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十六章  大悪魔と危険な取引  2

 分厚い白雲の間から太陽が顔を覗かせ、この日も、うだるような蒸し暑さだった。デッキに顔を出すだけで、露出した肌がじりじりと陽に焼かれるのを感じた。船全体が、火にかけられたフライパンのように熱を帯びていた。

 靴の中にじわりと汗をかきながら、その足で、ディルは船尾へと向かった。ディルお手製の『日傘付き肘掛け椅子』に腰をかけ、竹の釣竿を握っているのはジェオだった。自慢の口ひげは寝癖のようにボサボサで、大海原を見つめる虚ろな瞳が、痛々しげに赤く腫れ上がっている。


「このずっとまっすぐ向こうに、俺の祖国がある」


 そばに近寄ってきたディルに気付くと、ジェオは出し抜けに切り出した。空っぽの瞳が、釣り糸の向こうに見える大海の、そのまた遥か遠くを見据えているようだった。


「山と花に囲まれた綺麗な国だった」


 ジェオの悲哀な表情に、更に拍車が掛かった。


「『だった』って……今は?」


 日傘の陰に身を滑り込ませ、ジェオの隣で海を眺めながら、ディルは聞いた。だがジェオは、やはり答えたくないようだった。ディルは、アジトで初めての晩餐の時にジェオが話してくれた『極秘任務』が何なのか、まだ知らなかった。


「ディル、お前は偉いな」


 やはり海を眺めたまま、ジェオがぼそっと言った。


「僕が? 偉いって?」


 ディルは訳が分からず、ただ動揺していた。


「強い者や、恐怖に立ち向かって行くお前を、偉いって言ってるんだ」


 一隻の漁船が水平線へ向かって進んで行くのを眺めながら、ディルは心が沈んでいくのを感じた。


「ねえ、ジェオ。僕はジェオが思ってるほど偉くないよ」


 ディルはきっぱりと言い切った。


「僕、時々自分のことがよく分からなくなる時があるんだ。自分でも思いもしなかった大胆な行動をとったり、死ぬかもしれない危険な状況に飛び込んでいったり。そういう時は、僕はいつも夢中なんだ……周りが見えなくなっちゃうんだ。……だから、僕はそんなに偉くないよ」


 潮の香りが風に乗り、垂れ下がった釣り糸を優しく揺らしていた。生暖かい夏の潮風が腫れた目にしみたのだろうか、ジェオは空いている方の手で顔全体を覆い、そのままうずくまってしまった。


「こんな情けねえ姿、レンにだけは見られたくねえな」


 指と指の間から、ジェオのうなり声がこぼれ落ちた。


「もう涙も枯れちまった……柄でもねえ。……俺は、ディルやレンみたいに強い志を持って行動したことがなかったんだ。ただ、目の前にある漠然とした目標に向かって、闇雲に生きていただけだったんだ。このアジトで生活していて、それをはっきり認識できた」


 こんなボロボロに弱りきったジェオを、ディルは初めて見た。そして、あの嵐の中、カエマが言い放った言葉がふと、ディルの脳裏を過ぎった。


「時が経てば……私が手を出さずとも、『反・カエマ派』の存在は消えてなくなる」


 ディルはぞっとした。カエマの宣言したとおり、今の『反・カエマ派』は風前の灯だ。指導者であるレンは呪いに倒れ、ユンファとアルマは昨日から謎の失踪、ルーシラは西の海底から戻る気配すらうかがえない。ジェオは……?


「ジェオ……一体何があったの? 僕なんかでよければ、何でも話してよ。その……大人の事情ってやつをさ」


 ジェオが顔を上げた。そして、必死ですがりつくような瞳でディルを見た。何かを語り出したそうに口が開いたが、言葉は出てこなかった。やがて、その視線は再び大海へと移ったが、開きかけた唇は震え、目の前の光景に対して拒絶反応を起こしているようだった。

 ジェオが何かに耐えながら葛藤している様子を見ていると、ディルはいたたまれない気持ちになった。そして、今はそっとしておくべきなんだと、そう悟った。森に住むファッグレモンを一緒に探してもらおうと誘いをかけてみたかったが、それどころではなさそうだ。


「レンに朝食を用意してくるね。呪いのせいで、レン、まともに動けなくなっちゃったんだ」


 さりげなくレンの容態を伝えると、ディルは日傘の陰から抜け出し、再びあの灼熱のような陽射しの下へと歩み出た。


「ディル!」


 カモメたちが一際けたたましく鳴き始めた、そんな時だった。ディルが振り向いた先に、『日傘付き肘掛け椅子』をひっくり返し、釣竿を握りしめたまま勢いよく立ち上がるジェオの姿があった。


「俺……俺、守りたいんだ! 恋人を……祖国に残してきた、俺にとって命よりも大切な人を!」


 ディルには、目の前で声を張り上げるジェオの姿が、ほんの一瞬、全く別の誰かに見えた。こんなにも哀しげで、こんなにも必死なジェオを、ディルは一度として見たことがない。焼かれるように熱い陽光を全身に浴びながら、ディルとジェオは互いを見つめ合った。


「俺が生まれ育った国ステア・ラが……三ヶ月前、サンドラーク国に攻め入られた。サンドラーク兵を裏で指揮しているのがヴァルハート国の国王だということを知った俺は、まだ付き合って間もない恋人をステア・ラに残し、停戦の交渉を図るため戦闘機でヴァルハートへ向かった。……その途中、俺の乗った戦闘機が敵軍の追撃にあって、海のど真ん中に落とされた。奇跡的に生き残った俺は、祖国のため、恋人のため、そして生き残るために、死に物狂いで泳いだ」


 ディルが、ヴァルハートがサンドラークを支配したという話をキングニスモの首領であるビトから聞いたのは、つい二日前に開催された南十字祭の時だった。だが、ジェオはそのことをずっと前から知っていて、ずっと一人で悩んでいたに違いない。そのことに気付いてあげられなかった自分の鈍感さを、ディルはひどく恥じた。


「ごめん、ジェオ。ヴァルハートがサンドラークを支配下に置いていたことを、僕はつい最近になって知ったんだ。まさか、それがジェオの国にまで影響していたなんて……」


「……そのことはもういいんだ。それより……」


 釣竿を握りしめるジェオの手に、更に力が加わった。竹のしなるパチパチという音に、ジェオの中の複雑な思いが絡み合っているようだった。


「それより、俺、ステア・ラに残してきちまった恋人が心配なんだ。彼女から定期的に送られてきていた手紙が来なくなって……城下町では、サンドラークがステア・ラを制圧したって噂が広まってる。ヴァルハート国王のロアファンはいつまで経っても行方不明のままだし……カエマ女王はあんな調子だろ? 俺、どうしたらいいのか分からなくなっちまった」


 ジェオの声に、持ち前の明るさは微塵も窺えなかった。だが、そんな深刻な悩みを打ち明けてくれたジェオに、ディルは心からありがとうと言いたかった。


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