十七章 森に隠れ住む魔女 3
ホワゾンドープが星の瞬く夜空へと舞い上がった時、そこには、ディル、レン、ジェオの他に、カメと小ネズミの姿もちゃんとあった。動物たちに同情したディルが、離陸直前のホワゾンドープに二匹を乗せてやったのだ。無論、ファッグレモンを探しだすために、この二匹が役立ってくれることに期待を寄せたわけではない。ディルが思うに、このカメと小ネズミは、やはりそこらにいる動物とは類が違う。何かは分からないが、誰もが驚くようなとんでもない秘密を隠しているのではないかと、ディルはそう信じ込んでいた。そうでなければ、レンがわざわざユンファとアルマに、この二匹を盗ませたりするものか。
「よしよし、お前はこっちだ。俺のポケットの中に入れてやるからな」
小ネズミをローブの内ポケットに押し込みながら、レンが猫なで声で言った。どうやら取引どおり、悪魔がレンへの呪いの力を弱めているようだった。カメのごつごつした頭を撫で回すレンの顔は優しく朗らかだったが、時折かいま見せる漠然とした表情は、まさに狐につままれた様を見ているようだった。
「ディル。レンが落っこちないように、ちゃんと見ててくれよ」
片手で操縦桿を握り、片手で乱暴に計器盤を叩きながらジェオがたしなめた。
「この燃料残値、さっきからでたらめばかり表示するんだ」
レンは尾翼を背もたれにしながら、動物たちと戯れていた。その時のレンはまるで、ほんの赤ん坊のようだった。ディルはジェオの隣の座席に座っていたが、レンの様子を窺うため、後ろを振り向くのにひっきりなしだった。本当はディルが後ろに座るはずだったのに、離陸直前になってレンが駄々をこねたのだ。
「レンなら大丈夫、僕に任せて。……今どのへん?」
「田園地帯上空。この調子だと、あと二、三分で到着だ」
前方を見渡すと、闇に包まれた真っ黒な森が一面に広がっていた。夜空へ突き出たたくさんの尖塔が山のように連なり、そこから黄色やオレンジの明かりが漏れ、灯台の灯火のように煌々と輝いている。だだっ広い漆黒の森の中央におごそかに直立するあの建物こそ、トワメルやカエマがその身を置く、ヴァルハート城だ。
「お父様。……きっといつか、会いに行くよ。それまでがんばって……」
静寂の漂う星空の下で、奇妙なドスンという鈍い音がしたのは、ちょうどその時だった。直後に、もう一度大きなドスンが来ると、ホワゾンドープが一メートルほど急落した。そして、小さなドスンが三回連続で続くと、辺りは急にしんと静まり返った。ヴァルハートの夜はとても静かだ。だが、今は静か過ぎる。今しがた鼓膜に刺激を与えていた、何かの音が消えたのだ……。
「エンジンだ!」
ジェオの叫び声と同時に、心臓が完全に停止したホワゾンドープは、一面の畑に向かって垂直に落下を始めた。ディルの頭の中は、自分の叫び声すら聞こえないほど真っ白になった。今のディルには、歓喜と興奮の入り混じった笑顔で騒ぎまくっているレンの姿や、死に物狂いで操縦桿と格闘しているジェオの勇姿さえも、目の前から押し寄せる死に比べればどうでもいいことのように思えた。
地面に激突する寸前、忍び寄る死の影が、ディルのすぐ背後で足を止めた。ホワゾンドープのエンジンが再び息を吹き返したのだ。両翼がゴトゴト、ガタガタと騒音を発しながら頼りなさそうに上下し始めると、機体は一気に態勢を立て直し、畑の柔らかい土の上で一度跳ね、低空飛行を保ちながらそのまま森へ突っ込んだ。
枝が折れる音や、背の高い草花をこする音、眠っていた鳥たちが悲鳴を上げて飛び立っていく音が四方八方から聞こえてくる。ホワゾンドープはしばらく森の中を飛行した後、突如目の前に現れた一本の大木に真正面から衝突して、完全に動かなくなった。
「このポンコツ!」
衝突後の長い沈黙を破ったのは、ジェオの悪態だった。
「みんな大丈夫? レン?」
体中にくっついた木の葉や枝を払い除けながら、ディルはレンを振り返った。
「なんだ、もう終わりかい? もう一回やりたいよ」
レンの退屈そうな表情が、いかにも不満そうに言った。だが、ローブの内ポケットの膨らみは大きく震えていたし、足下のカメは甲羅の中に引き篭もって中で震え上がっているようだった。
「ジェオ、今のもう一回やろう! あと一回だけ! ディル、お前からも頼んでくれよ」
ファッグレモンの小屋へ向けて出発の準備を始めたジェオとディルに、レンは必死で甘えすがっていた。レンを無視しつつ、食料や懐中電灯の確認を続けていると、ディルにはレンがとてもかわいそうに思えてきた。
「やっぱこいつ、どっかで気絶させときゃ良かったんじゃねえか? うるさくてたまんねえよ」
コンパスを取り出すのにポケットの中をまさぐりながら、ジェオがたいぎそうに言った。レコードケースの中身が無事だったことを確認すると、ディルは肩をすくめた。
「ホワゾンドープはもうすっかり駄目になっちゃった。きっと、飛ぶ前からもう限界だったんだ……帰りのことも考えなくちゃね。……さあ、もう行こう。時間は無駄にはできないよ」
最後に、レンの足下を駆け回っているカメと小ネズミの元気そうな姿を確認すると、ディルは北へ向かってゆっくり歩き始めた。ジェオがレンを背負い歩くと、レンはその心地良さに顔をうずめて眠り始めてしまった。
「ちぇっ! 気楽でいいよなあ。呪いにやられてなかったら、今すぐ振り落としてやるのに……?」
カメが小ネズミを甲羅に乗せ、小走りしてジェオを追い抜いて行ったので、ジェオは目を丸くしてその様子を見つめた。あれは走っているというより、急いでいるようだった。
「グランモニカが教えてくれたのは、『草木に覆われた、そばに小さな沼がある小屋』っていうことだけなんだ。でも今は夜だし、きっと小屋の明かりが……?」
カメと小ネズミがさっそうと横を通り過ぎて行ったので、ディルは後ろを振り返り、ジェオと怪訝そうに顔を見合わせた。だが、ジェオもディルと同じ、カメの行動の真意がさっぱり分からないと言いたげな表情だった。