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なに色の奇跡

作者: 五月悠介


 雲は空を這いつくばった。おそらくやんわりと赤みがかっているのであろう太陽は、丁度灰色の雲に隠れている。明日は雨だろうか、私の心はじめじめしていた。

「美咲ー、どうしたの? そんなにぼーっとして」

 隣に座っているはずの親友の声が何処か遠くから聴こえた。ずっしりと重たくなっている瞼を必死に開け直すと、彼女が器用に色鉛筆を片付けているのが見えた。私は大きく欠伸をして、使ってもいない色鉛筆のふたを閉める。

 ああ、と頭の中を整理した。

「なんか……。めんどくさいなあ、ってさ」

「しっかりしてよ、やる気出してよ部長さん。また学校から出るのが遅れてげんこつされるのいやでしょ?」

 そう言って明菜はくすくすと笑う。いつも通りの笑顔を見て少し正気に戻った気がした。

 私たちがいるこの場所は、学校のグラウンドが一望できるちょっとした高台の様な所だ。美術部として絵を描きに来たのだが、最近は絵を描く気分になれない。それは明菜も分かってくれている事だった。

 私はごめんね、と立ち上がると大きく伸びをした。ついでに欠伸も漏れる。ぎこちなかっただろうか、笑ったのは久しぶりな気がした。


「ねえ見てみて! 私の絵が完成したよ!」

 美術室に到着するとすぐに、明菜は私に見えない様に持っていた大きな紙を黒板に立てかけ、私を少し遠くから鑑賞させた。きれいな色使い、立体感、ユニークな描き足し……、確実に前よりは成長していた。入部したての頃、私は彼女の絵を見て戦慄したものだ。こんな幼稚な中学生がいたのか、と。

「すごいね……。昔の明菜とは大違いだよ」

 明菜はえへへ、と嬉しそうに頬をかくと、

「美咲センセイのおかげだよぉ。あんなに上手い絵を毎日見てきたら上手にもなるって」

 そう言って振り返る。そこには二カ月前、応募したコンクールで大賞を獲ったヒマワリの絵が堂々と飾ってあった。顧問の先生が大喜びして誇らしげに大きくスペースをとったのだ。普段一般の生徒はここに立ち寄らないから、見るのは美術部部員である私と明菜のただ二人だけであるが。私たちは中学二年生なので、部の存続をしてこの絵を飾っておくには来年の新一年生を期待するしかない。しかし正直に言うと、私も明菜もどうでもいいと思うようになっていた。

 ーー私たちは部が無くなっても、ずっと友達でしょ? 絵だって描くのが好きなら趣味で出来るじゃん。

 私も明菜と同じ思いだ。けれどもそのきっかけを作ってくれたこの部が無くなるのは、少しだけいやだった。

「上手くなんかない。あの絵は偶然できたものって前にも言ったじゃんか」

 明菜は「分かってるよー」とアヒルの口で言い煽って、帰る支度を始める。絵から視線を外した私は、なんとなく深呼吸して部屋を見まわした後に鞄をもちあげた。

 どこからかカラスの鳴く、まるで苦しんで喘いでいる様な声が聴こえた。すぐ傍の窓から水平線近くが赤く染まりはじめた空が覗ける。もうそろそろ秋なのかな。明日から夏休みが明けて学校が始まる私たちとしては歓迎しない夜が覆い始める。

 とその時。明菜が「あーっ!」と叫んだ。

「まずいよ……。まだ夏休みの宿題終わってないんだったぁ。おかあさんに今日は早く帰って来なさいって言われてるのにっ!」

「なんか去年も同じような事言ってなかったっけー。もう五時回ってるよ」

「ごめん、今日は走って帰る!」

 彼女はどたばたと教室から出て行った。私は苦笑せずにはいられなかった。



 七日前、お母さんが死んだ。それは唐突で、悲しむほどの実感が持てなかった。おばあちゃんから聞いた話によると、交通事故だったそうだ。私が病院に駆けつけた時にはもう息はなかった。

 小さな手提げ鞄を手に掛け、私はワックスが掛け直されたばかりの廊下を一人で歩きながら思い出す。キュ、キュ、と内履きズックが甲高く音を鳴らす。うざったくもあったが、気持ちよくもあった。

 私は自分自身がお母さんを好きだったかは分からなかった。特に嫌いになるような事をされたわけではない。むしろお母さんは私に優しかった。父親は小さい頃に死んだらしく、今まで私とお母さんの二人で生活してきた。貧しくても、一か月に一回は外食に連れて行ってくれた。嫌いになんてなるはずがない。

じゃあなんで悲しくないんだろうか。

 愛情や絆といったものが無かったからかもしれない。私は知らず知らずのうちにお母さんを空気として認識していたのかもしれない。自分の事は自分が一番分からなかった。心を探ろうと目を瞑ってみても、前が見えなくなるだけだった。


 玄関には人一人いない。私は単調に靴を履き替える。と、いきなり曲がり角で人影が視界に入り込んだ。

「わあっ!」

 私は反射的に目を瞑るが衝撃はこない。それと共に鈍い音がこの玄関に重く響き渡る。私は慌てて振り返る。そこにはある男の子……頭を下駄箱にぶつけ、声にならない嗚咽を漏らしている幼なじみの姿があった。

「宏樹……、大丈夫?」

 どうやらとっさに受け身をとったらしい。彼は私の声に反応して顔をあげると少し目を見開いて、それから微笑した。

「割と大丈夫じゃないかもしれない……」

 宏樹はすぐに冗談だよ、と付け足してまた笑った。私の頬もつられて緩む。私たちは一瞬言葉も無く見つめ合い、私はさっと目をそらした。

「今日は佐藤さんと一緒じゃないの?」

 佐藤とは明菜の名字だ。宏樹は直接明菜と話したことが無いのだろう。私は宏樹がよく知らない人の事を呼び捨てにするような人ではないことは知っている。

「まだ終わってない宿題があるって言って先に帰ったんだよ。明菜の事だからいつも通りだけどね……。宏樹はもう終わったの?」

「もちろん! オレは夏休みに入る前に終わらせたから」

 サッカー部の割にはあまりやけていない肌を見せ、宏樹は大きく自分の胸を叩いてみせる。相変わらずだなあ、と私はため息をつくように笑った。

 お互いに知り合ったのは数年前。四年の時に同じクラスになり、あっちから話しかけてきてくれたのだ。宏樹は友達をたくさん持っている人だった。はしゃぎ倒すような人やガキ大将のような人ではないのだが、宏樹はいつも誰かと一緒にいた。私たちはなぜか違うクラスになると気まずくなって、中学では一二年と違うクラスということもあり喋るのは久しぶりだ。

「じゃあ一緒に帰ろうよ。俺も今日は一人なんだ」

 私は少しどきりとして、そして急いで頷いた。ちょっと待ってて、と宏樹は学校の中に走って行った。


 私は宏樹とは違って友達が少なかった。暗かった訳じゃなくて、人見知りが強かったからだと思う。あまり喋るのは得意ではなかったのだ。四年生になる時のクラス替えで、私は折角つくった友達と全員わかれて一人ぼっちになった。私が宏樹と知り合ったのは初めての班活動の日だ。

 ――オレたちのグループ、一人足りないんだ。

 先生が自由に六人のグループを作れと指示を出したすぐ後に、宏樹はこう私を誘ってくれた。照れ臭そうなその表情に、その頃の私は、席が近かったわけでもないのに気を配ってくれた彼を普通の男の子だと見ることは出来なかった。

 その日から宏樹は頻繁に話しかけてくれるようになり、日が経つにつれて彼の周りにいた男の子や席が近かった女の子とも話せるようになっていった。とても楽しくて、学校が好きになった。

 そして中学に入学し、明菜と出会い、私は自分のペースで友達をつくっている。いつか宏樹の立場になることが私の目標だ。

 私たちは並んで学校を出ると、見慣れた帰路につく。車が途切れることも無く行き交い、横断歩道を渡ろうとして宏樹が押しボタンに小走りで向かった。

「もうすぐ暗くなるのかなあ……。夏も終わるってか」

 西の薄い雲は橙に染まっている。夕方らしい風景を一瞬目に留め、青信号に向かって歩き出す。


 宏樹がはい、と私にアイスを差し出した。私の学校の生徒なら誰でも知っている買い食いスポットの定番メニューだ。

「ありがと……。いいの?」

「誕生日プレゼントだよ。オレはあんまり金を持ってないから、たいしたものは買えないけどさ」

 宏樹は鼻をかいて微笑んで見せる。私は袋を破ってその棒アイスを舐めてみると、口の中にソーダの味が広がった。なんだか懐かしい気分になって、単純に嬉しかった。これだけで今日は意味のある一日になった気がする。

「なんか久しぶりだな。前はよくこうしてアイスとか焼き鳥とかを食べたよな」

「うん。そのために農家のおじいちゃんのお手伝いなんかもしてたよね。あの人たち、まだ元気かな」

「相変わらずだろ」

 そう言って宏樹は笑って見せる。

 私たちは小さな公園を抜けてただただ広い田圃道にでた。見渡す限り成長しきった稲がまるでカーペットのように敷き詰められている。車も入れないこの土の道は、誰でも知っている学校からの抜け道だった。

 すっと思い出がよみがえる。それは秋の心地よい風と共に、草木の香りと共に、おぼろげに頭を横切った。

 二人で過ごした時間は長かった。約束もせずに当たり前のように、夏休みはずっと二人で笑って過ごしてきた。どこで何をしたか具体的な事なんてほとんど憶えていない。でも好きな人と一緒の時間は何をしていても楽しかった。羨ましいと心が呟く。

「そういえば絵は順調なの? 最近噂を聞かないけど」

「どうって……、まあ、順調だよ」

 私は目を合わせられなかった。

 宏樹はそっか、と優しく呟いた。風が私たちの間を吹き抜ける。宏樹はもうほとんど水の流れていない溝を飛び越えると、細い平均台の様な道の上でぐらぐら揺れる身体でバランスをとった。


 なんだか全て忘れてしまいたいような気がしていた。そして、全て忘れてしまっている気がした。隣に宏樹がいる。それだけで心が満足していた。

 ――めんどくさいなあ、ってさ。


「いいなあ、美咲は自分の好きなものを見つけたもんな」

 私は宏樹を見返す。そういう口は笑っていたが、その目は少し怖かった。どうかしたの、と私が訊くと、宏樹は遠くを見るように話し始めた。

「……サッカー、最近つまらなくなってきたんだ。別にチームメイトとか先生とかの問題じゃ無くて、自分にもよく分からないんだけど、嫌いになってきたかもしれない」

 宏樹はひとりで笑うと、その余韻を口に残して続ける。

「前、同じサッカー部の友達と部活をサボって遊びに行ってたんだ。罪悪感なんてなかった。それが分からなくなるくらい、楽しくてさ」

 足を止めると、風が急に吹き始めたように感じた。私は彼を見上げたが、彼は目を合わせなかった。

「そいつも俺と同じで試合になかなか出れなくて、ベンチで応援してるんだ。優秀な一年生はオレ達の事を抜かして、表には出してないけど心の中で馬鹿にしてると思う。もともと運動神経が良くないから、こうなることが予測できなかったわけではないけど……」

 それで練習を休んでいたんだと、宏樹の白い、日焼けしていない肌は嫌みを言うようだった。

 私が顔を上げると、遠くから黒いネコが現れて、私たちの前を横切った。ネコも彼と同じように溝を飛び越えて小道に腰を下ろしたので、踏まないように飛び越えた。

「……変な空気にさせてごめんな。こうやって真剣に話せる相手なんて美咲くらいしかいないから、つい愚痴を」

 美術部に来ればいいのに、そう私は言いかけて飲み込んだ。

「全然気にしてないよ。宏樹の愚痴なんて初めて聞いたな、むしろちょっとだけ嬉しいよ」

 私たちはよそよそしく笑い合うと、すぐに下を向いた。

「サッカー、辞めちゃうの?」

「……たぶんね」


 あるくだらない伝説がある。どこで聴いたかも忘れたが、このあたりに住んでいる人ならだれでも知っている噂。それは近所のお寺だった。

 ――ねえ美咲、知ってる? うちの家の近くのお寺って、昔から奇跡を起こす神様がいるんだって。

 そのお寺が曲がり角から見えてきた。車が入るのをためらうようながたがた道を気にせず進みむ。奇跡が起これば楽しいだろうな、と馬鹿らしげに呟いた。

 カアンカアンカアン

 重さに負けてだらしなくカーブしている遮断機が下りた。視界では焦点が合わずに黄と黒がぼやけて見えた。宏樹は隣にいるのだろうが、何をしているのかは分からない。

 奇跡――キセキか……。

 つい先ほどの宏樹の話を思い出した。彼は悲しそうだった。彼にとってサッカーなんて大した存在ではないかもしれないが、今まで練習してきた時間を無駄にはしたくないだろう。

 奇跡が起こるとしたら何が起こるのだろうか。チームメイトが怪我をしたり、引っ越したり、テレビアニメの主人公の様なスーパーヒーローになれたり……。考えてはみるが、どれも彼自身が喜びそうな事はないような気がした。

 何も積んでいない貨物列車が、猛スピードで私たちの前を通り過ぎて行った。


「じゃあ、またね」そう言って宏樹と曲がり角で別れた。私は手を振ったが、彼に見えたのかは分からない。ぎこちない笑みしか浮かべられなかった。

 私は鞄の中から携帯電話を取り出してしばらく画面を眺め明奈に電話をした。プルルルという音の後、すぐに声が聴こえた。

『もしもし、美咲ちゃん?』

 私は「あ、お母さんですか?」と電話口で呟いた。

『ごめんね、今ちょっとケータイを取り上げてるの。本人も言ってたでしょ? まだ宿題が終わってないって』

「そうですか……。ごめんなさい、迷惑をかけてしまって」

 お母さんは少し戸惑ったようだ。あからさまな感情を表に出してしまい後悔した。

『迷惑なんかじゃないよ。美咲ちゃん、何かあったの?』

「いえ、なんでもないです。失礼します」

 私は相手の声が返って来るよりも先に電話を切った。なんだか虚しくなって適当に携帯電話をいじる。すると突然電話がなり、一人で家にいるであろうおばあちゃんのぶっきらぼうな声が聴こえてきた。

「……今は学校にいるよ。うん、友達も一緒。運動会の準備が長引いてさ。もうちょっと時間がかかるからご飯は先に食べててもいいよ」

 私の嘘をおばあちゃんは「ん」と言ってすんなりと了承した。すぐに電話が切れる。

 家になんか帰りたくなかった。あんなものは私の家ではなかった。私の家は、私がくたくたになっていたり雨でびしょぬれになっていたり、怒って泣きながら帰ってきたりしても優しく迎え入れてくれるお母さんがいる温かい家だった。温かく大切で、過去の、もう存在しない、家だった。

 不意に出てきた涙を止められず、私はつい奇跡の存在を信じたくなった。



 どうでもいいとに自分に言い聞かせていた。死というものを認めたくなかった。必死に抵抗し、考えなかった。

 ――明菜、そんなに悲しそうな顔しないでよ。私は大丈夫だから。

 実感を湧かせないために、私の頭の中ではいつもお母さんが笑っていた。なんで悲しくないのか。あの家はいつもあった。これからもあり続ける。そんなよく分からない思い込みが、心から離れなかった。奇跡を信じるということは、お母さんの死を認めてしまうことだろう。もう会えない。こう頭の中で反復するだけで私は真っ白に染まっていった。

 お母さんに会いたい。ダムが決壊した。もう一度お母さんに会いたい。つらくてつらくてつらくて、息をしていられなかった。

 見る限りでは人一人見えない。私は元来た道を戻り、もうすぐまたあのお寺が見えてくる頃だった。

 ブルルルル

 携帯電話のバイブ音だ。

『………もしもし?』

 なんだか変な声だ。明菜が私を心配してくれているように聞こえる。心配しているのは私の方だというのに。

 歩く早さを緩め、しばらくの沈黙の後に、

「明菜、大丈夫なの? 電話なんかしてきて」

 私は茶化すために言ったが、相手にはどう取られたかは分からない。

『大丈夫だよ。さっきお兄ちゃんが帰ってきたから手伝ってもらう』

 兄がいたのか、などと呑気に考えながら目を閉じた。格好悪く足元がフラつき、一人で苦笑いをする。

『何かあったの?』

 私は少し考えたふりをしてから言った。

「別に何でもないよ。ちょっと暇だったから電話しただけ。勉強の邪魔をしちゃったみたいだね。ごめん」

 私はあ、と呟く。

「明菜ってさ……、死にたいって思ったことある?」



 風が吹き抜けた。ぼんやりとした赤色の風だ。西の空では太陽が沈んで、もうすぐ辺りは暗闇に満ちる。線路の上はなんだか俗世とは別の世界のようだった。普段の自分へ向けての感情、あえて言えば優越感に似た感情が心を浸していった。私は自分の生きる意味を考えた。答えなど見つからず、更に私を絶望させた。

『………どういうこと?』

 心の奥に響く重々しい声だった。

「私はようやく気づいたんだ。奇跡っていうものは起こすためにあるんだ。待ってるだけじゃ何も変わらないって」

 あの噂には続きがあった。あの踏切で轢かれると、一番叶えたい願いが一つだけ叶う。

 私は声を出して笑いたかった。試してみたいんだ、その噂を。

『ねえ、みさき………』

 カアンカアンカアン

 やがて遮断機が降りる。遠くから列車が見えてきた。不気味なほど黒く、足がすくんだ。

 私は耳から携帯電話を離し、猛進する鉄の塊を待つ。減速する気配はなかった。

『「美咲ッ!』」

 もう何も見えなかった。最後に一度だけでいいから母に、お母さんに抱きつきたかった。

 私は目を閉じた。視界の暗闇の中では迫り来る列車のライトが段々と大きくなった。

 傍から聞こえる誰かの声は突然途絶え、私は自分の意識が途絶えたのだと気づくことはなかった。列車は確かに、私を連れ去った。



 Memories 1year ago


 どこからかカラスの鳴く、まるで苦しんで喘いでいる様な声が聴こえた。すぐ傍の窓から水平線近くが赤く染まりはじめた空が覗ける。もうそろそろ秋なのかな。明日から夏休みが明けて学校が始まる私たちとしては歓迎しない夜が覆い始める。

 とその時。明菜が「あーっ!」と叫んだ。

「まずいよ……。まだ夏休みの宿題終わってないんだったぁ。おかあさんに今日は早く帰って来なさいって言われてるのにっ!」

「おいおーい、しっかりしろよ。一年生の時からそんな事やってたら、この先大変な事になるぞ」

 真面目で頭の良い二年生の章平先輩は、茶化すように言って教室を出た。他の二年生の先輩も既に帰ってしまっていた。

「明菜、見惚れてないで早く帰る準備」

 明菜はあわあわと荷物を持ち上げ「ごめん、今日は走って帰るっ!」と言って走り去った。

と、私は出て行ったドアのノブに、なにかがぶら下がっているのを見つけた。なんだろうと袋を手にとってみると、中から桃色のリボンで可愛らしく結ばれた袋が現れる。丁寧にほどくと、中に入っていたのはクマのぬいぐるみだった。それは少し温かくて、手作り感の溢れるものだった。肩が震えて自然と笑みが溢れる。

『お誕生日おめでとう! いつもありがとう♪ これからもずっと親友でいてね』

私はそのメッセージカードをしばらく見つめていた。



 ハンバーグの匂いが香る。クマのぬいぐるみを胸に抱き、テレビを見ていた。

「お母さぁん。お腹すいたよ」

 お母さんは私の十三回目の誕生日を祝おうと張り切っていた。私たちは笑顔になる。

「もう出来ましたっ。手伝って?」

 次々に卓袱台に皿が並び、食欲をそそる。

「高い物を買ってあげられなくてごめんね。誕生日おめでとう」

その卓袱台の上に、お母さんは手編みのセーターを置いた。

「お母さん………ありがとう!」

 私はお母さんに思い切り抱きついた。私は高い物なんて欲しくない。こんなに大変な思いをしているのに、私の誕生日を祝ってくれるお母さんが大好きだった。その優しい手は、私の頭を撫でてくれた。


Memories 4years ago


 そしてそれはもっと昔、小学四年生になったばかりのある日だ。私は体育館で行われる全校集会に向けて荷物の整理をしていた。席が窓側なので少し風が強く、長かった髪がうっとおしかった。

「ねえねえ! それ、君が描いたの?」

 ふと顔を上げると、その顔に好奇心を浮かべた男の子が廊下から話しかけてきたのだった。たまたまスケッチブックが見えたのだろう、彼はそれを指さした。

 私がこくりと頷くと彼は「上手だなあ。絵、好きなの?」と私の目を見た。なんだか恥ずかしくなってまた頷き、ありがとうと小さな声で言った。

「あの絵も上手だよね。いいなあ、俺も絵が上手だったら……」

 あの絵、と今度は教室の後ろの掲示板を指さす。春休みの宿題だ。そんなに上手ではない私のヒマワリがひっそりと座っている。

「ほら、オレの絵」とその男の子の名前が書かれた横の絵を指さす。

「なんか繋がって見えない?」

 確かに、と私は納得した。草の伸びた先や土の境界線。意識して見ると、二つで一つの絵に見えなくもなかった。私たちは無性におかしくなって、くすくすと笑い合った。



 もやもやっとしたイメージが生まれ、昔の思い出がよみがえる。暗かった美咲を応援するようにお金をはたいてスケッチブックを買ってきた母。下手な絵を褒めてくれて、自分を男の子のグループの仲間に入れてくれた宏樹。私に合わせていつまでも寄り添ってくれた明菜。いつの日かの思い出が、色鮮やかに笑っていた。


Back to ‘1minute ago’


 ふと目が覚めると、私は道を歩いていた。見る限りでは人一人見えない。私はもときた道を戻り、もうすぐあのお寺が見えてくる頃だった。つい先ほどから見ていた風景が繰り返される。動画のスクロールバーを少し戻したような感じだ。無意識にポケットから携帯電話を取り出して、そこから明菜の声が聞こえてきた。

『何かあったの?』

 驚き、一瞬困惑したが何も考えないことにした。妙に落ち着いて、同じことが繰り返されるのを待った。自分がこうしようと行動するのではなく、誰か知らない他人――過去の自分に操られている様な気持ちだった。はっきりとしない意識の中、先ほどと同じセリフをケータイに呟いた。


 カアンカアンカアン………と。

 やがて遮断機が落ちた。背中がぞくりとした。視界に列車が映りはじめた。ずっと遠くなのに、あの列車がいつも見ている列車とは違って見えた。

 お母さん、私はどうしたいいんだろう。自分の胸に訊いても、お母さんは答えてくれなかった。

 怖いよ……!

『「美咲ッ!』」

 お母さんはいない。そこにいるのは。

 今まで出したことのないような大声で、自分の殻を破るように叫んだ。

「宏樹、助けてッッッ!」

 彼の恐怖や迷いが消えた。足踏みしてこちらに何かを訴えていた宏樹は遮断機を折りながら気にせず突っ込む。私は宏樹に思い切り手を引かれ、踏切の石の上に抱き寄せられながら倒れ転がる。私がいなくなった瞬間を見計らったかのように、列車は轟音を纏って踏切を走り去って行った。


 二人の激しい呼吸が、太陽が隠れようとしている赤黒い空にとどろいた。宏樹は私を抱きしめたまま動こうとはしなかった。私は段々正気を取り戻し、視界がはっきりとしてきた。

 ありがとう、と宏樹が呼吸の間に言った。意味が理解できずに黙っていると、宏樹は続けた。

「様子がおかしかったからさ、別れた後もお前のこと見てたんだよ。叫んでくれたから、後悔せずに済んだ。危うく、俺は目の前で、自分の好きな人を、見殺しにするところだった。昔から、いっつもこうでさ……。決断が駄目なんだよね」

 あはは、と笑う声が私の耳元で聴こえた。不意に彼は笑うのをやめると、辺りに心地よい秋の風が吹き始める。

「続けてよ、サッカー」

 宏樹の服を掴み、続けた。

「私も頑張るからさ……もう逃げたりしない、前を向くからさ。宏樹も、頑張ろうよ」

 私は思い切り息を吸った。うん、そう彼は強く吐き出した。彼の決意が私を突き動かすようで、急に力が湧き上がってきた。

「繋がったね。……私たちの絵」

 私は目を閉じた。視界や音や全てが消え去り、そこには宏樹の温かさだけが残っていた。


 

 私の過去は完了し、現在を進行する。未来に放たれた弓矢は、あても無く眩い光に埋もれていった。希望も絶望も無かった昨日の私。彼女は楽しさの幸せを知らなかった。

靴を履き、いってきますと小さく呟いてドアを開けた。そこに立っていた明菜は少し神妙な顔をしていたが、

「おっはようっ♪」

 そう言って笑顔になった。

 昨日に玄関の正面の大きな木が切り倒されたそうで、朝日が直接目に入った。眩しくても目を開けていたかった。急に身体が温かくなっていく。

「おはよう。宿題は………」

「終わったよ!………ほとんど」

 じーっと見つめる私に、明菜は「丸つけをするだけだから!」と慌てて言う。目の下のクマは、確かに彼女の努力を示していた。

 家の塀の近くに、黒いネコがちょこんと座っていた。ネコは私にすり寄った。頭を撫でてやると愛らしい声で鳴いた。

「まあいいや。そういえば今日の昼休みと放課後、時間空いてる?」

 明菜はもちろん、と頷く。私は立ち上がり、

「ポスターを作りたくてさ、部員募集の。手伝ってくれるかな?」

「いいともー!」

「お待ちしてます」

 いつもの茶番を繰り出し、二人で笑っていた。こんな日がいつまでも続くと、私ならどんな絵でも描けると、今なら確信できた。

 その時、携帯電話がメールを知らせた。

『遅ればせながらお誕生日おめでとう! 私とも遊んでね? 日曜日にプレゼント渡したいから、おしゃれして動物園に来て!』

 驚いて明奈を見ると、あふれ出る何かをせきとめながら、私は彼女の手を握って急に吹き始める秋の風を感じた。

 ……私はお母さんの事を忘れようと思うんだ。私は寂しくないよ。きっとまた、しばらくして、思い出す時が来ちゃうだろうから。

 光は空を包み込んだ。黄色に、白色に輝いている太陽は、私の視界の真ん中にあった。今日は晴れだろうか、私の心はわくわくしていた。


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