十八章 二通の手紙 5
「お久しぶりです、トワメルさん」
トワメルの冷たい瞳に向かって、レンは挨拶した。ジェオはベッドの上で、凍りついたように動かなくなった。
「お父様……具合でも悪いんですか?」
ディルは久方ぶりのトワメルとの再開に、喜ぶことも、懐かしむこともしなかった。今はただ、トワメルの冷酷な瞳に語りかけることしかできないでいた。
「兵士たちの目を盗んでここまで来るのは、簡単なことではない。……少し疲れた、デッキへ案内してくれ」
ディルが立ち上がろうとすると、レンが「俺が行く」と言わんばかりに勢いよく立ち上がり、トワメルを案内するのに部屋を出て行った。それからすぐ、レンが一人で寝室に戻ってきた。
「こりゃ臭うぜ」
顔をしかめながらレンは言った。ディルはますます不安になった。
「あのお父様……いつものお父様じゃないような気がする」
ディルの声は自然と小声になっていた。
「俺、親父さんと目が合った時、殺されるかと思った」
布団の中に潜り込みながら、ジェオはしゃがれ声を発した。ディルの不安は限りなく広がっていった。
「あれがもし本物のトワメルさんだとしても、カエマに心を食われちまった後だ。ディル、お前が一番よく分かってるはずだろ?」
ディルはすっかり気落ちして、弱々しくうなずいた。
「……そういえば、どうしてお父様はボトルシップのことを知ってたんだろう? レンが教えたの?」
しかめっ面にわずかな笑みが重なって、レンの表情は奇妙な形になった。
「そもそも、あのボトルシップはグランモニカが用意してくれたものなんだ。一つはこのアジトに、一つは酒場の地下に、最後の一つはヴァルハート城……つまり、トワメルさんの所に」
「お父様の所にも?」
ディルは呆気にとられて、思わず声を張り上げた。レンは困ったようにうなずいてみせた。
「ごめん、ディル。トワメルさんに口止めされてて、ずっと黙ってたんだ。でも、トワメルさんとこうして会えたわけだし、そろそろ教えてやるよ」
レンはだらしなく寝そべりながら、ディルを見た。
「酒場と、トワメルさんのボトルシップからは、このアジトの様子が覗けるようになってるんだ。つまり、トワメルさんはずっとディルのことを見守ってくれていたんだ。きっと毎日のように、ボトルシップからデッキを覗いて、ディルの様子を窺ってたはずさ」
「親父さんはきっと、ディルのことが大好きなんだな。……泣かせる話しじゃねえか」
ジェオは布団の中から涙声でそう言った。
「お父様の所にもボトルシップがあるんなら、僕はいつでもお父様に会いに行けたってこと?」
ディルの唐突な質問に、レンは首を横に振って応えた。
「トワメルさん以外の人に、ボトルシップの秘密がばれたら危険だろ? 倉庫の中から兵士たちがやって来るなんて、考えたくないね。ということで、トワメルさんのボトルシップからは移動魔法を消したんだ。だから、こっちからも行けないし、あっちからも来れない」
この時、ディルは何かおかしなことに気が付いた。
「でも、酒場のボトルシップは? 酒場で働いてる人たちが出入りするんじゃない?」
レンはにやりと笑った。
「オーナーのワースとは、俺がガキの頃から仲良くさせてもらってる知り合いなんだ。船に置いてある家具のほとんどは、ワースから借りた物だしね。俺が兵士たちから追われていることを承知で、ワースは俺の味方をしてくれたんだ。だから、酒場のボトルシップは心配ないのさ。ワースがみんな管理してくれてる」
「危険を冒してまでレンを助けようとするなんて、あのメガネ男、泣かせるじゃねえか」
ジェオは鼻水をすすったが、どちらかというと眠そうな声だった。
「さあ、戦友たち」
枕を抱き寄せながら、レンはディルとジェオをそう呼んだ。
「トワメルさんのことも心配だけど、明日に備えてもう寝よう。首尾よく事が運ぶことを祈ろうぜ」
ディルが目を覚ましたのはそれからずいぶん後のことだが、外はまだ夜空だった。強い夜風は相も変わらず窓を叩き続けていたし、高波をけしかけては船に体当たりさせていた。左右に揺れ動く寝室のどこにも、トワメルの姿はなかった。
「どこに行くんだ? ディル」
マントを着込んでいたディルに、レンが声をかけた。ディルはびっくりしたが、冷静さを失わなかった。
「起こしちゃってごめん」
剣を手にしながら、ディルは謝った。レンは枕と布団の間からディルを見つめていた。
「いや、謝らなくていいさ。あれからずっと起きてたんだ……」
レンは布団にくるまってもごもごと言った。レンのその言葉に、ディルはまごついてしまった。
「俺って情けないだろ……。こんな性格のおかげで、兵士の時は毎日睡眠不足だった。……トワメルさんの所へ行くのか?」
最後に『ヘインの見た世界』をズボンのポケットに押し込み、準備が完了すると、ディルはベッドとベッドの間をすり抜け、扉の前でレンを振り返った。
「僕、確かめなきゃいけないことがあるんだ。大丈夫、すぐに戻るから」
レンはそれ以上何も言わず、笑顔でディルを送り出してくれた。
「本当に大丈夫か? ディル」
デッキへの螺旋階段を上りながら、ディルは自らに問いをかけた。レンの前では強がっていたものの、本当は怖くてたまらなかった。危険を持ち合わせているかも分からない、“得たいの知れない人間”の所へこれから赴こうというのだ。
だが、どうしても確かめなければいけないのだ。なぜなら、あの物語のとおりに進んでしまうと、この船を訪れるのはトワメルではなく、味方に扮した敵だからだ。今でも信じられない話だが、本の的中率、さっきのトワメルの様子からすれば、信じざるを得ない状況だった。『ヘインの見た世界』の真実を、ただ唯一知っているディルだからこそ、行かなければならなかったのだ。デッキの真ん中でにおう立ちしている、何者かの元へ。
「どうした、眠れないのか?」
トワメルの顔が、トワメルの声でそう言った。
『惑わされるな、こいつは偽者だ』
トワメルのすぐ傍まで歩み寄りながら、ディルは目の前の幻覚を振り払おうとした。
「お前は誰だ? お父様じゃないことくらい、お見通しなんだぞ」
自分を強く見せるため、勇気を奮い起こすため、ディルは声を張り上げて乱暴に言い放った。トワメルの顔は無表情のまま、ディルをじっと見た。突風がデッキを吹き抜け、互いのマントがひるがえった。
「私の計画を邪魔しようっていうなら、絶対に野放しにはさせない」
たなびくマントがディルの目の前を遮り、次に視界が開けた時、そこにトワメルはいなかった。夜の闇に溶け込むように、真っ黒な女性が立っていた。カエマ女王だ。
「どうしてこんなに早く気付いちゃったのかしらね……教えてくれる? ディル・ナックフォード」
宝石のような輝きを放つコバルトグリーンの瞳が、まばたきもせずにディルを見つめ続けた。ディルが覚悟していた、最悪の状況だった。だが、自分でもうまく説明は出来ないが、ディルには、このカエマが魔法体であることにすぐ気がついた。
「お父様は、あんな冷酷な目をしない……。お父様をどこへやった?」
カエマの口元からかすかな笑みが浮かび上がった。
「まさか、殺したんじゃ……」
ディルの声は震えていた。
「まだ生きてるわ。かろうじてだけど」
連山の向こうにあるはずのヴァルハート城を見据えながら、カエマは続けた。
「ナックフォードが裏でコソコソ動き回っていたのは知っていました。レン・ハーゼンホークが深く関わっていることもね。だから、警戒していたの……いつ私を裏切ってもいいように、兵士たちをこっそり見張らせてね」
カエマはもう一度ディルを見た。身の縮み上がるような、恐ろしげな視線だった。
「城内専用の配達員もナックフォードの肩を持っていたみたいだけど、封を開けずに手紙の内容を読み取るなんて、私にとっては造作もないこと。さっき、こっそり城を出ようとしていたナックフォードを捕まえて心を奪ってやったわ……殺戮の邪心だけを残してね」
ディルは体の芯から震え上がった。カエマの言葉に恐怖したからではない、怒涛の怒りが全身を駆け抜けたのだ。
「お父様を殺してみろ、絶対に許さないぞ!」
ディルは剣を抜こうと手を伸ばしたが、剣の柄を握る前に、腕がピタリと停止した。体の自由がまったくきかなくなっていた。
「もう、お前に邪魔はさせない」
ディルはカエマの瞳を見つめたまま完全に硬直し、言葉を発することも出来なかった。まるで、食いしばる歯と歯の間が接着剤でくっついてしまったようだった。心の中でレンを、ジェオを、そしてトワメルの名を呼び続けても、その想いは届くことがなかった。
「以前、あなたたちに言ったでしょう?」
カエマがディルの周囲をゆっくり歩き始めると、ドレスの衣擦れする音が辺りに広がった。強い風は止まることを知らず、棒のように直立するディルの体を簡単に吹き飛ばしてしまいそうだった。
「どんな物語にも、謎を解くヒントが隠されていて、あなたたちはそのヒントを辿って、私の想像したように動いてくれればそれでいいと。私の物語に出てくる重要な登場人物はあなたたち……『反・カエマ派』であると」
その瞬間、ディルの心の中で切れていた糸と糸が一本につながった。
ディルの周りで起きたことが、『ヘインの見た世界』の物語の一部と化していたわけではない。本の中の物語を、カエマ女王が再現させていたのだ。まるで、手の平でチェスをするかのように、ディルたちを駒にして操っていたのだ。カエマがディルの腕に浮かび上がらせた文字、『お前たちの企みは全てお見通し』の意味が、これでようやく理解できた。
「ディル・ナックフォード」
再びディルの前に姿を現したカエマが、声に凄みを利かせてディルの名を呼んだ。無論、今のディルにはうめくことすら出来ない。
「お前はレン・ハーゼンホーク以上に、そして私の予想以上にやかましい小僧だった。今すぐここで殺してもいいのですが、それでは私の物語が完成しない」
ディルの鼻先に、大きく開かれたカエマの右手が突きつけられた。
「私の物語が完結した瞬間、新世界への入口が開かれるのです。あなたたち『反・カエマ派』にはその瞬間が訪れるまで、ちゃんと役割を果たしてもらうわ」
それから間もなく、ディルの視界から一切の光が消え去った。だが、ディルは見た。目の前が暗闇に閉ざされる寸前の、カエマの苦痛に歪む顔を。胸を押さえ、歯を食いしばり、何かの痛みに耐えているようだ。……あれは一体、何だったのだろう?