十七章 森に隠れ住む魔女 1
そうと決まれば、いつまでものんびりしてはいられない。ディルは蓄音機からレコードを慎重に取り外し、椅子の下に転がっている空のレコードケースにそれをしまい込むと、縄を伝って地下部屋から這い出した。そして、次に向かったのはジェオのいるデッキだった。ジェオはやはり、『日傘つき肘掛け椅子』に腰を掛けて釣りに興じていた。その足下で、カメと小ネズミが仲良く戯れている。ディルはジェオの元へ足早に駆け寄ると、出し抜けに、昨日までのことを事細かに説明した。
レンと共に人魚たちの住む西の海底へ行ったこと、そこでグランモニカに会ったこと、その途中でレンが発狂したこと、森に住むファッグレモンのこと、そしてついさっき、悪魔と取引したこと……。
「お、おいおい……ちょっと待ってくれよ」
興奮してまくしたてるディルに向かって、ジェオは半信半疑な面持ちで釣竿を握り直した。
「その西の海底やら、グランモニカってお偉いさんのことは、昨日のルーシラを見れば信じられない話じゃあない。だがな、ファッグレモンを探しに森へ入り込もうなんて、自殺行為もいいとこだぜ?」
それからジェオは、城下町に広まっている、北の森に関わる不吉な噂話を恐る恐る語り始めたが、ディルがすぐに待ったをかけた。
「ジェオの力が必要なんだよ。僕一人じゃレンを助けられない。すぐにでもファッグレモンを見つけなきゃ、レンが殺されちゃうんだ!」
ディルが必死に訴えると、ジェオは腕を組み、深刻そうな表情で何事かを考え始めた。その間、なぜかは分からないが、動物たちが不思議な行動をとり始めた。カメがディルの足にのしかかり、小ネズミがその周りを狂ったように跳ね回っている。何かを伝えようとしているのだろうか? 動物たちのこんなにも珍妙な姿を見るのは初めてだった。そのうち、二匹が熱い眼差しでディルを見つめるようになると、ジェオが釣竿を放り出して勢いよく立ち上がった。
「分かった。ディル、俺も探すぜ。レンのために、そして、俺自身のためにな」
「ありがとう……ありがとう! ジェオ大好き!」
ディルはジェオの腰あたりに飛びつき、そのまましばらくジェオを放さなかった。ジェオが困ったように頭をかいても、カメと小ネズミがじっとその光景を見続けても、ディルにはお構いなしだった。
『大丈夫。カエマが何と言おうと、『反・カエマ派』はきっと大丈夫。きっとまた、元通りになるから……』
「なあ、ディル。ちょっといいか?」
巻きついていたディルの腕が腰から離れると、上ずった声でジェオが言った。
「出発は夜の方がいいんじゃねえか? ほら、城下町にはあの妙な魔法使い集団がいるだろ? 夜なら人目につきにくいからよ」
ディルは大きくうなずいた。
「夜の森は危険だけど、ジェオの意見には大賛成だよ。出発は今日の夜でいいよね?」
「ああ、いいぜ……なあディル。お前さっきから何持ってるんだ?」
ディルは地下部屋で見つけた、悪魔が取り憑いているレコードが入ったケースをジェオに手渡した。ジェオはレコードケースに描かれている女性を見つめながら、しばらく物思いに耽っていたが、ディルがどうしたのと尋ねると、突然、何かをひらめいた。
「あ、このレコード、思い出したぞ! 俺がレンから頼まれて買って来たレコードだ……ディルがここに来てすぐの時、レンが俺に渡した買い物リストの中にこれがあったんだよ!」
ジェオは手に持ったレコードケースを何度も指差し、ケースとディルを交互に見つめながら叫んだ。
「そのレコード、どこで買ったのか覚えてる?」
ジェオはまた考えたが、時間は長くかからなかった。
「当時だと結構人気のレコードで、店じゃ売り切れだったんだ。だけど、ありゃどっかの小さい通りだったかな……路上屋でそのレコードが売られてるのをたまたま見つけたんだ。俺は迷わず購入したぜ」
「その店主、どんな人だった?」
ディルは容赦なく質問をぶつけ続けた。
「顔はスカーフで覆われて見えなかったけど、女だったのは確かだな。……おい、ディル。まさか、その店主がレンに悪魔をけしかけたとでも?」
その時、船内からけたたましく、耳をつんざくような叫び声が聞こえてきた。ディルやジェオ、カメと小ネズミまでもがその場にすくみ上がり、硬直した表情で互いを見つめ合った。
「今の、レンの声だ……」
船内へと誘う螺旋階段への入口を見つめながら、ディルが引きつった声で言った。レンのおどろおどろしい叫び声が、まだ耳の中に残って鼓膜を刺激している。
そして、それからすぐ、ディルとジェオは同時に走り出した。炎天下を全力疾走するのは至難の業だったが、レンの身に何らかの不祥事が起こったのは確かだ。放っておくわけにはいかない。
まず船内に飛び込んだのはディルだった。そのすぐ後にジェオが続く。
「レン! 何が……」
レンはガウン姿で、螺旋階段の一番下で丸くうずくまっていた。両手でボサボサの赤毛をかきむしり、全身を小刻みに震わせ、何か呟いている。
「誰……? ない……誰……?」
「おい、レン! 何があった? え?」
ディルに覆いかぶさるようにしながらジェオが声をかけると、レンの震えがピタリと止まった。そして、背中を丸めたまま、ゆっくり後ろを振り返った。青い瞳を肩越しに覗かせて、何かを見つめている。ディルではない、ジェオでもない……レコードだ。
「……ディル! てめえだったのか!」
レンは立ち上がると同時に振り返り、ディルの右肩と左足をわしずかむと、そのまま薄暗い廊下までディルを投げ飛ばした。ディルは訳も分からず、ただ悲鳴を上げながら宙を舞う他なかった。無抵抗のまま腰からもろに着地すると、ディルの手からレコードケースがスルリと逃げ出し、薄暗い廊下へ転がっていった。
腰から全身にほとばしる激痛のせいで呼吸が止まりそうになりながらも、ディルはレンを振り返った。だが、完全に振り返り終わらないうちに、レンがディルの首根っこを両手でつかみ、高々と宙に持ち上げた。
その時ディルが見たのは、蒼白なレンの顔に点々と浮かび上がる二つの血眼と、ジェオが怒りの形相で何かを叫び続けている姿、地下部屋の入口、そして、その入口を固く封じていたあの丸い木造のフタだった。この時初めて、ディルは自分の過ちに気がついた……フタを戻し忘れたのだ。
他人の入室を拒み続けていた部屋に誰かが土足で侵入し、その上大切な私物を勝手に持ち出されれば、呪いのせいで情緒不安定な現在のレンでなくたって、怒号を飛ばしていたに違いない。薄れていく意識の中、ディルはそう思った。
「レン! 目を覚ませ!」
ジェオがレンに向かって強烈な体当たりを喰らわせたのは、その直後のことだった。レンの両手からこぼれ落ちたディルの体は、仰向けに倒れ、何度も深呼吸を繰り返し、体内に酸素を供給した。そんな中、怒り狂ったジェオがレンに向かって叫び続けていた。
「この大バカ野郎! こんなになっちまいやがって! お前は大バカ野郎だ!」
レンの上に馬乗りになりながら、ジェオが涙ながらに声を張り上げている。ディルは無理に体を起こし、ぼんやりとかすむその視界で、二人の様子を眺め続けた。
「ジェオ、お前もディルの味方か? 弱虫な俺は嫌なのか? ルーシラやユンファみたいに、お前たちも俺から逃げ出すのか?」
レンは泣いていた。黒い瞳からも青い瞳からも、一粒の涙が流れ落ちた。レンは、悲しいとか、痛いとか、悔しいとか、辛いとか、そういう感情を何一つ見せず、無表情のまま、からっぽのまま、泣いていたのだ。
「みんな……みんな行っちまう……俺から離れて行っちまう……俺が頼りないから……不甲斐ないから……」
「違う! 俺たちはみんなお前のために……」
レンは長い間首を横に振っていた。それは、ジェオが言葉を続けられなくなるほど強烈で、ディルが耳を済ませたくなるほど静寂な、すこぶる衝撃的な行動だった。
「全ては無駄なんだ。今更何をやっても、もう手遅れだ。誰もカエマにはかなわない……だからみんな殺される。……俺はもう……疲れたんだ」
今のが冗談なら、レン、冗談と言ってよ。「冗談だよ」とか言って、笑い飛ばしてくれよ。心の中で何かの呪文を繰り返すように、ディルはそう叫び続けていた。
呪いの力がレンを無気力にさせたのかもしれない……だが、ディルはずっと考えていたことがあった。レンにかけられた呪いには、嘘も、まやかしも、心の内に秘めた恐ろしい考え事も、全てお見通しなのではないか、と。レンにかけられた呪いは、真実のみを写し出しているのではないか、と。今のレンの発言が、呪いが作り出した言葉ではなく、レンの心の中に眠っていた本心だとしたら、ディルは、レンを渾身の力で殴っていたかもしれない。ディルの代わりにジェオがそうしてくれるまで、ディルの気が変わる事は、きっとなかっただろう。
ジェオがレンの頬を握り拳で殴ったのは、ディルと同じ理由が彼の中にあったからなのかもしれない。又は、ただ単に怒りに任せて拳を振り落としただけかもしれない。そのどちらにしても、ジェオがレンを殴ったのは紛れもない事実だ。
「やったな……やりやがったな……俺を殴りやがったな!」
左の口角から血を滴らせ、暴れ馬のように鼻息を荒くしながら、レンは目の前のジェオを手当たりしだいに殴りまくった。ジェオはそんなレンの両腕をぐいとねじ伏せ、歯を剥き出して顔を近づけた。
「いいか、レン。お前が悪魔の呪いで苦しんでいるのは、俺だって十分承知してる。だがな、ディルがそれ以上の苦しみに耐えていることに、どうして気付いてやれないんだ!」
レンの心に直接語りかけるように、ジェオは泣き叫んだ。
「ディルは他の誰よりも、一番お前のそばにいたじゃないか。ディルは他の誰よりも、一番お前のことを心配していたじゃないか。それなのに、どうしてお前はいつも自分一人なんだよ。呪いのせいで、他人を信じる心や、他人を思いやる気持ちさえも分からなくなっちまったのかよ、レン!」
レンは、もう暴れてなどいなかった。ディルが四つん這いでゆっくり近寄ってもそれは同じだった。傍らで大泣きしているジェオが、あどけない子供のように見えた。
「……ディル。俺は、いつも一人だったのか?」
「肝心な時はね」
再び仰向けに倒れ込みながら、ディルは言った。胸がじわりと熱くなるのを感じた。
「レンはカエマ女王と戦う時、いつも一人だった。この前、レン、自分で言ったよね。誰かのために戦えって……俺はみんなのために戦うって。……でも、僕思うんだ。誰かのために戦うことはすごく大切なことだけど、仲間と一緒に戦うことは、もっと大切なことなんじゃないかって。きっと、仲間を信用することは、仲間のために戦うことと一緒なんだって、そう思うんだ」
螺旋階段の頂上から、熱い太陽の陽射しがレンの顔を照らし出していた。頬を伝う涙の跡が、一筋の光となってキラキラと輝いている。まぶたが音もなく静かに閉じると、それからしばらくの間、レンが目を覚ますことはなかった。