十五章 グランモニカ 3
「グランモニカ様。ルーシラです、ただいま到着いたしました」
グランモニカの七色の尾ひれが微動し、一瞬だけキラリと光った。グランモニカの下あごが、左右の牙と同時にゆっくり上下した。
「こうして目を閉じていると、瞳では見ることが出来ない、何か特別なものが見えたりするものです」
高齢とは思えないグランモニカの澄んだ声が、ゆっくりと、ゆっくりとそう言った。
「レン、目をつむっていても、あなたがここに来ていることは分かっていました」
グランモニカの大きな両目がギョロリと開いた。深海のように青い瞳が、キョロキョロと辺りを見回している。その姿に、ディルは若干の悪寒を覚えた。
「お久しぶりです、グランモニカ様」
レンは浅くお辞儀をし、また元に戻った。
「そこもとは何者か?」
グランモニカの大きな瞳が、まっすぐにディルを見据えていた。
「……え? あ……ディル・ナックフォードです」
ディルはあたふたしながら自己紹介をした。グランモニカの口元が優しく微笑んだ(と、ディルは思った)。
「なるほど、ナックフォードの血筋を引く者ですね。道理で、力強い勇気を感じさせる瞳をお持ちのはずです」
ディルは顔が熱くなるのを感じた。
「ナックフォード家のことをご存知なんですか?」
照れを隠そうと、ディルはすかさず聞いた。グランモニカの尾がさっきよりも大きく揺れ動いた。
「海に住むあらゆる生物たちが、ヴァルハート国のことを私に教えてくれるのです。私は、変わり続ける文明と、埋もれるほど多大な情報の中で、三百年と二ヶ月と十日、ずっと生き続けてきました」
グランモニカの桁違いの年齢に、ディルは返す言葉が無かった。というより、何かの冗談ではないのかと疑ってしまった。
グランモニカの瞳がルーシラに向けられると、ディルは少しの安堵感を覚えた。
「おかえりなさい、ルーシラ。レンの監視役、ご苦労様でした」
ルーシラは深々と礼をした。再び顔を上げると、そこには笑顔があった。
「あら、グランモニカ様。私はまだレンの監視を続けますわ。地上はとても楽しいし、レンはこう見えて頼りがいのある人物です」
レンは弱々しく微笑んだ。目の下のくまが、今朝よりも色濃くなった気がする。
「地上を恐れず、些細なことに興味を抱くことはとても素晴らしいことです。ですが、無理は禁物です。冒険心はほどほどにしましょう」
ルーシラはもう一度、短く礼をした。その時、グランモニカが手にしていた巨大な真珠玉が眩く輝いた。その場にいた全員が、真珠玉に引き寄せられるように目を奪われた。そして、グランモニカだけが何事かを承知したらしく、真珠玉を見つめたまま静かに笑った。
「ルーシラや、到着したばかりですまないけど、世話係を手伝ってやってくれないかい? あのおてんば王女に、五人の世話係が目を回しているみたいだからね」
グランモニカには真珠玉に映る何かが見えているらしかった。ルーシラがその場からせっせといなくなると、グランモニカはまず、レンの衰弱しきった土気色の顔を覗き込んだ。
「レン・ハーゼンホーク。次にあなたがこの西の海底に訪れるのは、まだまだずっと先……つまり、カエマ・アグシールを倒してからだと、少なくとも私はそう思っていたのですが? ヴァルハート国に限らず、レン、あなたの容態もあまりかんばしくないようですね……」
この人には全てお見通しなのだと、ディルは確信した。グランモニカの前で、嘘や隠し事はできそうにない。
「おそらく、あなた様のご想像通り、俺にはカエマの呪いがかけられているのでしょう。体は日を追う毎に衰え、心は倦怠し、今こうして立っているのでさえ辛い」
レンは一度大きく深呼吸し、また言葉を続けた。
「今日、俺がここを訪れたのは、グランモニカ様の力をお借りし、あるいはこの呪いを取り除いてはもらえないかと考えたからです」
ディルは、自分の名前が出てこなかったことを不思議に思いながら、グランモニカの返事を待っていた。向かって右のカメが、退屈そうにあくびをした。
「それはできません」
グランモニカの唐突な言葉が返ってきた。その内容に、ディルはレン以上に驚いた。
「それはなぜです? よろしければ、理由をお伺いしたい」
レンの態度は平静そのものだったが、発せられた声からは、確かな焦りの色が感じ取れた。
「レン・ハーゼンホーク、勘違いしてはいけません。私があなたに託したのはアクアマリンではなく、機会です。カエマ・アグシールを倒す機会を与えたのです。私たち一族が守る特殊な力に頼りすぎていては、人間たちは簡単に腐ってしまうでしょう。少し冷酷かもしれませんが、それが掟なのです」
納得がいかないとばかりに、ディルが一歩前へ進み出た。
「レンから、他に呪いを取り除く手段はないのですか?」
グランモニカは、心の中を探り込むような視線をディルにぶつけ続けた。ディルは体内の熱が汗となって体外へ放出されるのを、緊張しつつもはっきりと自覚していた。
「以前……かなり前に聞いた話ですが……」
真珠玉が弱く淡い光を放ち始めると同時に、グランモニカは微小な声でそう切り出した。
「ヴァルハート国に広がる森の奥深く、草木に覆われた小さな沼のすぐ傍に、二人の魔女が住む小屋があると、そう聞いたことがあります。内の一人は最近そこを離れましたが、残った一人の魔女が今もそこに住んでいるようです」
グランモニカの表情が、感情の読み取れないほど奇妙な形に変形した。だが、これから愉快な世間話が始まらないことくらい、ディルには分かっていた。
「……そしてどうやら、その小屋を離れたというのがカエマだったらしいのです。王宮に身を寄せることに決めたカエマは、幼い頃から彼女を育ててきたファッグレモンという老魔女を小屋に残し、そこを去ったのです」
「カエマと長年暮らしてきたそのファッグレモンとかいう魔女を訪ねれば、呪いを解いてもらえる術が見つかるということですね? そしてあわよくば、カエマの頭が狂った理由を探り出せるかもしれない」
レンはグランモニカの二倍の速さでそう言った。グランモニカはゆっくりと顔を横に振った。
「私はただ、可能性を述べただけです」
その一言で、レンは再び沈黙させられた。
「ファッグレモンを訪ねることが得策とは限りません。特にあなたたちの場合は、様々な危険が付き物となるでしょう」
「だけど、どんなに小さな可能性でもやってみないと……でしょう?」
言葉に精一杯の熱を込めて、ディルが言った。
「ええ、ディル・ナックフォード、そうでしょうとも。今のレンには、どんなに小さな可能性だって必要とされるのです。ですが、レン、あなたにかけられた呪いは力が強すぎます。そのアクアマリンが今、呪いの力に圧倒され悲鳴を上げているのが私に伝わってくるのです。アクアマリンから光が消えた時、呪いの力が筋肉を麻痺させ、内蔵を腐らせ、骨を溶かし、やがて……あなたを殺すでしょう」
グランモニカの言葉に、ディルは絶望した。呪いがレンを殺してしまうことを、ディルは心の隅で確信していた。だが、実際にレンの死を予言されると、それを素直に信じたくなかった。レンが死ぬなんて、そんなことは決してあってはいけないのだ。
「のんびり遊んでる暇は無い、ってことですよね?」
ディルとは裏腹に、レンは毅然とした様子だった。少しの笑みさえ、その紫色の唇から感じ取れる。
「それでは、ここに来たもう一つの理由、早急に説明させてもらいます」
レンの言うもう一つの理由に、ディルはとっさにピンときた。今、どうして自分が人魚たちの住む西の海底にいるのか、その明確な答えがレンの口から告げられようとしているのだ。