序話 『ここから始まる』
初投稿ではないです!でも、よろしくお願いします!
無際限で無再現で無彩限な花園で、男女のペアが円舞曲を奏でる。二人はその顔に、体に、心に悲しみを湛えながらも、せめてこの時だけは鮮明に、懸命に、必死であろうと笑う。たとえこの時、彼彼女を失ってしまう結果に落ち着こうとも、この上っ面の笑顔を、自分を守るための仮面を、殻を外さまいと、偽りでも構わないと、そう笑うのだ。
彼彼女がここで死に絶えようと、誰もそれを知ることはできない。彼彼女の記憶を鮮明に残すのは彼彼女だけ。ここは別空間、異空間。誰も入り込めない生涯孤独の花園。それでありながら、入るものを拒まない寛容なる花園。偽りの楽園。
花園か彼彼女を受け入れた。希望の園だと嘯き、それとは真逆の絶望とともに受け入れた。例え今この瞬間この選択が彼彼女の終わりを狂わせることはない。ここは花園が守り、受け入れ、貯蔵する場所。ここへ訪れた人々の記憶を、ここに訪れた人々の軌跡を。
「こんな終わり、私もあなたも認めない」
彼女は強く、はっきりと言い切った。こんな場所で終わることは認めないと。
「ああ、認めてたまるか、ここは僕たちの花園で、死に場所だ。でも、まだ、まだ終われない」
そして彼もまた言い切った。ここで終わっても、まだ終われないと。終わらせないと。彼彼女の妄執が、固執が、執着が、願望が、ありとあらゆる要因が、彼彼女を終わらせない。終わるつもりもない。
「頼んだぞ、ラプラスの教典よ。僕たちはまだやるべきことがある」
彼はそう願った。
「頼んだよ、ラプラスの教典よ。私たちはまだ終われない。やるべきことがある」
彼女もそう願った。
この終わりと直接つながった世界のことを、人々は口を揃えて言っていた。ラプラスの花園と。しかし、今となっては誰の記憶にも残らぬ忘却の地。そこで二人は静かに、息を引き取ったのであった。
* * *
ある街はずれ、雪の降り積もった道は既に道としての機能を保持しておらず、ただ白い平原が広がる場所。雪の降りかたからして冬だということがわかる。
どう考えても寒いであろう其処を、事も無げに薄着一枚で彷徨く少年が一人いた。それは度胸があると言うべきか、あるいは奇抜な人と言うべきか、それとも若さの至りというやつなのだろうか。それこそ、少年のみぞ知る、である。
「あ、陽が傾き始めてる。……早く帰らないと時間がっ!」
どうやら少年には急ぎの用があるらしい。陽が傾き始めるのを目に止めると、先程まではゆったりと、それでいながらしっかりとした足取りで進んでいたはずが、その真逆方向へ一心不乱に駆け出した。少年の瞳は血走っており、どう見ても普通ではない。
少年にとってその『仕事』とやらは命よりも大事なものなのかもしれない。人によって、命より大切なものなどないなどとぼやく輩が存在するが、それは飽くまで主観的思考であり、誰もがそれに当てはまるわけではない。
勿論、自分がそう、……命より大切なものなどないと思っていたとする。だが、隣に居る少年はこういった。「僕は自分の命より彼女の命が大事だ」と。その自分とやらは醜いことに自分の思念を、思考を押し付けた。結果、決められていたかのような正論を返され、なす術もなくなる。
少年は首にかけたマフラーが解け、空中舞うことにすらきづかず、ただひたすら走り続けた。しかし、少年の足は正直そこまで早くない。全力疾走しているのだろうが、その速度は十五歳の平均速度に満たない。
「早く……っ!早くしないと!」
少年の心は焦燥感に支配されている。ここで何処の誰が声を掛けようと反応することは……いや、言い過ぎである。例えばここに少年の知り合い、若しくは目的の人から声を掛けられれば、さすがに反応せざるおえないだろう。
だが、そんな都合のいい存在など、此処にはいない。少年に声をかける存在はいない。
だから少年は走ってしまった。まるで惨事のように言うが、実のところその通りだ。少年に声を掛ける者が居れば、少しはいい方向で、運命が変わったかもしれない。
「早く……っ!」
どれだけ早く走れと叫べど、そう都合よく足が早くなるわけでもない。ただ、ただ、焦燥感を抑えるように叫びながら、少年は目に見えて、それでいながらとても遠い場所を目指す。
こんなに急いでいるというのに、こんなに焦っているというのに。どれだけ願えど世界はそれを聞くことはない。ただ、それを見ているだけ。
しかし、少年の届かぬ叫びは無駄にならなかった。……ただ、別の形で叶えられてしまったが。
「——!」
「ひいっ!」
あれだけ急いで走って、願っていたというのに、その全てが裏切られた。少年の叫びは最悪の、それでいて高確率であり得た形で具現化した。
少年の耳に届く獣の咆哮。その疳高く、それでいて威圧を感じさせる声に、少年は耐えることができず、情けない声を上げてしまう。……だが、尻餅をつくことはなかった。
そこからは簡単。恐怖に駆られた少年は、何も考えずに目指す方向へと走る、走る。もう限界だと軋み、痛む脇腹を必死に抑え、せめて生き抜こうと、死の恐怖に抗おうと逃げる。
「はあっ、はあっ、はあっ」
荒く呼吸し、肺にあり得ない程の負荷をかけ、その身に余る長さをまだまだ走る。獣という理不尽な存在に、追いかけられ、追い立てられ、しかしまだ見つかっていないと希望を持っている少年に降りかかる不幸は、これでは、これだけでは終わらなかった。
「あっ……づぅ!」
転んでしまった。逃げることばかり考えていたせいか周りが見えておらず、その結果馬鹿みたいに盛り上がった、誰でも気づくような木の根に足を……脚をかけ転んだ。転んだだけなら、まだよかったかもしれない。
「逃げ……ないとっ!」
少年の叫びとは真逆に、少年の体は動かない。足から大量の血が溢れていた。転んだ時に地面から生えていた木の枝が、彼の脚を貫いていたのだ。それを見た少年は、死の予感と、激痛を感知する。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない!なんで僕がなんで僕がなんで僕が————!」
余りに理不尽な現実に、自分に降りかかる不幸に、絶対なる死の予感に、少年は恐れた、恐れた。悲痛と、悲劇と、否定の叫びと呼応するかのように、度々と流れる血液の量は増えていき、降り積もった白を、鉄臭い赤に染めに染めた。
痛みと、不幸と、現実に襲われた少年は、絶望と願望と否定を頭の中でぐるぐると循環させ、考え、考え、諦め、考えていた。だが、少年はある失念をしていた。こんな状況で、まだ大木すら持ち上げたことがなさそうなか細い腕をしている少年に、ここまで求めるのは門違いで、無茶苦茶かもしれないが、少年は獣を失念していた。
そのツケはすぐに返ってくる。獣が少年の前に現れた。それは狼であり、狼よりもひと回り大きな体躯をしている、凛々しい化け物だ。
前、と言ったら前で、すぐ目の前にいるわけではない。ただ、死を早める存在は、ゆっくりと、ゆっくりと、死にかけている獲物を嘲笑うように、弄ぶように歩み寄ってくる。
「く……るなぁ……」
「————♪」
少年の悪足掻きという名の抵抗は、寧ろ獣の嗜虐心をそそったのか、獣は嬉しそうに、楽しそうに声を弾ませた。人外である獣の声など、気持ちなど分からないし分かりたがる者も居ないだろうが、今回はその感情を、嫌でも理解させられるほどに色濃く出ていた。
「く……るなぁ……ばけものぉっ!」
少年の叫びは既にか細く、それは抵抗というよりも救いを求める声に変わっていた。勿論それで獣の歩みが止まるわけもなく、ゆっくりと、しかし着実と獣は少年に近づいている。もう既に殺せるほどの距離に。
「——♪」
「っ——!」
狼が獲物に、街に待ちわびた獲物に噛みつこう口を、獰猛な牙を見せに見せつけながら突きつけた。その行動が少年を噛み殺す、食べる、喰らう動作であると少年は理解し、死の恐怖に目を瞑る。
しかし、いつまで待っても訪れない痛み。その代わりに聞こえてきたのは、
「————!?」
少年を喰らおうとしていた獣の、悲鳴であった。少年は恐る恐る目を開ける。しかし、その目に映った光景を、理解することは出来なかった。
「え……?」
少年を喰らおうとしていた獣が、その首を真っ赤な円状の肉塊に変え、離れた頭とともに倒れていた。何か要因があった訳でもない。ただいきなり、獣が死んだだけだ。その現状を、現実を、少年は理解できなかった。
その疑問も、次の瞬間氷解してしまうのだが。
「まったく、世話を焼けてくれるさね。うちの子は」
「ロザリー姉さん!?」
ロザリー姉さん。少年がそう呼んだ人物は、確かに姉さんと呼ばれてもおかしくのない年代……は間違っているかもしれないが、容姿の少女であった。
肩ほどまでに緩やかな白髪を垂らし、目元は温厚で、優しく、淡い桃色をしている。身体も其処まで筋肉質な感じはなく、どうかというと、細いが、太い。矛盾しているかもしれないが、そう言い表すしかなかった。
そんな端から見たら町娘にしかみえない少女は、それなりの異常が存在していた。異常点がある。ガチガチに固められたプレート、鎧。獣の血液がべったりと付けられた身の丈に合わない大剣。そのどれもが、町娘とは無縁のものであった。そして、先ほど倒された獣が、この少女に殺されたのだということが、此れ程かと証明されていた。
「帰るのが遅いなと思って、向かいに来たと思えばこうさね。まったく、不幸に愛されてるさね。取り敢えず、その足を抜くさね。……暴れないさねよ?」
「え?」
困った子だと、やれやれと肩を竦めるロザリーは、少年の困惑の声を無視して貫いた分の枝を大剣で斬り飛ばし、少年の脚を持ったかと思えば……
「ほいっ、と」
力任せに抜いた。
「いっづうぅぅぅぅううゔ!」
その行為が少年に痛みを与えないわけもなく、少年はこれでもかと悲鳴をあげる。悲鳴と言っても短いもので、慣れない苦痛に耐えられなかった少年は気絶した。
「本当に、どうしようもない、困った子さね。レストラーテ」
そう言いながらも、その目は慈愛に満ちていた。最後にレストラーテ、と、謎の文字羅列を口にしたかと思うと、少年の傷、というよりも穴に手を添えた。するとたちまちに傷が塞がれ、怪我などというものは姿形を残さなかった。
「さて、と。帰りますか」
治療を終えたロザリーは、気絶した少年を担ぎ上げると、先ほど少年が走っていた方向へ、歩き出した。