トーキョーボーイ
少年は何かピカッと光ったのを感じた。次の瞬間、自分の体が、まるでバスケットボールのように高く舞い上がったことに気づいた。進行方向を見ると、信号は赤を示している。どうやら自分は赤信号の横断歩道を渡ってしまったようである。それで車にはねられたらしい。あぁ、なんと間抜けなことか。歩きスマホは危険だと散々聞いてきたのに、まさか自身によってそれを実行し、お手本のようにまんまと事故にあってしまうとは。少し遅れて激しい痛みが全身を荒波のように打ち付けた。しかし、頭は実に冴えていた。冬の真夜中、凍りついた刃のような風が頬をかすめていくのすら感じ取れる。まるで痛みを感じる体と、ものを考える脳が別々になったような、そんな奇妙な感覚である。世界はまるでスローモーションのようにゆっくり流れて見えた。打ち上げられた自分の体もゆっくりと、ゆっくりと、でも確実に落ちていっているのがわかる。きっと、この体が地面にたどり着いたとき、自分は死ぬのだろうと思った。車の運転席を見ると、フロントガラスは粉々になって、中年のおばさんがとんでもない顔をして固まってるのが見えた。多分驚いている顔だろうけど、その顔が自分の小学校の頃の担任が説教しているときの顔にあまりにそっくりなものだから少年は可笑しくなってしまった。よほどの急ブレーキだったのだろう。風の中にゴムが焼けるような匂いが微かに混じっている。少年は自分の嗅覚の鋭さに驚いた。今なら警察犬にも負けないだろう。嗅覚だけでなく、五感の全てが針を刺したように、鋭く、強くなっていた。空を見ると、飛び散ったフロントガラスのかけらがキラキラと輝いて、まるで美しい雪のように見えた。ガラスの中に自分が直前までいじっていたスマホが見える。運良くスマホは壊れておらず、直前のS N S、智枝とのメッセージ画面を映し出していた。
智枝は少年が片思いを寄せている少女である。中一の頃、同じクラスになった智枝に徐々に惹かれていって、中二では小学校から続けているサッカーを辞めて、彼女と同じテニス部に転部した。女子テニス部と男子テニス部は練習日程が違うと知ったときは膝から崩れ落ちたが。智枝は、顔もよかったが明るくて気のいい性格が少年にとってとても魅力的に映った。少年は1週間後に智美をデートに誘う計画を立てていた。そこで、自らの思いを告白しようというものだった。デート場所は近くのアウトレットモール。中学生としては妥当だろう。2日かけて考えたメッセージを、いざやとようやく送信したのがちょうど1時間ほど前のことだ。送って見てから突然怖気付いて、それから、自ら送った文章を何度も推敲しなおして、何度も送信取り消しをしようかと悩み、メッセージに“既読“の文字がつくのを恐れながらトーク画面を見張っていた。そんなこんなでスマホをガン見したまま、赤信号にすら気づかず、自動車たちの飛び交う道路にノコノコ飛び出していったのだから、なんともみっともなく情けない話だ。色恋にウツツを抜かすと命取りだとは良く聞くが、まさかこういう意味とは思わなかった。やはり先人の言うことは正しい。
さっきよりも地面が近づいている。同時にもっとずっと感覚が鋭くなっている。ずっとスローに聞こえていた何かの音は人々の悲鳴であることに気づいた。女の人や男の人、おそらくこの車の運転手のものだろう声も聞こえてくる。再び自分を引いた車に目をやる。思えばこのおばさんも気の毒である。至極真っ当に、交通ルールを守って運転していたのに、突然出てきた間抜け野郎によって殺人の容疑がかけられるのやもしれない。道路交通法に詳しくはないが、車が歩行者に危害を加えてしまった場合、基本的にはどんな場合も車に非があるとされるという話を聞いたことがあったような気がする。もしそれが本当ならうける必要のない取り調べを受けて、受ける必要のない裁判をし、払う必要のないソンガイバイショーを払ったり、牢屋に入れられたりして、冷たいご飯をかき込むことになって、あらぬ非難を受けるのだ。そしてシャバに戻ってもきっと免許は取り消しになるのだろう。これは不条理だ。少年はおばさんに対して申し訳ない気持ちになった。だが、しかしよく考えると、自分も十分可哀想である。自分は未来あるうら若き15歳だ。多少恋愛に夢中になったからってこの仕打ちはあんまりだ。あのおばさんだってこのくらいの歳の頃には恋愛をしていたはずだ。何も自分が死ぬことはないだろう。そりゃあ、おばさんだって気の毒だが自分のがもっと気の毒なのだからあまり責めないでほしいと思う。
しかし、冷静に考えれば、付き合ってもいない異性をデートに誘うなんてのは自分らしからぬ、なかなか大胆なことをして見たものだ。メッセージの内容は「来週の日曜、イオンに行かない?」と言うものだ。日時と場所を伝えただけの実にシンプルなものだ。しかし、たったこれだけのメッセージでも少年にとってはオオゴトなのである。だが、これは普通なのだろうか。つまり、普通というのは、女の子がその文章を見て「キモい」と呟く類の内容ではなかろうか。そもそも付き合ってもいない相手から「イオンに行かない?」なんてきたら女の子はどう思うだろうか。キモいと思われないだろうか、いや思うに決まってる。自分が智枝だったら絶対思う。下心が見え見えである。自分は最後の最後にやらかしてしまったのかもしれない。少年は急いで送信取り消しをしようとケータイに手を伸ばそうとしたが、体が全く動かなかった。そして、少年は自分の体はもはや自分の意識についてきていないことを知った。再び下を見るとさっきよりも地面が近づいている。急に死ぬのが怖くなった。死ぬことがなんなのかと言うのは、なんとなく想像したことがあったが、自分が死ぬことを想像したことはなかった。なんだかんだ大人にはなれると思っていた。なんとバカバカしい死に様だ。こんなのは認められない。智枝と付き合うどころか、告白すらしてないと言うのに。成績も悪いしバカでアホで、とても模範的学生とも言えない生活をしていたことは自覚しているけど、それでも自分の死を知ったら両親は悲しむだろう。そうだ、智枝は悲しんでくれるだろうか。きっと悲しんでくれるだろう。智枝は優しい女の子だ。部活のメンバーが死んだとなれば絶対に泣いて悲しむ、そんな子だ。でも、やっぱり自分に向けられたその悲しみは、なんと言うか特別なものであって欲しいと思う。都合の良い考えである。向こうは自分が好意を向けられていたことすら知らないだろうに。そう思うと、なんでもっと早く告白しなかったのだろうと思ってしまう。自分の思いが伝えられないまま死んでいくなんて嫌だ。死んだら幽霊になるなんて嘘だと思っていたけど、今なら本気で幽霊がいて欲しい。もし、ほんの少しの間でも幽霊になることができるなら、智枝の反応がわかるのに。歩道の人々がみんなこちらを見て口を開けている。こいつらも自分が死ぬなんて思って生きていないのだろう。概ね幸せな人生だったが後悔もたくさんある。こんなことならもっと勉強しておくんだった。もっと親孝行しとけばよかった。ノブオに借りた漫画返してねーや。アキコに借りた500円もだ。意外だ。こんなに後悔があるとは思わなかった。そして、やっぱり最後には智枝のことが頭をよぎる。しかし、少年にはもう時間がなかった。ビル群の赤いランプは、たくさんのフロントガラスのかけらにその姿を映しながら少年を見守っていた。冷たいコンクリートの街が、少年の体を包みこむように広がっていく。ここで死ぬのだ。少年は黒く光る地面に吸い込まれていった。
テレビでバラエティ番組を見ていると、少女の家に電話がかかってきた。母親が電話にでて、一言挨拶をかわすと、何かを聞いて彼女の表情が真剣な面持ちに変わる。彼女の様子からただ事でないことがすぐに伝わった。彼女の応対に聞き耳を立てていると、断片的にだが内容が理解できた。どうも、学校の誰かが交通事故で亡くなったと言うものらしい。恐ろしい話だ。知り合いだったらやだなぁなんて思いつつ、少し音量を下げてなんとなく耳を傾ける。母の口から野谷慎也の名前がでた。心臓が半鐘を慣らすように暴れ出す。視界の周りがふっと暗くなり、周りの音が遠くなる。あらゆる五感に栓がされたようである。テーブルに置かれたスマホは着信をしらす通知が鳴り止まなかったが、少女はそれに気づくことはなかった。たった一件のメッセージさえも。
次の日、少女が学校へ行くと緊急集会が開かれ、野谷慎也の死が伝えられた。集会の内容など覚えていない。多分、いろいろな事務的なことや、黙祷とかそう言うことをやったんだと思う。その日は集会の後すぐ、下校となった。同じテニス部のメンバーは別に集められたがそこにも行かなかった。
少女は学校から出ると、そのまま何かに引っ張られるように事故現場へ向かった。事故車であるとか、車のかけらであるとかは全て片付いて、数人のお巡りさんが立っているだけで、事故の痕跡はもはや残っていなかった。ふと歩道脇を見ると真新しい花束がたむけられている。親から聞いた情報だと、死んだ野谷の母親はひどく取り乱し、今にも事故加害者を殺す勢いだったと言う。ついさっきまでここで泣いていたのだろう。空気にまだ冷たい叫び声が残っているようだった。
野谷が自分に好意を向けているのには気がついていた。あれで本人は隠していたつもりなのだから驚きである。野谷は悪い奴じゃない、しかし付き合うって奴でもない。告白してきたらどうするつもりだと、周りは茶化してきたが、いつだってその答えは「やんわり断る」だった。しかし、最後まで彼からアプローチがくることはなかった。
少女は昨日から開いていないスマホを開いた。200件近い通知のほとんどはクラスと部活のグループトークであったが、一件だけ個人メッセージがあった。それは少女をデートに誘う、シンプルなたった1行の文である。少女は、ただじっと動かず、代わりに口から漏れてでた全ての後悔を絞り切るような嗚咽は灰色のビルにこだまして黒いコンクリートに吸い込まれていった。窓ガラスに西陽が差し込む。街にはもうすぐ夜が訪れようとしていた。