十四章 西の海底 4
その瞬間、ディルはパニックに陥った。海面まで泳ごうと手足をばたつかせても、口から大小の気泡がぶくぶくと逃げ出すだけだった。服やマントが水を吸って、急激に重くなったのがそもそもの原因だった。海面からうっすらと見える淡い光が、段々と暗くなっていくのが分かる。体中の穴という穴から、海水が全身に染み込んでくる。
『助けて!』
心の中の叫び声が、あぶくとなって海面へ上っていった。ディルの必死の願いは、すぐに叶えられた。急に体が軽くなり、薄れていく意識の中でも、自分が海面へ浮上していくのがはっきり分かった。
「しっかりしろ、人間」
何者かが、ディルの頬を何度も叩きながらそう呼びかけた。とっさに、ディルは口の中の海水を吐き出し、激しくむせ込んだ。びしょ濡れの前髪をかき上げ、幾度か深呼吸を繰り返すと、やがて、目の前の視界がはっきりとその全貌を捉え始めた。
そこは、青に輝く岩肌が剥き出しになった、だだっ広い洞窟のような所だった。とてつもなく広い水面に、ディルたちを中心とした波紋が広がっていた。遥か高い所にある天井からは、大小の岩のつららが無数にぶら下がっている。薄明るく照らされた洞窟はしんと静まり返っており、ディルを運び泳ぐ男は、なんとも不思議なことに、手も使わず、足もばたつかせず、まるで魚のようにスイスイと静かに泳いでいた。
ディルは辺りの風景から一旦目をそらし、そっと男を覗き込んでみた。上半身裸のこの男は、ジェオと同い年くらいの年齢で、更に、ジェオに劣らないほどのたくましい体格の持ち主だった。そして、ルーシラたちと同じ青い瞳が両の目に輝いていた。
「あの……ありがとうございます。あなたが助けてくれなかったら、今ごろ僕は……」
喉と鼻の奥がツンと痛むのを我慢しながら、ディルは礼を言った。男はディルがしたのと同じように、もじゃもじゃの髪の毛をかき上げた。厳格そうな男の顔がディルを見た。
「礼には及ばん。人間には借りがある」
そのまましばらく泳ぎ続けると、真っ白い砂利に覆われた、細長い岸に辿り着いた。ディルたちに気付いた暗褐色のカニが数匹、水中の岩の下に身を隠した。男はディルを岸に下ろすと、とびきり厳格な顔つきでディルの私物をくまなく探した。ディルはどぎまぎしながら、腰に備えてあったマントの中の剣が男の手に渡るのを見ていた。
「規則だ。中に武器は持ち込めん」
男の青い瞳がキラリと光った。ディルはふと、水の中でゆらゆらと漂う魚の尾に気がついた。やはりこの男も、ルーシラたちと同じ人魚らしい。
「僕、ディル・ナックフォード。くどいようだけど、さっきのことは本当に感謝しています」
ディルは握手を求めようと手を差し出したが、男は応じなかった。
「忠告しておこう、ディル・ナックフォード。ここでの握手は、相手に決闘を申し込む時だけだ」
ディルはとっさに手を引っ込めた。
「より強い者がグランモニカ様の護衛に付くことができる。私、ヴェルデンテは、こうして人魚たちの海底洞窟の番人を任された。だが私は思う。どんな責任ある仕事にも、大小の関係などない、とな。……ふむ、奴か」
辺りの静寂を破ったのは、まぎれもなくレンだった。ディルたちのいる岸辺に向かって、ゆっくりとだが、泳いで近づいて来るのが分かる。
「待たせたな、ディル。……よう、ヴェルデンテも一緒だったのか。相変わらず番犬やってるのか?」
「番犬?」
ヴェルデンテがいぶかるのをよそに、レンはぐったりと疲れ切ったディルの顔色を心配そうに覗き込んだ。
「ひどいよ、レン。水の中に移動するなら、前もってそう言ってくれればよかったのに」
ディルが非難めいた声を出した。
「ごめんごめん。俺もうっかりしてたんだ」
「ヴェルデンテさんが助けてくれたんだよ……二人は知り合いなの?」
馴染み深そうな二人のやりとりを思い出し、ディルは付け加えた。ヴェルデンテは何も答えず、ディルの剣を手にしたまま、水中に潜ってどこかへ行ってしまった。レンは、それと入れ替わるように岸へ這い上がったかと思うと、魔法であっという間に服を乾かしてしまった。