十七章 森に隠れ住む魔女 5
その人とは、ピンク地に赤と白の花の刺繍が施された寝具のローブに身を包み、大きめのナイトキャップを頭にかぶった老婆だ。折れ曲がった鍵鼻と、クルミのように大きな目の下の、赤い大きないぼが印象的だ。一見、魔女には見えないが、奥の壁に立て掛けられている長い杖や、低い天井から紐で吊るされた薬草の根っこ、干からびたにんにく、トカゲの干物、何かの内臓と思しきえたいの知れない瓶詰めなんかを見る限りでは、やはり魔女と断定できるのではないだろうか?
「いつまでそんな所に突っ立ってんだい? 部屋が冷えちまうよ」
床板のきしむようなギシギシ声で、老婆は言った。ディルたちは恐る恐る中に入り、扉を閉めた。中は眠くなるような暖かさと、目が覚めるようなにんにくの香りで満たされていた。暖炉の前には肘掛け椅子が二脚と、脚の長い大きめの丸テーブルが置いてある。テーブルの上はひどい有り様で、開きっぱなしの本や、小汚いナプキン、空のバスケット、ぐちゃぐちゃに溶けたろうそく、破かれた封筒、魔除けの醜い顔の人形などが、雑然と積み上げられている。
窓のそばにはとても小さなベッドが置いてあり、洒落たソファーのようにも見える。梁からはローブの裾がとばりのように垂れ下がり、天井の四隅では、クモたちがせっせと巣をこしらえている。床や家具の上などはやたらと埃っぽく、もう長い間、掃除とは無縁の生活を送っているらしかった。
「誰かが森に入ったらしいことは、動物たちから聞いてるよ。それで、森の中はひどい騒ぎになったそうじゃないか。破壊兵器がやって来ただの、殺戮機械が侵入して来ただのって。でも、あたしはこう言ってやったよ。『フラッシュは滅び、殺戮機械の文明は終わった』と」
老婆は暖炉脇の本棚の引き出しからメガネを取り出し、肘かけ椅子の上に置いてあったやりかけの編み物を手に取った。くの字に折れ曲がった腰をゆっくり椅子にもたせかけると、赤い毛糸を縫い合わせて何かを編み始めた。
「あの……あなたがファッグレモン?」
慎重に歩み寄りながら、ディルはか細い声で尋ねた。老婆の節くれ立った手がピタリと止まり、メガネの奥にある群青色の瞳でディルを見つめた。すると、歯の抜け落ちた笑顔が満面に広がった。
「ああ、そうさ」
ファッグレモンは誇らしげに言った。
「ここらであたしを知らない動物たちはいないだろうさ。みんな、あたしを恐れているからね」
ファッグレモンはいたずらっぽく、クックと笑った。そして、おもむろに編み物を再開させた。
「こんな夜中にあたしの所を訪れるなんて、何か分け有りのようじゃないか。え? 名無しの旅人さん方」
「あ……僕はディル・ナックフォード」
ディルは慌てて言った。
「俺はジェオだ。そんで、こいつがレン・ハーゼンホーク」
ファッグレモンは、ディルとジェオには全く興味を示さなかったが、レンの寝顔にだけはすかさず反応した。メガネを押し上げ、もっとよく見ようと立ち上がっている。
「この男、悪魔の呪いを受けてるんじゃないのかい? え? そうだろう? だからここへ来た。え? そうだろう? 呪いを解いてもらうために」
押し寄せるファッグレモンの顔からじりじりと後ずさりしながら、ディルは大きくうなずいた。
「レンにかけられた呪いと、このレコードの中に閉じ込められている悪魔を解放してほしいのですが……」
ディルが言い終わらないうちに、ファッグレモンは編み物を部屋の隅に放り投げ、テーブルの上のごちゃごちゃを無差別に払い落としていった。舞い上がったほこりと、次々と床に落ちていく哀れな雑貨物の騒音のせいで、静かだった小屋の中には、竜巻が通り過ぎた後のような悲惨な風景が広がっていた。
「その若造をここへ」
ジェオは、がらんと空虚に広がったテーブルの上にレンを仰向けで寝かせた。あの騒然とした状況の中でも、レンはぐっすりと眠り続けていたらしい。不安そうにレンとファッグレモンを交互に見つめ続けていたディルは、カメと小ネズミが自分の足下でそわそわと落ちつかなげに這い回っていたことに、全く気付いていなかった。
「なあ、魔女さん。レンを助けてくれるんだよな?」
ジェオが尋ねても、ファッグレモンは無視し、レンの体をしらみつぶしに観察していた。足をさすったり、腕を握ったり、腹と胸を交互に叩いたり、頭をわしづかんで乱暴に揺すったり……。
「あたしはね、昔、呪い解除を本業としていた魔女だったのさ。だからこの手のことなら朝飯前だよ。どれ……」
ファッグレモンは壁に立てかけてあった、自分の背丈よりも長い杖を手に取り、レンの土気色の顔から靴のつま先まで、ビュンと杖を振った。すると、赤いベールのようなものがレンの体をふわりと包み込み、溶けるようにしてふわりと消えた。
「何をしたの?」
レンの寝顔を覗き込みながら、ディルは聞いた。
「筋肉を麻痺させたのさ。この若造が痛みで暴れ出さないようにね」
ファッグレモンは淡々と説明し、ディルの強張った表情を見て、またいたずらっぽく笑った。
「本当に大丈夫なのかい、魔女さん? 久しぶりなんだろう?」
ベッドに尻を据えながら、ジェオが疲れ切った声で聞いた。
「かれこれ四十年振りじゃ」
ファッグレモンは暖炉に杖を立てかけ、もう一度レンの前に立つと、嬉々とした顔つきで言葉を続けた。
「最後に診たのは、確か老いぼれた犬だった。どこかのバカ者がいたずらして、呪縛式の魔方陣を野良犬に踏ませたのさ。ここへ運ばれて来た時、犬は氷みたいにカチコチだったよ」
ファッグレモンは喉をガラガラいわせながら笑った。ディルはジェオを振り返り、本当に大丈夫かなと、不安気に目配せした。
「さて、魔女・ファッグレモンの、腕の見せ所だね」
ファッグレモンは深呼吸を繰り返すと、人差し指と中指を突き立て、レンの耳の中にずぶりと突っ込んだ。その瞬間、ディルはベッドまで後ずさりした。ジェオがその行動に驚いて身を乗り出すと、レンの両目がカッと開いた。
「ぎゃああああああああぁぁぁぁぁっ!」
身も凍るようなレンの叫び声が夜のしじまを破った。身の凍りつくような絶叫は、きっと、壁を貫通し、光の速さで森を通り抜け、国中に満遍なく響き渡ったと、ディルはそう思った。昼間に船で聞いた、あの叫び声とは比べ物にならないほどのけたたましさだ。レンは目と口しか動かすことができないでいたが、それだけでも、レンがもだえ苦しんでいるのは一目で分かる。だが、苦痛にゆがむレンの表情を見ても、ファッグレモンは顔色一つ変えず、とうとう指の根元まで耳の中に入れてしまった。ディルはその場に硬直したまま、呆然と立ち尽くす他なかった。