十七章 森に隠れ住む魔女 9
漆黒の夜空が東から少しずつ白み始めた頃、ディルは鳥たちのさえずるやかましい鳴き声で目が覚めた。昨夜、ただならぬ緊張感の中で森を歩き、ここに来てろくに眠ることも出来なかったせいか、ディルは体の節々がだるかった。
暖炉の炎は小さくなり、白く細い煙を上げながらくすぶっていた。窓からは青白い光が差し込み、部屋を薄暗く照らし出している。テーブルの下のカメと小ネズミは寄り添うように静かに眠っていたが、ファッグレモンとジェオのいびきは相変わらずで、鳥たちのさえずりと競い合うような騒々しさだった。
ディルは、ジェオの幸せそうな寝顔をぼんやりと眺めている内に、その隣にレンがいないことに気が付いた。狭い小屋の中を一通り見回したが、レンの影すら見つからない。おそらく外へ出たのだろう。
ディルは物音を立てないよう、ゆっくりと静かに歩きながら扉まで向かった。外へ出ると、癒されるような朝の新鮮な空気が、ディルをひんやりと出迎えてくれた。澄み切った森の空気を体いっぱいに吸い込むと、体内が洗浄され、蓄積された疲労が一気に解消された気がした。
「おはよう、レン」
しゃがみ込んで沼の中をじっと見つめているレンを見つけて、ディルはおずおずと挨拶した。レンはディルの方を向き、立ち上がると、重い足取りでゆっくりと近寄ってきた。
「ディル……ディルなのか?」
ディルの一歩手前で立ち止まるなり、レンは静かに尋ねた。まるで機械が言葉を発しているかのように、レンの口調は棒読みで、感情が読み取れなかった。ディルはレンの青白い顔から目を離すことなく、小さくうなずいた。
「なんだか俺、長い間ずっと夢を見ていた気がする」
「それってどんな夢?」
戸惑いながら、ディルは聞いた。すると、無表情だったレンの顔に、ほのかな笑みが広がった。
「最初は悪夢だった。寒くて、苦しくて、すごく怖かった。だけど、そんな時はいつもディルが出てきて、俺を悪夢から救ってくれたんだ。でも、その時のディルは幽霊みたいに半透明だった。だから、今目の前に立っているのが本当にディルなのかどうか、確かめてみたかったのさ」
レンに負けないよう、ディルは心の底から最高の笑顔を引っ張り出した。
「ねえ、次はどんな夢を見たの?」
「続きが気になるか? だったら特別に教えてやろう」
いつものレンが、ちゃんとそこにいた。夢の話を生き生きとした表情で語るレンは、ディルが一番良く知っている、あの明朗快活なレン・ハーゼンホークその人だった。今のレンを見て、つい昨日まで呪いにかけられていた彼の姿を、一体誰が想像するだろうか?
「俺、空を飛んでたんだ。星がきらめく神秘的な夜空を……どうした、ディル?」
ディルの泣きっ面を見て、レンが心配そうに声をかけた。安堵した反動で、ディルの瞳からは自然と涙がこぼれ落ちていた。
「ごめんね。何でもない。大丈夫」
ディルは涙をぬぐった。
「……でも、良かった。レンが死ななくて、本当に良かった。僕……すっごく嬉しい!」
レンの周りを飛び跳ね、歓喜の叫びを上げながら、ディルは大げさに喜んだ。小屋の中で眠るファッグレモンたちや、困ったように笑い飛ばしているレンにおかまいなく、ディルは無邪気な『子供のように』はしゃぎ回った。いや、ディルはまだほんの十二歳の子供だ。わずか十二歳の、あどけない子供なのだ。
「おやおや、朝からえらくお祭り騒ぎだねえ」
しかめっ面で戸口の前に立っていたのはファッグレモンだった。どうやら、ディルの大きなはしゃぎ声で起こされて機嫌が斜めらしかった。だが、レンの元気そうな顔を一目見ると、ディルに劣らないほどの輝かしい笑顔に変わっていた。
「その様子から、どうやらすっかり元気になったみたいだね。あたしの腕もまだまだ衰えてはいないようじゃ」
レンはファッグレモンの前に歩み寄り、深々とお辞儀した。
「ファッグレモンさん、危ないところを助けていただき、心から感謝しています。この御礼はいつか必ず」
ファッグレモンの微笑みが、左右に小さく揺れ動いた。
「礼ならディルとジェオに言うんだね。あんたを助けようと、ずいぶんと必死だったみたいじゃないか。……あんたを命懸けで守ってくれる仲間じゃ。大切にするんだよ」
ファッグレモンはそう言うと、虫取り網を片手に、沼の方へと歩いて行った。その直後、ファッグレモンと入れ替わるように戸口にジェオが現れた。まだ眠たそうに目をこすっている。赤く腫れ上がっていたまぶたは、ほのかなピンク色に落ち着いていた。
「よう、レン。気分はどうだ?」
眠気を帯びた声で、ジェオは出し抜けに聞いた。
「最高さ」
レンは答え、扉にもたれかかるジェオと、笑顔のディルを交互に見つめた。
「ありがとう、二人とも。俺、マジで感謝してる」
「よせよ、気持ち悪い」
照れながら、ジェオはレンの肩を軽く叩いた。
「僕たち仲間だよ。助けて、助けられるのは、当然じゃないか」
ディルは飛び切りの笑顔で、熱っぽく言った。レンの雄々しい笑顔が、遠くを眺める怪訝そうな表情に変わった時、森全体が何やらガサガサと騒ぎ始めた。葉と葉がこすれ合う音や、眠っていた動物たちが不機嫌そうに鳴き喚く声。そして決定的だったのは、雷鳴のような低いエンジン音だ。音の正体に向かって、ジェオが高々と指を差した。
「ホワゾンドープ! あいつ生きていやがった!」
南の空から轟音と共に現れたホワゾンドープは、白や黒といった太い煙をもくもくと吐き出し、右や左に傾いたり、急上昇や急降下を繰り返したりと、いつ墜落してもおかしくない状態だった。
「なあ、ディル。俺たち、あいつに乗ってきたのか?」
小屋と沼の間に向かって降下を始めたホワゾンドープをあごで差しながら、レンは恐々と聞いた。
「森に入る直前で墜落しちゃったけどね。……レン、全然覚えてないの?」
三人は、無事に着陸を終えたホワゾンドープに駆け寄ると、互いに顔を見合わせた。みんな考えている事は同じだった。
「ところで、どうやって帰るか考えてた?」
レンとジェオが首をかしげたのに対し、ディルの質問に答えたのはファッグレモンだった。
「ほおお。この子には命が吹き込まれているね。こいつは……とても高度で、とても緻密な魔法じゃ」
そのとおり、レンが唱える魔法にはそつがないのだ。
重たそうに虫取り網をかつぐファッグレモンは、ホワゾンドープの残骸に興味をそそられ、好奇心を丸出しにして覗き込んだ。網の中はカエルの卵でいっぱいだった。
「ちょっと訳があって、俺が魔法をかけたんです。すぐ元に戻るかと思ったんですけどね」
プスプス、ガチャガチャと音を立てるホワゾンドープを哀れみの瞳で見つめながらレンは言った。ファッグレモンはそのレンの瞳を見て、少し驚いたようだった。
「おや。ずいぶんと魔力の不安定な魔法使いだと思っていたら、あんた半分は人間じゃないかい。グランモニカ様が人間にアクアマリンを渡すなんてねえ……」
「グランモニカをご存知なんですか?」
ディルはとっさに聞いた。ファッグレモンは更に驚いたようだった。
「知ってるも何も、あたしの生みの親さ」
グランモニカは三百年も生きてきたのだから、そこらに子供がいても不思議ではない。ディルはそう結論づけ、それ以上気に止めなかった。
「……それにしてもあんた、人間の血が混ざっている割にはずいぶんと魔力が強いんだね。こいつは、アクアマリンを持つ魔族の中でも熟練された者にしか出来ない高度な魔法なんだよ。使い捨ての魔法であれば一時的に物を動かすことは可能だけど、こいつは半永久魔法じゃ。そこらの魔法とは比べ物にならないくらい強力だよ……どれ」
ファッグレモンは小屋の中にせっせと姿を消し、次に現れた時は、網の代わりにあの長い杖を手にしていた。
「あたしくらいになるとね、こうして杖の力に頼らなきゃならなくなっちまうのさ」
ファッグレモンはそんなことを口にしながら、ホワゾンドープに耳を傾けていた。
「あの……僕、約束しちゃったんです。もう一度飛んでくれたら元のかっこいい姿に戻してあげるって。ファッグレモンさん、出来ますか?」
レンを助けたい一心でむちゃな約束をしてしまっていたことを、ディルははっきりと思い出した。ファッグレモンは一度大きくうなずき、何かを納得すると、おもむろに杖を構え、ホワゾンドープの上で大きく振り下ろした。
昨夜とは色違いの、黄色とオレンジ色のヴェールが杖から吹き出すと、ボロボロの機体をふわりと包み込んだ。次の瞬間、ディルの目の前にあったのは、ボロボロにくたびれたままのホワゾンドープだった。
「この子はね、ディル。この姿のままでいいと、私にそう言ったのさ。きっと、親であるレンのことを心配したんだろうねえ。ここまで迎えに来てくれるなんて、お利巧じゃないか。中身だけ直しておいたから、これで普通に飛べるはずだよ」
ホワゾンドープは轟々とエンジンを鳴らし、機体をガタガタと震わせた。ファッグレモンに感謝の意を示しているようだった。
「さて、ホワゾンドープが復活したことだし、一旦アジトに戻ろう」
レンが提案すると、ジェオはいつも以上に張り切って操縦席に乗り込み、操縦桿を握った。次にレンがジェオの隣に座り、ディルがそれに続こうとすると、ファッグレモンが声をかけた。
「あんたたち、ほれ、忘れ物だよ」
ファッグレモンの杖指す方を見てみると、そこには、カメと小ネズミが地を這って突き進んでくる姿があった。そもそも、ファッグレモンの小屋を見つけ出すことが出来たのはこの二匹のおかげだ。それにも関わらず、危うく恩を仇で返すところだった。
「ごめんよ、うっかりしてたんだ。本当にごめん」
ホワゾンドープの後部にカメを押し上げながら、ディルは平謝りした。一部始終を見ていたファッグレモンは、不意に、楽しみを独り占めするようなクスクス笑いを始めた。
「おやおや。その小汚いカメとネズミにも、面白い呪いがかけられているようだね。そんな目であたしを見ても、その呪いは解いてやらないよ。もうしばらくは、そのままでいるんだね」
ファッグレモンが小声でそう口にするのを、ディルは一字一句、聞き逃しはしなかった。だが、そのことに関して質問している暇はなさそうだ。レンとジェオは、ディルが機体に乗り込むのを今か今かと待っていた。
「いつかまた、ここに遊びに来てもいいですか?」
機体の後部に飛び乗ったディルは、振り向き様にそう尋ねた。ファッグレモンは何も言わなかったが、ディルの大好きなあの優しい笑顔で微笑むと、一度だけ、大きくうなずいてくれた。
ホワゾンドープが朝日に照らされるライラック色の空に向かって飛び立つと、ファッグレモンの姿はあっという間に見えなくなってしまった。だがディルには、ファッグレモンと過ごした貴重な一夜の方が、もっとあっという間だった気がした。