最終章 これから始まる…… 5
いよいよ、南十字祭の開催されるその日がやって来た。
ディルはこの日をどれだけ待ち侘びたことか。ディルの部屋にある六月のカレンダーには、七月一日の南十字祭に向かって×印が網目のように書き残されていた。
あの戦いからはや一年。時間は矢のように過ぎていった。ディルは兵士として誰からも認めてもらえるようになっていたし、顔立ちもたくましくなった。身長は五センチも伸び、髪は少し短くなった。
他に変わったところと言えば、容姿や性格だろう。ディルはみんなのことを思うあまり、自分でも気付かないうちに容姿や性格を真似ていることが多かった。
服のセンスはレン、言葉の巧みな使い分けはユンファ、たまに乱暴で、だらしのない性格はジェオ、雇われ料理人の手伝いをするようになったのは、きっとアルマの性格だろう。ルーシラの説教ぐせが飛び出す相手は、もっぱら母親のパルティアだ。物忘れのひどい母親を、ユンファ張りの口調で咎めるのはディルの日課になっていた。食事中の会話に弾みがつくし、ディルが説教を始めると、トワメルは口の中に食べ物を突っ込んで、笑いを堪えるのにいつも一苦労していた。
ディルが南十字祭を首を長くして待っていたのには二つの理由がある。
一つは、特別休暇をもらえたことだった。兵士たちはみな、零時から始まる『祈りの儀式』まで巡回をしなくてはならないのだ。飲みたい酒を一滴も許されず、うだるような夏の陽射しの中を暑苦しい鎧を装備して歩き回るのは、死神を背負って歩くくらいの覚悟が必要だと、兵士たちは口を揃えて豪語した。
もう一つは、もちろん、ジェオやユンファ、アルマに会えることだ。先週、ジェオから届いた手紙には短い文章が殴り書きされていた。
『ディルへ。
楽しくやってるか、ディル? 実は俺、結婚したんだ。だから祝ってくれ。ずっと前から、新婚旅行はヴァルハートにしようって決めてたんだ。南十字祭の日に会いに行くぜ!
ジェオより』
レンからの音沙汰は全く無しだったが、ユンファとアルマはもう店を開いているだろうし、ジェオも到着した頃だろう。それにもしかしたら……。
期待に胸を膨らませながら、ディルは屋敷を飛び出した。城下町までは歩いて行くつもりだったが、屋敷の前に待機していた慎ましい様相の馬車からトワメルが降りてきたので、ディルは思わず立ち止まった。
「町まで行くのだろう? 私も用がある。一緒に行くぞ」
二人がその小さな馬車に乗り込むと、トワメルは手綱を取り、のんびりと草を頬張っていた馬に一打ち入れた。馬は見た目どおりのんびりと動き出し、ゆっくりと丘を下っていった。夏の暖かな風が二人の間を吹き抜け、蝶や鳥たちがそのそばを穏やかに飛び去っていく。どこからか聞こえてくる鳥のさえずりが、ヒヅメの音と混じって優雅に鳴いた。
「ディル。今の生活に不満はあるか?」
トワメルの意表を突いた質問と、馬車の大きな揺れが同時にやって来たので、ディルは悲鳴のような返事をしてしまった。
「どうなんだ? あるのか?」
仲間たちとの再会を目前にほとんど上の空だったディルは、どう答えてよいか分からずあたふたしていた。
「どうして急にそんなことを聞くんですか?」
落ち着き払った途端、思わず飛び出した第一声だった。
「私はディルの気持ちを知りたいんだ。素直に思っていることを言えばいい。叱りはしない」
なぜトワメルが、飼っている馬の中でも飛び切りのろまな馬を選んだのか、ディルには分かった。今日のトワメルは、どこかおかしい。
「不満はありません……」
完全に平静を取り戻したディルは、短くそう答えた。
「だけど、夢ならあります」
青々と晴れ渡る空を見上げながら、ディルは言い添えた。
「夢か……そうか。……まさか、旅に出たいという夢ではあるまいな?」
ディルは「どうして分かったの?」と言いたげに、トワメルの横顔をじっと見た。トワメルの口元にしわが寄った。
「ずっと前からの夢でした。仲間たちと船に乗って、世界中を冒険できたらなあって……。もちろん、お父様は反対ですよね?」
「当然だ」
トワメルはぴしゃりと即答した。ディルの夢への期待は、一瞬にして萎えてしまった。そして、どうしてあんな問いを掛けたのか、考えれば考えるほど分からなくなっていった。
「よいか、ディル」
トワメルの口調はやけに穏やかだ。
「はい、お父様」
ディルは、まるで王様を相手に話しているようなおごそかな声色で返事をした。
「お前は私の跡を継ぐのだ。兵士として、王を、国民を、この国を、守っていかなければならない。……だが、これだけは覚えておいてほしい」
トワメルの横顔に、朗らかな笑顔が広がった。
「一つの兵士としてではなく、一人の人間として生きていくのだ。己の意志に嘘はつくな、常に正直に生きろ。それが、ディルの生きるべき道なのだから」