情な女なのだろう。あの日、灯次郎と二人で大泣きした自分とは大違いだ。
遊郭に売られ、男達に弄ばれて、随分と心が擦れてしまったようだ。
けれど、小夜はふとたった一度だけ届いた手紙の存在を思い出した。
嫁入りする際に持ってきた荷物を漁り、奥底に封印されるが如く押し込められたそれを見つける。
それを手にしたまま、かれこれ数刻。眺める空は気持ちが良いくらい爽やかなのに、小夜の心は晴れぬまま。
暗澹とした気持ちは重く、自身の身体も沈みそうなほどだ。
こんな紙切れ、開いて読んでしまえばあっという間だというのに、どうしても躊躇してしまう。
身重で仕事は任されていないから、時間だけはたっぷりとある。それも、手紙を開けないままでいる原因の一つなのだろう。
しかし、ずっとこうしているわけにもいかない。
小夜は深呼吸をして数秒、意を決して手紙の封に指をかけた。
目を瞑ったまま広げ、恐る恐るそっと瞼を抉じ開ける。
――お慕いしております。
一行。たった一行の文字列が、紙の中央に綴られていた。
それを目にした瞬間、乾いた双眸から雫が零れ落ちた。
手紙の上に落ちたそれが、円い染みを作る。
ああ、どうしてあの時にこれを読まなかったのだろう。返事を書かなかったのだろう。
後悔の念が波のように押し寄せて、胸が苦しい。涙が止まらない。
彼の優しさが、気持ちが滲み出ている文字を指先で撫でる。
灯次郎はきっと、もっと色々書きたかったのだろう。けれど想いが溢れて書き切れなくて、やっとこの一行を小夜に贈ってくれた。
そう思うことは、自惚れだろうか。だが、自惚れでも良い。灯次郎が小夜に精一杯の気持ちを認めてくれたことには、変わりないのだから。
それなのに、小夜はそれを受け取りもせず、彼がいなくなってしまってからこんな気持ちになっている。今更苦しいと思うなんて、そんな資格はありはしないのに。
自分が嫌いだ。大嫌いだ。
ずっと変わらず真っ直ぐだった灯次郎を疑ったりなどして、裏切るように他の人と夫婦になったりして――。
嬉しさと後悔と郷愁と嫌悪感――様々な感情が綯い交ぜになって、気持ちが悪い。
小夜はそれ等を吐き出しながら、泣き続けた。
幼き日に流した時とは比べ物にならぬほど、沢山の涙を流した。
やがて、夕闇が迫る。
空に星が灯る。
泣き疲れた小夜の手の中には、一通の手紙だけが残された。