二十章 物語の結末 5
「運が良いことに、旧世界に存在したアクアマリンは全てこの世界に残されていた。私は世界の海を東西南北の四つに分け、人間たちが再び悪事を働かぬよう、それぞれにアクアマリンを監視する人魚たちを作り出した。あとは、四十五年という歳月を経て、体内にアクアマリンの魔力を蓄えていくだけ。そしてついに手に入れた、この素晴らしい体を」
グランモニカは空いている方の腕を伸ばしたり折り曲げたりし、関節をギシギシときしませた。まさに、絵本に出てくる怪物の姿だ。
「アクアマリンが悪用されるのを恐れているのに、どうして僕たち人間をまた作り出す必要があったんだ?」
殺気立った赤い瞳を見つめながら、ディルはぶっきらぼうに聞いた。慎んだ口調など、この怪物には不要だと思えた。それに、強気な発言をすれば、強張った全身が少しはほぐれる。
「お前にはまだ分かるまい。強者を恐怖させ、弱者を支配する、この悦楽が。人間とは、私に快楽を与えてくれる餌そのものだからな。……だが、この世界は私にとっては試作品のようなものだ。旧世界では自由が利かず、精巧な世界作りは断念せざるを得ない状況だった。だが、今度こそ見せてやろう。四十五年の時間を費やして築いた新世界……グランモニカが万物を支配するという、夢のような新世界をな」
遠くの空で鳴り響く雷鳴が、渦巻く黒雲の中で稲光を呼び寄せた。ディルは根っこと根っこの間から黒雲に覆われた空を眺めた。さっきまで青空が広がっていた東の空さえも、今は真っ黒な闇に包み込まれている。四つの黒雲が一つとなり、完全に世界の空を覆い尽くしてしまったのだろう。新世界の入口が開かれるのは時間の問題だ。
「ディル、新世界へ赴くための心構えはできたか? カエマを殺したら、すぐに新世界への入口を開いてやろう。カエマが自分のために用意した、闇の雲を使ってな」
ディルはマントをひるがえし、剣を握り直すと、変わり果てたグランモニカの元へと歩み寄った。なぜだか自分でも分からないのだが、心の中からふつふつと沸き起こる微小の勇気が、ディルをそうさせていた。
「お前は一つだけ、重大なミスをおかした」
奥歯がガチガチと音を立てないよう、歯を食いしばりながら、ディルは唐突に言い放った。グランモニカの血眼がギョロリとこちらを向き、むさぼるようにディルを睨んだ。
「この凄まじい力を前にし、頭でも狂ったのか?」
グランモニカの鋭い睨みは、ディルの言動を楽しむような楕円の形に変わっていた。
「レンに『反・カエマ派』の結成を促してしまったせいで、お前の計画は失敗に終わるんだ。なぜなら、僕たち『反・カエマ派』が新世界の始まりを絶対に阻止するからだ」
グランモニカが体の向きをゆっくり変えると、一角の先端が静かにディルを捉えた。ディルは剣を盾のように構え、グランモニカの次の行動を見極めようとした。
「だったら、死なない程度にお前をいたぶり、真珠玉に閉じ込めた男は粉々にしてやる」
グランモニカが身をかがめ、脇に抱える真珠玉がキラリと一閃した、その時だった。城へと続く天井からゆっくりと降下してくるカエマとレンの姿が、ディルの視界に飛び込んできた。カエマの傷だらけの顔に存在する灰色の瞳はまっすぐ前方を見つめている。南十字祭の時、レンが残した痛々しい傷跡だ。
だが、あの時のカエマとはかなり様子が違う。腕や足、首周りに至るまで、全身が青い羽毛でふわりと覆われ、腰のあたりからはお馴染みの尾翼が垂れ下がっている。
そのカエマのすぐ隣で、レンは背中を丸めてうずくまり、肩で息をしていた。グランモニカの血のように赤い瞳が、カエマをじっと見つめたまま離さなかった。
ディルとグランモニカの間に、二人は音もなく着地した。
「案ずることはない。私の邪魔ばかりするので、少し痛めつけてやったのよ」
その場で倒れ込むレンに慌てて駆け寄るディルの姿を腹立たしげに眺めながら、カエマは淡々と説明した。
「……おかげで、予定よりかなり時間がかかってしまったけどね」
「レン、しっかりして。立てる?」
レンの苦痛に歪む表情を覗き込みながら、ディルは小声で呼びかけた。レンはしばらく荒い呼吸を繰り返していたが、やがて落ち着き、苦笑した。
「奇襲を四回かけたけど、こっぴどくやられちまった。……肩を貸してくれ」
ディルはレンの腰あたりに腕を回し、その場から足早に避難した。カエマに対するグランモニカの攻撃は、いつ始まってもおかしくない状況だった。
「ありゃ何者だ? 怪物にしちゃあ、ちょっとブサイクだな」
根っこの壁に寄りかかり、グランモニカの成れの果てをあごで指しながら、レンは囁いた。
「グランモニカだよ。カエマの野望と同じ、新世界の入口を開くために、あいつは僕たちをずっと利用してたんだ。それに、邪魔になったカエマを殺すって、すごく躍起になってる」
グランモニカの前まで歩を進めるカエマの後ろ姿を見つめながら、ディルは言った。レンは開いた口が閉まらないようだった。
「お前たち人間の時代はもう終わったのだ。カエマ、それがどういうことだか分かるか? 長い歳月を経て、私はこの世界を支配するにふさわしい体を手に入れた。そして、新世界の神として存在できるだけの力を手に入れた。お前が私の手によってこの世界から葬られた時、グランモニカの時代が……」
城の上空で雷鳴が轟いた。辺りは切れかけの電球が点滅するような光の明滅に照らされ、城下町から聞こえる砲弾の破裂する爆音が、雷鳴を追いかけるようにその遺跡を通り過ぎていった。
そして、カエマの右手がグランモニカの鎧を砕き、胸部を突き抜け、その先にある“心臓”を握った。
「ずっと待っていた、この瞬間を。この世界に来てからずっと、あなたを……グランモニカを殺す瞬間を……待っていた」
グランモニカの目が満月のように丸くなり、震える手がカエマへ伸びていった。
「なぜだ……私には指一本、触れることはできないはず……私の魔力に、お前は屈したはず……」
「ええ。あなたが長い時間をかけて魔力を蓄えていたことくらい、知っていたわ。でも、私にはもっと手っ取り早い方法があるのよ。私はその方法を使って、つい昨日、莫大な量の魔力を奪ってやったの。東、南、北、それぞれの人魚のすみかを支配する、統治者たちを殺してね……ドラートラックの支配計画は失敗だったから、北の岩場は少し強引だったけど。……つまり、そう。あなたは、私に喰われる最後の餌」
グランモニカの顔が、絶望の色で染まった。三百年という長い人生に、終止符が打たれる瞬間だった。
「さようなら、私から全てを奪った人」
一瞬の出来事だった。グランモニカの上半身はぐにゃりと崩れ落ち、微動だにしなくなった。瞳は白くなり、眉間の一角は光を失っていた。手から真珠玉が滑り落ち、粉々に砕け散った。
グランモニカの亡骸から引き抜かれたカエマの右手に、赤い何かが握られていた。それは手の中でトクトクと弱い脈を打つ、グランモニカの心臓だった。
「……ジェオ!」
割れた真珠玉のそばにジェオとホワゾンドープが転がっているのを見つけ、ディルは思わず叫んだ。ジェオは仰向けに倒れ、気を失っていた。ディルとレンは協力してジェオを根っこの壁まで運び出し、もう一度、警戒するようにカエマを見た。
「あの怪物を殺しやがった……一瞬で」
レンのか細い声がそう言うと、ディルは首を小さく横に振った。
「それだけじゃない。今のカエマの力は本気じゃなかった……本当の怪物は、カエマだ」
カエマは骨張った両手でグランモニカの心臓を包み込み、そのまま口の中へ押し込んだ。ディルは吐き気がし、うずく胸を片手で強く押さえつけた。
「あれが彼女流のお食事ってわけか。あんな食われ方されたんじゃ、きっと親父も死に切れなかったろうな……」
レンが言い終わらないうちに、グランモニカの亡骸はそこから音もなく消え去った。これで、グランモニカの魔力や記憶がカエマの身に宿ったというのだろうか? これが死人を吸収するカエマの力だというのだろうか? カエマの容姿が変わった様子はまるでなかった。