三章 城下町にやって来た者たち 4
そのあと、屋敷での勉強や剣術の稽古のことをディルが話して聞かせていると、八つのショートケーキは三人の腹の中にすっかりおさまっていた。ディルが食べたのは(ほとんどがジプイの食べかけだったが)チェリームース、ムースフロマージュ、野いちごのミルフィーユで、屋敷で食べる豪華なデザートより一段とおいしく感じた。
ラーニヤが銀貨一枚で会計を済ませ、席を立った三人は、噴水のある憩いの広場まで行くことに決まった。
「この国には映画の撮影をやりに来たの?」
特に人通りの激しい『野菜市』の前を急ぎ足で歩きながら、ディルはそう尋ねた。
「知らないね。パパはいつだって自分中心に俺たちを振り回すんだ」
リヤカーに山積みにされている大きなかぼちゃをしげしげと眺めながらジプイは言った。ラーニヤはにぎやかな通りを楽しそうな面持ちで見回し、騒々しいほどの活気に負けないよう、大きな声でジプイに続いた。
「しばらくここに滞在するって言ってたけど、それ以上は何も教えてくれないの。でも私たちは、カエマ王妃と何か関わっているんじゃないかって、パパに内緒で話し合ってたの」
ディルは、トワメルからカエマ王妃のことを少しは教えてもらったことがあった。英気に満ち溢れた切れ者で、心の内を見透かされてしまいそうなグリーンの瞳を持ち、そして、『魔女』の血が流れているということ……。
ディルも、町の人々もだが、まだカエマ王妃の姿を一度も見たことがなかった。『魔女・カエマ』がロアファン王の妃になってから半年、カエマ王妃は、城の外へ足を踏み出すことならまだしも、窓から外の景色を覗くことすら拒絶しているかのように思えた。そんな名だけの存在だったカエマ王妃が映画撮影隊のキングニスモを呼び寄せたとなると、何を考えているのかますます理解し難くなる。
四つの噴水が十字状に配置された憩いの広場で三人が初めに見たものは、またもやたくさんの人々が寄り集まる光景だった。南ゲートほどではないが、約二十数名の老若男女が足に根が生えたように立ち尽くしている。たまに聞こえてくるどよめきと歓声が、ディルの記憶の一部を呼び起こしてくれた。小一時間ほど前、南ゲートへ向かう途中の馬車の中でこれと同じ光景を目にしたのだ。
「きっと、路上屋が開いてる動物を扱った見世物だよ」
黙って突っ立ったままの二人を見兼ねて、ディルはかいつまんでそう説明した。やがて三人は、吸い寄せられるようにして人垣の方へ歩み寄り、拍手の止まない観客に混じった。どうやら見世物屋は終演してしまったらしい。ディルのすぐ目の前にいる登山用リュックを背負った男は、何か叫びながら狂ったように見物料の銅貨を投げ続けていたし、右斜め前の若い女は「この本にサインして!」と必死に懇願し、辞書のような分厚い大きな本を空に向かって振りかざしていた。
やがて見物客の多くは「久しぶりにすごいものを見た」と、幸せそうな表情でその場を去っていった。後に残され、露になった絨毯の上の二人を見て、ラーニヤが叫んだ。
「シュデール兄さん……ハム姉さんまで!」
埃っぽい、すみれ色の絨毯の上に尻を据え、意地の汚い笑みを浮かべながら、今稼いだばかりの銅貨や銀貨を足元に寄せ集めていたシュデールは、ラーニヤの息の詰まったような叫び声を聞いて、小豆のような目を大きく開いてしばらく呆然としていた。手足を宙でばたつかせ、暴れまくっている小ネズミを檻へ乱暴に押し戻していたハムが、冷たい視線に鋭い眼差しを併せ持った瞳で、声の主であるラーニヤを見つめた。
「ずいぶん早いじゃねえか。到着は明朝だって聞いたぜ」
絨毯の上に手早く仕分けされていく銅貨と銀貨の重なる金属音が、とても愉快でたまらないといった調子でシュデールが言った。
「ひいばあちゃんも一緒なんだ。さっさと出発しないと、パパの新車のラグドイルを杖で叩き壊すって脅したもんだから、きっとパパは焦ったんだよ」
疲れ果てたのか、甲羅の中にすっかり引きこもってしまったカメの上にバランスよく座りながらジプイは説明した。シュデールはカバのように大きく口を開け、ゲラゲラと大声で笑った。その拍子にシュデールの手から銀貨が一枚、銅貨の山に滑り落ちるのをディルは見た。
「親父はいつだってあのばあちゃんに頭が上がらねえんだ。あの光景を見てると、親父が情けなく見えるぜ。その点、俺とハムを見てみろ。これだけ稼げれば立派なもんさ」
「大事なお届け物を使った商売が立派なものなら、これからしばらくこの国に滞在して普通の商売を続ける方がよっぽど惨めでしょうね」
ラーニヤは大股でシュデールに歩み寄り、立腹した様子でそう言うと、それまで御機嫌だったシュデールも、檻の中で元気に走り回る小ネズミを監視していたハムも、まるで船酔いしたように顔色を悪くしてみせた。
「このネズミとカメを持って帰るだけの仕事じゃなかったのか?」
シュデールはよろよろと立ち上がり、絶望的な声を出した。ラーニヤは眉を吊り上げたまま、落ち着いた態度で首を小さく横に振った。
「パパのちょっとした都合が重なっちゃって。私たちがこの国へやって来たのは、兄さんたちとの合流も兼ねてたのよ。当初は、明日の朝早くにちゃんと二人を迎える手はずだったんだけどね」
シュデールは、カメが曲に合わせて行進したのと同じように、絨毯の端から端をしょげた表情で往復し始めた。
「この休暇を利用して、ドラートラック国の大戦艦を見に行くつもりだったのに。この国に無意味に居座り続けるくらいなら、あの世界一退屈な人間たちが集まる“オアシス同好会”主催の紅茶パーティーに出席してた方がまだ良かったぜ」
シュデールは不気味な薄暗い声でぶつぶつとそう言った。ひどく落ち込んだ様子のシュデールを見て、ラーニヤはもう怒るのをやめたようだ。
「ところで、例の仕事はうまくいった? ほら……あの……」
ラーニヤは一瞬、ディルの方をチラッと伺いながら小声でそう聞いた。シュデールはもっとバツの悪そうな顔をしてみせた。
「あと少しだったんだ。邪魔が……事故が起きた。思いもしなかった事故さ。……そいつは誰なんだ?」
ディルは、いつ自分のことに話題が移るのかとそわそわ待っていた。シュデールがそばで立ったままのディルに気付いてくれたのは運が良かった。
「トワメル・ナックフォードの息子のディルだよ。俺たちが町の案内を頼んだのさ」
ジプイは言いながら、岩のように動かなくなったカメをつまらなそうに小突いた。「はじめまして」と声をかけるディルを見つめたまま、シュデールはそのまましばらく考え込んだ。そして、革袋の一つから紙切れのようなものをおもむろに取り出し、くしゃくしゃに折り曲げられたそれをディルの目の前で広げてみせた。そこには、ディルの見覚えのある人物の顔が描かれていた。
「レン・ハーゼンホーク。俺たち、こいつを探してるんだ。何か知らないか?」
ジプイやラーニヤ、退屈そうに小ネズミを眺めていたハムでさえも、何食わぬ表情でディルを見つめている。シュデールがその名を言ったとおり、そこには確かに“現在行方不明”のレン・ハーゼンホークの姿があった。本当に燃えているかのように真赤に逆立った髪の毛、勇気や希望に溢れた勇敢な瞳、成人前の若々しさを感じさせる、まだあどけない表情の残る男の顔……。
ディルがこの青年を最後に目にしたのは、昨年の南十字祭の時だ。トワメル、レン、レンの父親の三人でロアファン王の護衛に付いていたのをディルははっきりと覚えている。国全体が一大イベントと称して沸く南十字祭。ヴァルハート国でも特に有能な兵士とされるトワメル、ハーゼンホーク親子の三人が王の護衛をする姿は、ディルが忘れもしない光景の一つだ。
レンの父親はザックスという名で、トワメルと対等の剣術の使い手と言われていた。だが、トワメルのように戦争で人を傷つけたりできるような心の強い持ち主ではなかった。自分にとって、本当に大切な場でしか剣を振ることはなかったのだ。トワメルは、そんなザックスを影ながらライバル視していた。
レンも父親の血を引いた凄腕の剣豪だと認められていたが、当の本人に兵士を続けていく気は無かったようで、そのことでいつもザックスと喧嘩をしていたのはみんなが知っている。親子揃って謎の失踪があった一ヶ月前のあの日……あの日から一度だってハーゼンホーク親子を目撃した者はいなかった。ディルでさえも、二人の消息を知らないのだ。
ディルは、ハーゼンホーク親子の過去の惨劇を否定するように、そして、言い知れぬ不安と恐怖を払い除けようとするように、首をただ横に振ることしかできなかった。