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十五章  グランモニカ  5

 ディルには返す言葉が見つからなかった。だが、それは今のレンにとって好都合だったかもしれない。次にまたレンの気に触れるようなことがあれば、ただではすまないだろう。


「レン・ハーゼンホーク。身に生じた不幸な災いが元凶だとしても、その愚かな行為を罰せねばなりません。それが原則なのです」


 グランモニカはレンにというより、ディルに対してそう言った。真珠玉がキラリと怪しく光ると、レンは後方へ飛ばされ、剣は光の粒となって砕け散った。大の字になって倒れたレンは、ピクリとも動かなくなった。真珠玉がもう一瞬光り輝くと、そこにレンの姿はなかった。


「レンはあなた方の船に送り届けました。大丈夫、明朝まで目を覚ますことはないでしょう」


 不安そうに見つめ返すディルに向かって、グランモニカが静かに言った。


「レンは……またいつもの元気なレンに戻るでしょうか?」


 よろよろと立ち上がり、再びグランモニカの前に立つと、ディルは出し抜けにそう質問した。グランモニカは、何か深い考え事を始めるかのように、椅子の肘掛けに片肘をついた。


「……おそらく、あの呪いを解かない限り、レンが元の人格を取り戻すことはないと思います。先程のように、周囲の者に暴力を使っては、激しい自虐を始めるでしょう。しかし、その感情をも呪いに喰われると、話すことさえ出来なくなる……そこまできたらもう……」


 グランモニカの言葉に大きな衝撃を受けながら、ディルは、なぜ自分がここに連れて来られたのかもう一度よく考えてみた。

 レンは、あんな絶望的な状況の中でディルの力を信用してくれた。いざとなると、いつも一人で暴走してしまうレンが、ディルに助けを求めてきてくれた。そんなレンを見捨てることなんかできない。


「僕の力がどこまで通用するか分からない……けど、手遅れになる前に、僕が絶対にレンを助けます」


 ディルを見つめながら、グランモニカは含み声で笑った。ディルが怪訝そうに見つめ返しても、グランモニカはしばらく笑い続けた。


「今のあなたは、レンが初めてここへ来た時と同じ顔をしています。自身に満ち溢れたまだあどけない瞳、己の思考を貫こうとする意固地な口元、迷いや不安、恐怖さえも感じさせない、その勇猛な顔立ち。だからこそ、私はレンにアクアマリンを授けたのです」


 グランモニカの優しげな瞳が、ディルの視界の中で一際明るく輝いた。


「ディル。あなたにはアクアマリンを受け入れるべき素質が十分にあります。本当に後悔しませんね?」


 ディルは力強くうなずいてみせた。自分の力を信じたいという気持ちに、微塵の迷いもなかった。その後、グランモニカの大きな瞳がディルを見つめ続けたので、ディルは必要以上にまばたきしたり、カメたちに視線を泳がせたりしながら、その瞳をあまり意識しないようにした。心の中を見透かされているような気がしたのだ……やましいことは何もないのだが。


「例外に……」


 グランモニカがまぶたを閉じたので、ディルの心は束の間の開放感で満たされた。


「アクアマリンが人を選ぶ場合もあるのです。人魚一族に誓う者には、必ずそれが報われます。……ディルのような人間になら、我々が守ってきたアクアマリンを受け継がせられるかもしれませんね」


 その言葉に、ディルは思わず首をかしげた。


「アクアマリンの魔力は人魚一族の一部ではないのですか? アクアマリンをどう守るんです?」


 この質問に、グランモニカは大きな高声で短く笑った。ディルはどうしてよいかわからなかった。


「レンは約束どおり、何も教えてはいなかったようですね」


 笑い声を混ぜながら、グランモニカは言った。


「地上では、魔法の起原は人魚とされていますが、それは長き歳月が生み出した虚偽です。人魚は魔力の源であるアクアマリンをその身に取り込み、今までずっと守ってきました……おそらく、これからもずっと。あなたもここへ来る途中に見かけたでしょう、群青に輝くアクアマリンの海底洞窟を。あの断崖のように突き出した岩壁こそが、アクアマリンの真の姿なのです。我々一族がはるか昔から守ってきた、海底に眠る秘宝です」


 ディルの中で興奮と好奇心が交互に芽を出し、一気に膨らんだ。


「まさか、あれ全部が……?」


 その時、真珠玉が三回、モールス信号よろしくパッパッパッと眩い光を放ち、グランモニカに何事かを知らせた。グランモニカはしばらく真珠玉を覗き込むと、やおら顔を上げ、ディルを見つめた。


「王女の準備が整ったようですね。知らせはルーシラからでした」


 グランモニカは真珠玉を丁寧に撫で回した後、もう一度真珠玉を覗き込んだ。


「さて、ディル・ナックフォード。お別れの時が来たようです。少し日が遅れましたが、今宵は王女という名の身分である者全てが経験しなければならない、儀式の時。神聖な儀式には、人間はおろか、小魚の一匹とて部外者の扱いとされるのです。ルーシラにラフェリを探し出すよう命じていたのは、カエマの手から守るためでもあり、この儀式のためでもあったのです」


 なぜルーシラが毎日のようにラフェリを捜していたのか、ディルはやっと理解できた。


「……レンのことも心配でしょう、私の力で船まで送って差し上げます」


 グランモニカが真珠玉を掲げた時、ディルはとっさに待ったをかけた。


「あの、最後に一つだけいいですか?」


 グランモニカはほんの一瞬、呆気に取られた様子だったが、やがて小さくうなずいた。


「魔法使いや魔女と呼ばれる人たちが魔法を使えるのは、アクアマリンがその身に宿っているからですよね? ということはやはり、カエマ女王は人魚ということになるんですか?」


 グランモニカは黙ったまま何も答えなかった。だがしばらくすると、ディルと初めに会った時と同様、深い眠りについたように両のまぶたを閉じた。『瞳では見ることが出来ない、何か特別なもの』を見つめているようだった。


「ディル。どうしても答えを導き出せない難問に遭遇したら、こうして目を閉じなさい。そうすれば、その答えはおのずと見えてくるはずです。さあ、やってごらんなさい」


 ディルは言われるがまま、左右の瞳をゆっくりと閉じた。上下から押し寄せてくる暗闇が視界を少しずつ遮っていく最中、最後にディルが見たのはグランモニカが着装している衣だった。目の前が完全な暗闇に覆われても、そのすみれ色のたおやかな衣は色あせることなく、ディルの瞳にしっかりと焼きついていた。

 こうして目をつむったままでいると、心なしか、幾分心地が良かった。すぐ耳元で聞こえるカモメの鳴き声や、波と波がぶつかり合う精鋭な音が……。


「……あれ?」


 ディルが目を開けると、目の前に広がっていたのは西の海底ではなかった。そこは、たそがれ時の見慣れたデッキの上だった。西日がデッキ全体を照らし出し、そこに横たわる亡骸のようなレンの体を、淡いオレンジ色の陽光が包み込んでいる。

 レンのすぐ脇には、ヴェルデンテに預けたはずのディルの剣が無造作に放げ出されていた。


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