表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

きのこが咲く前に

作者: カシマシキ

きのこ帝国の『桜が咲く前に』から着想。


タイトル以外、本家とは何の関係もありません。

 

 浴室にキノコが生えている。

 少女が見たなら思わず悲鳴を上げてしまいそうな立派なキノコだ。

 全体はおよそ真っ白で、タイル張りの床にびっしりとへばりついているが、さして卑猥な印象はない。そもそもキノコと聞いて卑猥なイメージを持つほうが異端なのだが─少女が見たならテンテンテン─などという紛らわしい説明をしてしまった以上、一応弁解する義務があると私は判断した。

 そうだ、決して誤解しないで欲しい。ツヤツヤした軸の先に盛り上がったヌラヌラとした傘、食べると人体に何らかの影響を与える食べ物の代表格として──それでいて地面から引っこ抜いたときに放出される脳内麻薬が癖になるとキノコ嗜好家の間で私語ささやかれる、我々が持つ普遍的なキノコ像と違って、今私の目の前にあるキノコは、どちらかと言えばカビや変形菌のような横に広がるタイプのものだった。

 じゃあなぜアンタは立派などと戯言を抜かしたのか、と指弾されたとしても仕方がないと思う。だが、断じて私は本当のことを言ったまでなのだ。

 一部分だけを切り取って見れば、確かに何の変哲もないただの黴を、面白おかしく誇張して、いかにも俗受けを狙っているように感じるかもしれない。

 しかしズームアウトして見たそれは、明らかにナントカ派の画家がカンバスに写生したような、見事なキノコフォルムを形作っているのだ。もしや、私がこれをキノコと結論付けたのも、それを一目見たときに鮮烈に刻印付けされたことによる先入観に由来するものではないだろうか、と思わせるほどに。


 しかし浴室にキノコが生えている光景など見たことがあるか?

 私は自問自答した。自問して自答しようとして私は今までの前論を翻すに至った。これはキノコじゃない。

 そこで私はようやく、浴室に足を踏み入れる以前の冷静さを、殆ど取り戻しかけていることを自覚した。


 なぁんだ、こんな簡単な問題に気がつかなかったのか?

 これをキノコとさえ思わなければ、何も思い煩うことはないんだ…………そうだ、考えてみれば何て取るに足らない話なんだろうか…………アハハハハハッ…………まったく……こんなところにキノコが生えるわけがないじゃない…………フハハ……ハッ…………ほんとうに…………そうなのか……?


 考えれば考えるほどに、どつぼに嵌まっていった。

 私が最初に植え付けてしまった強迫観念は、そう簡単にはこれがキノコではないという説得を受け入れてはくれなかった。

 そればかりか、私の中の天使と悪魔みたいな二律背反した存在が、これは本物のキノコだの、そうであるはずがないだのと勝手気ままに耳元で喚き散らすような幻まで現れる始末だ。

 それをよくよく反芻するうちに、ジメジメした環境を好むキノコにとっては、確かに、浴室というのは絶好の繁殖場所じゃないか──と言う、わけのわからない理屈に洗脳されそうになってきてしまった。

 ところで私がここまでキノコに精神を追い詰められるのは、やはり……思い当たる節があった。



 テレビにキノコが生えているという光景は一度見たことがある。“テレビで”じゃなく“テレビに”だ。

 アナログ放送から地上デジタル放送に移行する少し前、薄型の液晶テレビを購入し、『さぁて、従来の重くて益体もないブラウン管の塊を処分しよう』と裏側に手をかけた時だった。

 ぬめりっ……とした嫌に生々しい感触が、中指と薬指の第一関節を刺激し、私は身震いした。瞬時に手を引っ込め、左手をおそるおそる見回すが、特に濡れている様子はない。脇の下や額から滲みでる救難信号のごとき冷や汗を除いては……。

 しかし私はそれを今一度確認しなければならなかった。早く作業を終わらせなければ、これからの快適な文化生活を享受することができない。

 今にもバターが出来上がりそうなほどブルブルと痙攣する手をけしかけ、私はテレビの後ろに潜んでいるであろう“何か”を覗き込んだ。再び冷たい汗が涌き出た。

 季節はもう夏で、七月に入ったばかりのその日はやけに暑かった。換気のために小窓は開けていたが、クーラーをかけていたせいで汗が冷却されただけなのかもしれない、これが冷や汗による悪寒なのかどうかは分からなかった。

 見るとキノコが咲いていた。キノコに花が咲いているとも言えるかもしれない──いや、しかし、花弁の中心の本来は雌しべである部分にキノコが生えていたから、やはり『キノコが咲いていた』という表現が適切なのだろうと思う。

 クーラーの微風を受け、チューベローズのような八重咲きの花冠がチロチロと小刻みに蠢いていた。

 生物の概念を無視して揺れる、一種のフラクタルを形成した見るからに不愉快なその光景に、私は吐き気を催した。実際、トイレに駆け込んだ私は全身に巡りゆく毒を全て立ちきるように嘔吐した。

 とりあえずその時のキノコは、テレビもろとも廃棄物にしてやったが、以来、ともすれば左手に触れてしまったときの厭らしいあの感覚が想起されるようになってしまったのだ。



 そこで私は急に怒りを覚えた。

 あんな忌々しい過去の災厄を思い出させた目下のキノコ像など、有無を言わせず記憶ともども水に流してしまうべきではないか!そう考えると未練など何処にもなかった。

 私はただ、シャワーのヘッドを乱暴に壁から引き抜くと、蛇口を捻り水量全開で真っ白なシルエットに水をかけてやった。突然の冷たい水にビックリしたのだろうか、あるいは本当にキノコじゃなかったのかもしれない。

 塩をかけられたナメクジが溶けてなくなるように、水分をたんと吸い込んでゆく様は、見ていて少しばかり哀れだった。

 よほど喉が渇いていたのだろうな……。


 白む心で、あれは一体何だったのかと考えてみるも、最早さっきまでキノコ─らしきもの─が生えていた場所には“そこに何かがあったという気配”すら跡形もなく消え失せてしまっていた。

 裸のまま後に残された私は、どっと沸き起こる疲れを癒やすように、ちょうど良い温度になったシャワーの湯を頭から浴びる。一気に疲れが抜けてゆくようだった。

 その時、自宅のトイレの方で中学生の妹が「ヒャアァ!」と、か細い悲鳴を上げたのを聞いた気がしたが、特に気にかけず、私はシャンプーのボトルを二度ほどプッシュして頭を掻き洗い始めた。

 次にキノコが現れた場合を想定して、美味しいキノコ料理の作り方でも覚えておこうか……などと考えつつ。。。



 End...

2015年執筆。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ