十八章 二通の手紙 2
その日の昼下がり。デッキでホワゾンドープの手入れをしていたディルとジェオの目の前に、全身真っ白の何者かが突然ひょっこりと姿を現した。驚いたあまり、ディルは「何かいる!」と絶叫しながらバケツの水をひっくり返し、ジェオはホワゾンドープにつまずいて仰向けにひっくり返った。
「ディルって、相変わらず失礼な子供よね。久しぶりに帰って来たんだから、ちゃんともてなしなさいよ」
人間の足がちゃんと二本生え揃っているルーシラが、立腹した様子でそこに立っていた。謝罪の言葉より、まず先にディルの口を突いて出たのは「どうやって帰って来たの?」だった。
「グランモニカ様に頼めばここまで送ってくれるのよ。この船はもともとグランモニカ様が管理していた沈没船だから、特別何もする必要はないの。あっちに行く時は別だけどね」
確かに、西の海底からこのアジトまであっという間に戻って来られたことを、ディルははっきりと覚えている。かといって、今はルーシラの話に感心している場合ではない。
「レン! ルーシラが帰って来たよ! レーン!」
ジェオを助け起こしながら、ディルは船内にいるレンに向かって叫んだ。しばらく待つと、ドタドタと螺旋階段を駆け上がる足音が聞こえ始め、次には、猛烈なスピードでデッキを駆け抜けてくるレンの姿がそこにあった。
「ルーシラ! 本当にルーシラだ!」
レンはルーシラの顔を穴の開くほど見つめ、握り拳を振り回して騒々しく喜んだ。
「よし! 調子いいぞ! 星くずのような、小さな小さな希望の光が俺には見えるぜ! ……何でしょう?」
ルーシラが鋭利な瞳で睨み続けるので、レンの高ぶった気分は一瞬で萎えてしまったようだった。
「私がここに戻ってきたのは、あなた達に大切なお話があるからなのよ。おとなしく聞いてちょうだい、時間がないんだからね」
わんぱく小僧を優しく叱りつけるように、ルーシラは穏やかな口調でそう言った。だがその後は、原形をとどめないほど、唇をギュッと強く結んでいた。
「それじゃあ、みんな中に入ろうぜ。ここじゃ暑いだろ?」
レンはばつが悪そうだったが、なるべく平静を装ってみんなを促した。
飯屋に場所を移したディルたちは、テーブルの上のナプキンを囲むようにしてそれぞれ席に着いた。
その時ディルは、しけった暖炉の前でうたた寝しているカメと小ネズミの姿を見ていた。ファッグレモンの小屋から帰って来てからというもの、この二匹は常に気だるそうな調子だった。餌もろくに食べず、外にも出たがらず、歩くこともしないのだ。ジェオは、「飼い主のユンファがいなくなったからだろう」と軽く流したが、ディルはそうは思わなかった。帰り際、ファッグレモンは確かに、この二匹にも呪いがかけられているとそう言ったのだ。
「島の上空に現れた黒雲のことは、もちろん、もうみんな知ってるのよね?」
ルーシラの咎めるような質問に、男たち三人は自信満々にうなずいた。トワメルの手紙をジェオに読ませておいて良かったと、ディルは思った。そうでなければ今頃、ルーシラの怒声が雨のように降り注いでいたに違いない。
「けど、黒雲が現れたのはここだけじゃないの。サンドラーク、ステア・ラ、そしてドラートラック。この三国にも共通して、ヴァルハートと似たような黒雲が突然現れたのよ」
ジェオの顔は青ペンキでも塗りつけたかのように、真っ青に染まった。
「そりゃまずいな……」
レンが下唇を噛んだ。何が『まずい』のか、ディルにも少し分かるような気がした。
「ステア・ラとサンドラークって、カエマ女王が配下に置いた国だよ」
ジェオの顔色を横目でちらちらと伺いながら、ディルは小声で言った。ジェオの恋人がステア・ラにいることを、まだルーシラとレンは知らない。
「いい? ここからが大事なの。ヴァルハートの地下奥深くに『西の海底』があるように、その三つの国にも、人魚たちの住処が存在しているの。サンドラークの『東の海溝』。ステア・ラの『南の砂浜』。ドラートラックの『北の岩場』。それぞれの統治者……つまり、グランモニカ様のような偉い人魚様方が、今朝、黒雲についての情報を連絡しあったの。それで分かったことは、カエマ女王の真の目的は国ではなく、人魚たちの住処だったってこと。そしてあの不気味な黒雲は、いつか世界中の空を覆い尽くしてしまうほどに成長するだろうということ」
ルーシラがアジトに持ち込んできた話の内容は、まさに驚愕の一言だった。それ故、全員が言葉を失った。ルーシラはそんな男たちの気も露知らず、白い頬を紅潮させ、容赦なく話を進めた。
「ただ唯一の救いは、まだカエマ女王がドラートラックに手を出していないというこね。……でも、それも時間の問題なのよね」
「どういうこと、それ?」
ウンウン、ウーウーとうなっていたレンが、苦し紛れに聞いた。
「ドラートラックの王様が、ヴァルハート国と同盟を結びたがっているのよ。北の岩場を統治するデルデイラ様が言うには、サンドラークとステア・ラを短い期間で制圧したカエマ女王の戦略を、ドラートラックの王様が気に入ったみたいなの。軍事力が世界最大でも、脳味噌をうまく働かせなかったら戦争には勝てないでしょう? カエマ女王の天才的な戦略案を巧みに利用しようって魂胆なのよ」
ルーシラは自分の発している言葉で気が滅入ったようだった。ジェオと同じ、絶望的な表情でうつむき、テーブルの上で親指をこねくり回している。
「カエマ女王がドラートラックを裏切って、北の岩場を支配するようなことになったら、世界はどうなっちゃうの?」
言い知れぬ不安と恐怖にかられながら、ディルは聞いた。レンやジェオが揃って前かがみになった。
「それは多分、あの黒雲と何か関係があると思うの。世界の東西南北の海に存在する人魚の住処には、それぞれ西の海底と同様、アクアマリンの原石が眠っているわ。それも莫大な量よ。カエマ女王が、それら全てのアクアマリンを手に入れなければならない理由があの黒雲にあるのだとしたら、話の筋はおのずと見えてくるでしょう?」
この時ディルは、嵐の中でカエマと戦った、あの日のことをふと思い出していた。そして、その時カエマが口にしていたことを、ディルは今でも鮮明に覚えていた。
「……新世界だ」
漠然としながらも、ディルははっきりとそう言った。
「そういえばカエマのやつ、よく『新世界』がどうとか言ってたよな。ほら、天の川通りで演説したあの日も」
レンが考え深げに腕を組むと、ディルは更にピンときた。
「戦いの時、カエマはこうも言った。世界征服は本意ではない、宿命なんだって……。黒雲で世界を闇の中に葬り去ることがカエマ女王の言う世界征服だとしたら、それは女王自身にとってやらなければならないことだったんだ。そして、その闇から始まるんだ……新世界が」
ディルを見つめる全ての瞳が、疑心を持って体当たりしてくるようだった。だが、言葉を並べたディル自身が、一番強く疑心を抱いていた。その場の誰もが、「いや、そんなはずはない」と言いたげだった。
「そもそも、その新世界って何なんだ? この世界とは別の、もう一つの世界がどこかにあるとでも?」
レンは話のまどろっこしさにイライラしながら、荒っぽい口調で誰かに尋ねた。部屋は静まり返り、誰も口を開こうとはしなかった。この質問には、いくらディルでも答えることが出来なかった。