十五章 グランモニカ 2
「ディル、置いてくぞ」
階段の上をゆったりと泳いでいるレンの姿を見て、ディルはこの階段の存在理由を疑わしく思った。この建物自体、どこからどう見ても人工的な作りだし、人魚たちが階段を使うわけがない。もともとは地上に存在した建築物だったのだろうか?
「ここって、すごく不思議。大昔の遺跡みたいだ」
見たこともない妙な字が円形につづられた踊り場に到着すると、ディルはルーシラに向かって感想を述べた。
「そんなことより……」
ルーシラはかなり緊張しているようだった。自由気ままなディルとレンを、非難めいた視線で見つめている。
「これから誰と会うか、二人とも忘れちゃったの? グランモニカ様よ」
ディルはその名を聞いて、なぜ自分がここに来たのかを改めて考えさせられた。そういえば、まだはっきりとした理由を誰からも聞いていない。
「ねえ、レン。どうして僕は……ぷふっ!」
レンの横顔を見て、ディルは思わず吹いてしまった。一度にたくさんの息を吐き出したので、かなり長い間、目の前があぶくだらけで何も見えなくなった。レンが怪訝そうにディルを見つめた。
「レン。右の耳から泡が出てるよ。ほら、また! 耳で息が出来るの?」
ディルはからかうように、レンの耳の穴を指差した。
「耳から?」
レンはいぶかしげに右の耳穴を指ですっぽりふさいだ。するとどうだろう。今度は左の耳からポコポコと小さな気泡が溢れ出てくるではないか。これを見て、ディルとレンは大笑いしたが、ルーシラは表情がねじ曲がるくらい顔をしかめて、再び二人をたしなめた。
水面に顔を出す直前に、ディルは最後にもう一目見ておこうと、階段を振り返った。何十メートルも遠くの海底に、たくさんの小さな石柱と彫像が、先ほどと変わらぬ堂々とした様子で直立しているのが見える。まさか、ヴァルハートの地下奥底に、こんな美しい海底が存在していたなんて夢にも思わなかった。
階段は水面と同じ高さの位置で終わっていた。初めにルーシラが、次にレンとディルが最後の一段をよじ登り、水中から身を乗り出した。ディルは、服が全く濡れていないことにちょっぴり驚き、視線の先の光景にはすごく驚いた。
氷のように繊細に輝く床が一面に広がっており、足下にはもう一人のディルの姿が反転して映っている。丸天井からは眩いほどの黄色い光が差し込み、木の根っこが複雑に絡み合って垂れ下がっている。周囲の岩壁はやはり鮮明に青く、いくつかの星座が横一列に並び、黄金色に点々と光り輝いていた。
ルーシラは二人の数歩先を進んでいた。その更に奥の玉座に悠々と座っているのは、間違いない、グランモニカだ。ディルが今まで見てきた人魚の中でも、グランモニカは際立って高齢だった。
その顔は、人魚と言えど、人間とはかなりかけ離れたもので、どちらかというと魚に近い方だ。輪郭は縦に長く、縦横斜めに深いしわが刻まれている。下あごが突き出し、左右から鋭利な細い牙が突き出している。両目は魚のように離れ、今は閉じている……ぐっすりと深い眠りに落ちているように見えた。右まぶたには赤黒く腫れた痛々しい傷跡が残されている。全身はすみれ色の衣で覆われ、ルーシラが身にまとっている衣と同じ素材で出来ているらしく、湖面のようにキラキラと輝いている。右手にはリンゴほどもある真珠玉が握られ、ぼんやりと淡い光を放ち続けていた。
玉座の両脇には二匹の大きなカメがどっしりと身を構え、それはアジトにいるカメとよく似ていた。グランモニカと二匹のカメを取り囲むように配置された四つの燭台には、それぞれ青い炎が灯り、周囲を青白く染めていた。
ディルは西の海底に来て初めて、緊張で足が震えた。だがレンは、眉尻をきりっと上げ、疲れ切っていた表情に幾分、生気が戻っていた。レンがよろよろ歩き出すと、ディルがぎくしゃくしながら後を追う。水中から出てからというもの、体がいつもより重く感じたし、緊張のせいで足下がおぼつかなかったのだ。
玉座までの道のりはあっという間だった。ディルの頭の中はほとんど真っ白だったが、目の前に座っている人物がグランモニカであることや、左隣にはレン、右隣にはルーシラが立っているということは、ちゃんと認識できていた。