二十章 物語の結末 2
その後ろ姿を追いかけながら、ディルはこの女の子が何者なのか、ずっと考えていた。そもそも、こんな所に一人、女の子が取り残されているわけがない。幽霊のようにぼんやりしているのは、誰かが作り出した魔法体だからなのだろうか? もしかしたら、レンがディルのために作ってくれたのかもしれない。
「君、魔法体なの? 僕を案内してくれてるんでしょ?」
女の子がまた踊り場で足を止めたので、ディルはとっさに聞いた。だが、女の子はディルの方を見て、首を横に振っただけだった。そして、それ以上階段を下りようとせず、右手に続く廊下へ向かって歩き始めた。
「気付いたら、ここにいたの」
端の見えない、永遠に続きそうなくらい長い廊下を音もなく歩みながら、女の子は静かに言った。
「たぶん、また開かれようとしているからだと思う」
「また開かれるって?」
ほとんど闇の中で、女の子のはっきりとしない姿を追いかけながら、ディルは聞いた。ろうそくの明かりの中で、女の子は不意に立ち止まった。
「新世界への入口よ」
女の子の言葉に驚くと同時に、ディルは何かにつまずいて転んだ。だが、今はその“何か”を気にしているどころではなかった。
「入口が開かれたって? いつ?」
四つん這いのまま、ディルは女の子を見上げた。女の子にさっきまでの笑顔はなかった。
「今から四十五年前。あたしが……そう、ちょうどこの年齢の時。まだ五歳の時だった」
女の子がディルを置いて歩き始めたので、ディルは呆然としたまま後を追った。だが、足に何かがからみついてきたので、また転ぶところだった。体勢を立て直してから足下をよく見てみると、そこには太い木の根っこが束になって放り出されていた。というより、石と石の隙間から、固い壁を突き破って木の根っこが飛び出している。それはまるで、この廊下全体が森の中にすっぽり包まれてしまっているようだった。
「でも、それっておかしいよ。四十五年前に開かれたなら、そのことを大人たちはみんな知ってるはずだし、僕らだって……。でも、新世界への入口が開かれたなんて事実はみんな知らないし、本にも残されてないじゃないか」
足下に気を配りながら、ディルは決定的な事実を語った。女の子は木の根っこなど眼中にないらしく、泳ぐようにスイスイと歩き続けた。ディルの抗議に対して女の子は何も答えなかったが、突き当たりを右に曲がった時、ディルは立ち止まる女の子の悲しげな背中を見た。
「それは、あなたたちがこの世界の住人だからよ。入口が開かれたのは旧世界……つまり、前の世界だったから」
ディルが黙っていたのは、返す言葉がなかったからではない。混乱していたからだ。頭の中で女の子の言葉を整理しようとしても、どうしても言葉と言葉の接点が見つからない。まるで、複雑な形をしたパズルのピースをつなぎ合わせているようだった。
「ようするに……前の世界で誰かが新世界を作り出した。その新世界が、今僕たちが暮らしているこの世界ってことなの?」
自分で自分の言っていることが信じられなかった。ちらつくろうそくの火を眺めながら、女の子は大きくうなずいた。
「あたしは旧世界の人間だった。この世界へ来たのは私を含めてたったの二人。家族や仲間はみんな旧世界に取り残されて……死んだの」
気付くと、女の子はそこから消えていた。ディルのずっと前方を歩いている。
「……でも、何かおかしいよその話。この世界にはずっと昔から伝わる古い伝統があったり、色々な歴史が残されているんだよ。現に、ヴァルハート国が建国されたのは今から五百年以上前だ」
女の子を追いかけ、ぜえぜえと息を弾ませながら、ディルは言った。進めば進むほど根は太くからまるし、天井から垂れ下がる根っこの先端がよく顔を打った。
「この世界の人間や動物の多くは、みんな魔法によって生み出された作り物なの。その作り物の人間に、偽りの歴史や記憶を刻み込むくらい、簡単なことだったのよ。作られた人間たちは、あたかも自分が記憶のとおりに生きてきたのだと錯覚しながら、今も尚、世界のどこかで生き続けている。そして、創造された人間や動物は繁殖を繰り返し、あなたたちが生まれた」
「嘘だ……そんな話。むちゃくちゃだ……でたらめだ」
ディルは前後左右の区別がつかないくらいの混乱に陥った。そして、ディル・ナックフォードという存在が何者なのか分からなくなるくらい、恐怖していた。
『作り物? 偽りの記憶? ……そんなこと、馬鹿げてる……』
頭の中がぐるぐる回って、深い深い闇に落ちていくようだった。女の子の背中を目印に、再び階段を下りていく自分がいることに、ディルはようやく気付いた。
「君は、どうしてそのことを僕に?」
女の子は階段の真ん中あたりで立ち止まり、振り返った。そこにあったのは、女の子の澄み切った笑顔だった。
「にいなら、新世界への入口を封じることができると思ったから。だから、あたしはにいの前に姿を現すことができたし、にいは私を見つけることができたんだと思う。にいが持つその大きな魔力なら、新世界の始まりを阻止することができるはず」
女の子にそう言われても、ディルはあまり驚かなかった。そのことに関して思い当たる節がいくつかあったため、心の片隅ではぼんやりと自覚していた。だが、誰にも相談することはできなかった。西の海底へ行った時、ディルはアクアマリンを受け取ることを拒んだ。それなのに、どうして自分の中に魔力が宿ってしまったのか、分からないでいた。ディルにとっては、そのことがとても怖く、ずっと誰にも話すことができないでいた。
もしかしたら自分は人魚の子なのではないかと……そんな結果が待っていると思うと、魔法のことを考えるのでさえ怖くてたまらなくなる……。
「……でも、僕は魔法のことを一切知らない。本当に魔法使いなのかさえ、僕には分からないよ。僕は、自分自身が怖いんだ」
ディルは、かつて味わったことのないほどの絶望感で全身が満たされていた。新世界への恐怖、自分への不安、身勝手なカエマへの苛立ち。その全てがぐちゃぐちゃと複雑に絡み合い、絶望という名の大きな塊となってディルを押し潰そうとしていた。
「違うよ、にい」
こんな最悪な状況で、最悪な気分だというのに、女の子は笑顔のままだった。それも、何の迷いも恐怖も感じられない、自信に溢れた笑顔だ。そんな力強い笑顔で、ディルをまっすぐに見つめている。
「にいは、自分が怖いんじゃない。目の前の困難から逃げようと、心の中の不安や迷いを身代わりにしてるだけだよ。にいには、こんな作り物の世界でやっていけるだけの、立派な意志がある。……にいの魔力は必要だよ? でもそれ以上に、この世界で生きていきたいっていう大きな希望が必要なの。にいは、もうそれを持ってるじゃない」
女の子の暖かな手が、ディルの震える手をつかんだ。霧の中を漂っているような女の子のくすんだ輪郭が、今ははっきりと見えている。黒曜石のように輝く黒い瞳が、ディルにとても小さな勇気をくれた。そして、誰もが持つ未来という名の希望を、かけがえのない希望を、ディルに思い出させてくれた。
「行こう、にい! もうすぐそこだよ!」
「うん……行こう!」
二人は階段を一気に駆け下り、中央が吹き抜けただだっ広い階層に到着した。下層を見下ろすと、以前は大広間らしかった空間を見渡すことができた。今は、木の根っこが絨毯のようにびっしり敷かれ、中央で大穴が口を開けているせいで、かつては活気溢れた城の玄関も、その面影は微塵も感じられなかった。
ディルは、女の子が間違いなく、あの大穴に向かっているのだと確信した。その大穴とは、ファッグレモンの小屋ならすっぽり入ってしまいそうな大きさで、ずっと下まで続いているようだった。だが、大広間は一階だ。お城を訪れるたびに毎回ここを歩かされたので、自信がある。だとすると、大穴の出口はグランモニカのいる遺跡に間違いはなさそうだ。
二人は大広間へ通じる階段を駆け下り、大穴の数歩手前でゆっくり止まった。そこに辿り着く頃には、二人揃って肩で息をしていた。
「まだ怖い?」
青緑色の光を放ち続ける大穴の遥か底の方を見つめながら、女の子は静かに聞いた。
「まだ少し怖いかな……」
大穴に吸い込まれそうになりながら、ディルは正直に答えた。
「でも、大丈夫。この先で仲間の一人が待ってくれているはずだから。言ってなかったけど、僕には仲間がいるんだ。とても信頼できる、とても大切な仲間……もちろん、君もその一人だよ」
女の子が寂しげな表情を見せたので、ディルはとっさに言い添えた。だが、女の子はますます悲しそうに下唇を噛み、目にいっぱいの涙を溜めた。
「ごめんね、にい。全部あたしのせいなんだ……あたしが悪いんだ。ごめんね……」
溜まっていた涙が目尻からどっと溢れ出し、頬を伝った。
「どうしたの? ほら、泣かないで、僕に話してみてよ」
ディルは、汚れた服の袖で女の子の頬から涙を拭いてやった。女の子は涙をこらえながら、小刻みにうなずいてくれた。
「この世界がおかしくなったのは、全てあたしの責任よ。だけど、それは仕方がなかったことだったって、にいにはちゃんと分かってほしかったの」
ディルは、女の子の体が再びぼんやりとかすみ始めたことに気が付いた。いや、それだけではない。女の子の向こう側にある壁にかけられた絵画が、体を通して見ることができる。ディルは女の子の肩をつかもうとしたが、空を握っただけだった。
「……もう時間がない。あたしにも、にいにも、この世界にも。新世界の始まりを、絶対に喰い止めて」
ディルの足が木の根っこから離れ、宙でぶらぶらと漂った。次の瞬間、ディルは後方へふわりと移動し、そのまま大穴の底へ向かって落ちていった。青緑色の不思議な光の中へ吸い込まれていきながら、ディルは女の子の最後の声を聞いた。
「あの本……『ヘインの見た世界』は、たくさんの人の手を渡ってきた。国王即位式の演説会場でにいにぶつかった時、あたし、その本をにいのポケットに入れたの……にいになら、おとぎ話の全てを託せられると、そう思ったから。……あたしは信じてるよ、にいのこと。にいにならできるって、信じてる」