十八章 二通の手紙 3
「新世界があろうとなかろうと……」
気分悪そうにルーシラが切り出した。
「明日、グランモニカ様が動き出すことに変わりないわ。カエマ女王の野望を阻止するためにね」
レンが跳ねるように立ち上がった。
「グランモニカが動くって? なぜ? あの人は俺に全てを任せてくれたんだ。このアクアマリンがその証さ!」
その青い瞳を睨みつけながら、ルーシラも立ち上がった。その拍子に椅子が倒れ、食器棚にぶつかって跳ね返ってきた。
「グランモニカ様が予想していた以上に事態が急転しちゃったのよ! もう、レンったら、分からないの? グランモニカ様はもうかなりのお年で、長時間の運動はとっても危険なの。『カエマを倒したい』っていうレンの力強い意思に惹かれて、グランモニカ様はあなたにアクアマリンを託したのよ」
レンは何か言い返そうと口を開いたが、声は出てこなかった。レンはおとなしく椅子に座ったが、その歪んだ表情からは、腑に落ちない苛立ちが滲み出ていた。ルーシラはレンの横顔を悲しげに見つめながら、話を続けた。
「私、そのことを伝えに来ただけだから、もう戻らなければいけないの。王女様も不安がられているし……」
ルーシラの青い瞳は、窓から入る日ざかりの陽光に照らされてキラキラと輝いていたが、どこか虚ろだった。
「ねえ、ルーシラ」
しばらくの沈黙を破り、ディルが静かに呼びかけた。
「明日の夜、お父様がここへ来るんだ。……お父様はカエマ女王の護衛兵をやってて、お城のことには詳しいんだ」
「知ってるわ」
椅子に座り直し、ほのかに笑いかけながら、ルーシラは返した。
「だから、グランモニカに伝えてほしいんだ。カエマ女王の所へ行くのは明後日にしてほしいって。そうすれば、目的が同じ僕たちは助け合うことができるでしょ? ……人数は多ければ多いほど、絶対に有利なはずだよ」
ディルの意見を、ルーシラは素直に聞き入れてくれた。
「一日くらいの延期なら、グランモニカ様も許してくださると思うわ。ちゃんと決まったら、デッキに手紙を送るから、忘れず確認してね。……それじゃあ、私、もう行くね」
ルーシラが立ち上がるとほぼ同時に、ジェオがそれにつられるようにゆっくりと立ち上がった。それはまるで、エネルギー不足のぜんまい式おもちゃだ。
「……もし」
ここに来てずっと下をうつむいていたジェオが、初めて言葉を口にした。だがそれは、いつものジェオらしくない、弱々しくか細い声だった。
「もし二日後にカエマとの戦いが終わったら、もう俺たちは、顔を合わすこともなくなるんだよな……。もちろん、それがこの世界にとって一番いいことだってのは分かってるぜ……」
その場にいた全員が、ただじっとジェオを見つめていた。それは、カメと小ネズミとて例外ではなかった。ジェオを見つめるみんなの瞳は、次第に、この船で過ごした辛くも楽しい数ヶ月を見つめるようになっていた。
あっという間だった。少なくとも、ディルにとっては。
だが、ここでの生活を忘れることは、おそらく死ぬまでないだろう。このアジトで笑ったことや、泣いたこと、怒ったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、戸惑ったこと、決心したこと……その全てが、記憶という“曖昧”なモノの中で、永遠に生き続けるのだ。だから……。
「だから僕は、糧にして生きていくよ」
ディルの心の中は今、かつてないほど空っぽに近い状態だった。ディルの口から出てくるのは、心の片隅にわずかに残されていた“曖昧”な記憶たちが生み出す、しがない産物だった。
「僕は、『反・カエマ派』のみんなと過ごした大切な時間を糧にして、これからを生きていく。辛くて立ち直れない時や、一人で寂しい時、みんなのことを思うよ。それでも駄目なら、みんなに会いに行く。そうして、みんなで作り上げた思い出の中の“曖昧”な記憶を辿って、どんなことでもいいから心に刻み込むんだ。刻み込んだら、きっとまた歩くことができるから。一人でも大丈夫なんだって、希望を持つことができるから」
しがないが、無駄ではなかっただろう。みんな、ディルの気持ちをちゃんと理解してくれたのだから。ちゃんと理解して、笑顔でうなずいてくれたのだから。
ルーシラが西の海底に帰って行ったのは、空が明るいオレンジ色に染まるたそがれ時のことだった。数え切れないほどのカモメたちが舞っている夕暮れ空には、黒雲のかけらさえ見えず、いつもと至って変わらない平和な空だった。だがそれは、東にそびえるヴァルハートの連山が、その黒雲を覆い隠してしまっているだけのことだ。
軽い夕食の後、ディルはベッドにうつ伏せで寝転がり、『ヘインの見た世界』を久しぶりに手にした。カエマが子供の頃から読み続けていたという、ファッグレモンの言葉を思い出したのだ。そうしていなければ、レンと並んで剣を磨いていたか、ジェオと一緒に釣竿の片付け(けじめをつけたいから、釣竿一切を倉庫にしまってしまうらしい)をしていただろう。
カモメの羽のしおりを頼りに続きを開きながら、ディルは今晩で全て読み切ってしまおうと意気込んだ。一夜の内に本を読み終えるなんて、ディルにとっては手慣れたことだった。トワメルに見つからないよう、夜中にこっそり本を読むことが日常茶飯事だったからだ。
ページをめくるたび、話の中に引き込まれていく自分にワクワクしながら、ディルは本を読み続けた。途中、倉庫の方から物が崩れ落ちる音がしても、ジェオが埃まみれになって部屋の前を行ったり来たりしても、ディルは何も感じなかったし、思いもしなかった。ディルは、本に心を奪われてしまったかのように、綴られた文字という文字をひたすら黙読しまくっていた。
心中のワクワクがドキドキに変わったのは、『ヘインの見た世界』の物語が、今のディルたちとある共通性を持ち始めたからだった。こんな不思議な感情に浸るのは、この本を読んでいて二度目のことだったが、一度目の時はあまり気にせず、軽い気持ちで流していた。
だが、今回は違う。似ているどころか、ほとんど一緒ではないか。主人公たちが海賊と決闘するところ。祭りの最中に敵の親玉が現れ、主人公・ヘインの仲間が瀕死の重傷を負ってしまうところ。その危篤の仲間を、ヘインが必死になって助けようとするところ。仲間の一人が、自分が人魚であることを隠していたところ。
「……こんなことって」
ディルの中のドキドキは、ゾクゾクに変わっていた。読むスピードがぐんと上がり、ページをめくる指先が震えた。シーツをつかむ左手に、じわりと汗が滲んでいる。
なぜ、自分の身の回りで起きていることがこの本の中で再現されているのか? そのことをゆっくり考えている暇はなかった。明日、明後日、一体自分の身にどんなことが起きるのか、この本を読めば分かってしまうのだ。答えを探し求めるのは後回しだ。
ディルの体中に興奮の波が押し寄せた時、ゾクゾクはドキドキに戻っていた。『反・カエマ派』に何が起きるのか、カエマはどうなってしまうのか、その全ての結末が、この本に書かれている……。
『ヘインの見た世界』に、そしてここヴァルハート国に、一体何が待ち受けているのか……? 最後まで本を読み終えた時、ディルは静かに本を閉じた。
ディルがこの船に来て、眠れない夜は何度かあった。悩んだり不安になったり、心がひどく動揺している時が不眠の原因だった。そしてこの日もまた、心が平静でいられないがための、眠れない夜がやって来た。レンとジェオがだらだらとベッドに潜り込んでからの一時間、ディルは寝返りをうったり、寝相を大胆に変えてみたり、布団の中に潜り込んで強引に目の前を真っ暗にしたりしながら、睡魔が訪れるのを待っていた。だが待っていても、ディルを訪れるのは『ヘインの見た世界』の物語ばかりだった。物語の情景が、ディルの頭の中で色鮮やかに甦っては、ジェオのいびきと共に消えていった。もし、本に書かれていたことがヴァルハートで現実に起きているとしたら、そこにはどういうカラクリがあるのだろうか? 物語が本当に現実化するのなら、明日、そのことを確認してみるまでだ。