十七章 森に隠れ住む魔女 8
今のレンは安静にしておかなければならないらしく、レンが自ら目を覚ますまで、ディルたちは小屋の中で待機していなければならなかった。といっても、もうとっくに真夜中だ。ジェオはレンの隣に無理やり押し入り、高いびきで眠っていたし、カメと小ネズミはテーブルの下でまどろんでいた。
「眠らないんですか?」
床に散らばった雑貨を拾い集める、ファッグレモンのくの字に折れ曲がる腰に向かってディルは尋ねた。
「もう少ししたらね。でも、あたしゃ少ししか眠らないんじゃ。弱い不眠の魔法を自分にかけているから」
テーブルの上に数冊の本と魔除けの人形を投げ落としながら、ファッグレモンは言った。
「眠っているくらいなら、この国の未来を案じていた方がよっぽどマシじゃ」
ディルは今しがたテーブルの上に戻ってきたばかりの本を手に取り、じっと眺めていた。ある冒険家の手記をまとめた一冊だった。
「本を読まれるんですか?」
ディルは尋ねた。
「ああ、それかい。カエマが子供の頃からずっと読んでいた、古い本の内の一冊だよ。……あんな人間でも、本を読むことはできるみたいでね。王妃に迎え入れられる直前まで、本ばかりを読み続けていたのさ。特に気に入っていたのは、ヘインの何とかっていう……」
「ヘインの見た世界」
突然自分の手元に舞い込んできたあの謎の本のことを思い返しながら、ディルはその本の名を口にした。
「そう、それじゃ。読み終わっても、何度も何度も読み返していた」
空のバスケットにナプキンとろうそくの残骸を投げ入れながら、ファッグレモンは悲哀な声色で続けた。
「……読書をしている時のカエマの目は、とても綺麗だった。本を読むその瞬間だけ、あたしは幼かった頃のカエマを思い出すことが出来たんだよ。明朗で、純粋で、動物たちを愛する優しい心を持ったあの頃のカエマをね」
ディルには、幼い頃のカエマを全く想像することが出来なかった。あの冷酷非道なカエマに明るい幼少時代があったなんて、信じたくても信じられない話だ。
「ファッグレモンさんにとって、カエマ女王との思い出はすごく大切な宝物なんでしょう? 長い間、ずっと一緒に生きてきたんだもんね……」
ディルは、ファッグレモンが暖炉の中に薪を投げ入れる様子を見つめながらそう言った。暖炉から飛び出した火花が天井近くまで舞い上がった。
「思い出なんて、ただの曖昧な記憶でしかないんじゃよ」
椅子に落ち着きながら、ファッグレモンはのんびりと言った。
「あんた、もしかしてあたしに情けをかけてるんじゃないだろうね?」
ディルはギクリとした。まさにそのとおりだった。
「もし、僕たち『反・カエマ派』がカエマ女王を殺さなければならないような状況に追い込まれた時、僕はきっと、あなたのことを思い出すんだろうな。……でも、それは多分、カエマ女王に限らないと思うんだ。人をこの剣で傷つけようとする瞬間、僕は絶対に躊躇してしまうから」
ディルは悔しさを紛らわすのに、テーブルの下で拳を握った。
「……前に、カエマ女王に言われました。家族、親友、恋人、仲間……その全てを捨てる覚悟がないと、僕が人を傷つけることなんて出来ないって」
ファッグレモンの顔を見上げると、驚いたことに、優しく微笑んでいる。ディルは睡眠不足で目がおかしくなったのかと思った。だが、心が暖まるようなその優しい笑顔は、決して幻なんかではなかった。
「安心なさい、ディル。他人を傷つける時、全く躊躇しない人間なんてこの世にいるはずがないんだから。それに、カエマの命が絶えるその瞬間がやって来ても、あたしは止めたりしないさ。カエマをここから送り出す時、そう覚悟を決めたんだからね」
ファッグレモンの表情から笑顔が消えた時、ディルの心は寂しさでいっぱいになった。
「時間は進むだけで、戻ってはくれない。だからディル、国やカエマを敵にするのはあんたの自由だけどね、絶対に後悔してはいけないんじゃ。過去に未練を残したら、死ぬまでずっと、そいつを引きずっちまう。……少なくとも、あたしは引きずっちまっている」
ファッグレモンは一度大きく息を吸い込むと、そのまま目をつむってじっと動かなくなった。暖炉の炎が、ファッグレモンの眠気を帯びた表情を明るく照らし出していた。
「カエマがディルに言ったこと、その全てが皮肉というわけではなかったのじゃ。他人を傷つけ、殺める時、そこに後悔の念を残さないために、周囲の大切な物全てを捨てる覚悟が必要なんじゃ。カエマはきっと、そのことを知っていたんだろうねえ。……さあ、ディル、もう寝よう……」
ファッグレモンは言い終わると同時に、ジェオに負けないほど大きな高いびきをかき始めた。それはまるで、自分に睡眠の魔法でもかけていたかのような深い眠り具合だった。
ファッグレモンの寝顔を見つめながら、ディルはふと思った。何の罪もないたくさんの人間を殺してきたカエマを相手に、今さら躊躇も慈悲もあったものではない、と。話し合いで解決するような敵ではないことを、ディルはもう十分に承知している。それなら、カエマの命を奪える機会があれば、その機会を一度だって無駄にすることは出来ないはずだ。『反・カエマ派』か、カエマ女王、そのどちらかがこの世から消えるまで、この戦いは決して終わらないのだから。でも……。
「でも……レン。僕、やっぱり怖いよ……過去も未来も……自分自身さえも」
ジェオとファッグレモンのいびきを枕代わりにし、暖かく心地の良い暖炉の炎を布団代わりにしながら、ディルはようやく浅い眠りへと落ちていった。