十三章 敵の中に生きる者 3
その瞬間、レンの体が風船のように膨張し、赤と白のローブが所々引き裂かれた。二つの剣の接点が火花を上げ、レンの体はたちまち路地いっぱいにまで膨れ上がった。
「うああああぁぁぁっ!」
レンの体は怒りと共に爆発し、周囲のものを吹き飛ばした。地面に転がっていた空き瓶を木っ端微塵に破壊し、山積みの木箱は原形を留めないほど粉々になった。ディルは両腕で顔を覆ったが、それさえも無駄な抵抗で、爆風が壁のようになって全身を襲った。
爆発の衝撃が身から引いた時、ディルは、ジェオの上に折り重なって倒れている自分に気が付いた。
「レン……レン!」
舞い上がった砂埃の向こうにうっすら見えるレンの姿に向かって、ディルは名を呼んだ。レンは微動だにせず、生きているのか、死んでいるのか、それさえも分からない。
ディルやジェオ、レンでさえも、カエマの力の存在を忘れていた。死人の記憶や技能を吸収するカエマが、ただ知能と知識だけを求めるはずがない、と。ディルはすでに確信していた……あれは、間違いなくレンの父親だ。
カエマは、実の父親であるザックスを殺したという記憶をレンに植え付け、城から追放させた。そして、ザックスの亡骸を、ザックスの記憶を、ザックスの力を、カエマは全て奪い取った。剣士の実力としては世界一と称されるトワメルに、全く引けを取らないザックスの技能をも、カエマは我が物としていたのだ。
「……何がどうしたんだ?」
ジェオは粉々になった木箱の破片を脇によけ、ゆっくり起き上がりながら、弱々しいしわがれ声で聞いた。その腕の中で、ラフェリが息苦しそうにもがいているのをディルは見た。
「前に言ったよね? カエマ女王は死人の全てを吸収するって。その女王の中に、レンのお父さんがいるんだ……。女王は、剣士としての力が欲しかった……ただそれだけの理由で、レンのお父さんを殺したんだ」
ディルは悔しかった。そして、カエマの身勝手な行動に腹が立ってきた。だが、自分の力ではどうすることもできない。強い魔力を持っているわけでも、トワメルと肩を並べるだけの実力を持つ、ザックスの剣術を越える力を持っているわけでもない。ディルは、自分の無力さに気付かされることが幾度もあった。今回もまた、ただ見守っていることしか出来ないのだろうか? レン一人が、カエマと戦うしかないのだろうか?
こいつはレンの戦いだと、誰もが言うなら素直に従おう。だが、そうではなかったはずだ。レンには、信用できる大切な仲間たちがそばにいるということを、忘れてほしくなかった。一度でいいから、自分たちのことを思って戦ってほしい。もっと、頼ってほしい……。
『そうだろう、レン! 一人で戦ったら駄目だ!』
ディルは心の中で、何度も繰り返し叫んでいた。
「痛い……」
女のかすれ声が弱々しくそう言った。ボロボロのローブ姿の向こうに、カエマと思しき哀れな姿があった。赤いドレスは所々裂かれ、焼け焦げ、爆風と砂埃で茶色っぽく変色していた。腕や顔の皮膚はただれ、黒ずみ、額から流れるどす黒い血が左目を通って、あごの先端まで一本の筋を作っていた。
「痛い……痛いぃ! 痛いよぉ……痛いぃ! あああぁぁ……」
目を背けたくなるほどのむごい光景だった。その姿はザックスではなく、元のカエマに戻っていたが、それはまるで、地獄絵図に出てくる死者を思わせるような悲惨な姿だった。大きく見開かれた両目が爆発後の惨劇を狂ったように観察し、ただれた腕を舌で舐め回し、周囲を歩き回りながらヒーヒーと喘いでいる。
「呪われた黒い血ね。たくさんの人間の血が入り混じってる……」
ラフェリの言葉に、ディルは心底驚いていた。先程からのラフェリの言葉は、普通の女の子の発言ではない。魔術に関しては、少なくともディルよりは知識が豊富らしかった。更に、ディルが驚いたことはそれだけではなかった。それは、カエマが傷を負ったことに関係していた。
「あれは魔法体じゃない……実体だ」
うごめくカエマを目で追いながら、ディルは漠然と呟いた。あれが実体だったとしても、とどめを刺すだけの力がディルにはない。弱りきったカエマに近づくことは、それほど容易なことではなかった。それに、力が弱っているのはレンも同じだ。昨日のことも踏まえれば、肉体的にも精神的にもボロボロになっていることは確かだ。
「私の体に傷をつけたな……こんなにも醜い傷を……!」
カエマは、黒い血液の滴るその変わり果てた細い腕を、地面に転がる銀の剣に伸ばしていた。溢れ続ける墨のようなどす黒い血が、地面に落ちて黒い点々を作り上げていった。
レンが、ゆっくりと顔を上げた。
「お前は……過去に何度も、そうやって罪も無い人間を殺してきたじゃないか」
レンの声からは生気を感じなかった。レンの全てが朽ち始めていた。剣を手にしたカエマは、ぜえぜえと苦しそうに喘ぎながら、やっとの思いで冷酷な微笑を作り出した。
「私とて、無駄に人間を殺したりはしない。不要なものに興味などないからだ。……レン・ハーゼンホーク、お前はむしろ不要な人間だ。誰からも認めてもらえぬ、弱い人間の一人だ……父親さえも、お前を認めてなどいなかった!」
「黙れ……黙れ、黙れ黙れ!」
逆上したレンは、剣を振りかざし、そのまま突進していった。我を忘れ、カエマの息の根を止めるまでその勢いは止まりそうになかった。
それは、ディルがかつて見たことないほどの壮絶な斬り合いだった。双方の攻防戦が休むことなく繰り返され、剣が空を切る音や、接点から発する金属音が、その激しい戦闘をより鮮明に映し出していた。ディルとジェオは、ただその場に棒立ちしているしかなかった。ある意味では、二人の戦闘ぶりに感極まっているようなものだった。
「お前は悪魔だ。自らを呪ってまで欲しい力を手に入れようとする貪欲なお前は、人間の姿をした悪魔だ!」
カエマの剣を右へ、左へ弾き飛ばしながら、レンは叫んだ。
「何も感じないのか? 心が痛まないのか? 他人の悲しみを分かってやろうとは思わないのか? 心までくるっちまったのかよ……カエマ」
「かしましい小僧め」
その時、一本の剣が高々と宙を舞った。レンの両手は、路地に漂うひやりと冷たい空気だけを握っていた。
「私を改心させる気か? それとも父親の剣術を前にして、その威勢も、力も、みな消え失せたか?」
無防備のレンに剣を突きつけながら、カエマは静かに続けた。
「お前の負けだ、レン・ハーゼンホーク。だが安心しろ。お前の心臓を喰ったりはしない」
レンが、その場にガクリと膝をついた。どこか遠くを見つめる二つの瞳に生気はなく、希望に溢れた明るい輝きはもうそこになかった。レンが敗北を認めた、最悪の瞬間だった。
「私の贈った呪いの力を持ってしても、そこまで動くことができるなんて意外だったわ。並みの人間なら、もうとっくに虫の息だったはずですもの」
カエマは、レンの青い瞳に映る自分の姿をまじまじと見つめた。レンから全ての気力が失われていても、その深海のような青い瞳からは美しい輝きが放たれ続けていた。
「その左目のアクアマリンが、呪いの力を最小限に抑え込んでいたみたいね。……だけど、もう苦しむ必要なんてない。お前にはもっとふさわしい、死というきっかけを与えてやろう」
カエマが剣を構えた。それを見て、ディルは剣を高々とかかげてカエマに向かっていったし、ジェオはラフェリを抱えたまま、威嚇するようなおたけびを上げて突撃した。二人とも無我夢中だったが、再び聞こえ始めたあのエンジン音によって、レンやカエマさえも、うっかり気を取られてしまった。
まるで、ホワゾンドープが意思を持ったかのように、ディルたちを助けようと再び動き出したのだ。豪快なエンジン音が、「俺に乗れ」と言っているようだった。
「ディル、乗れ! レンを助けるぜ!」
ジェオが叫んだ。ディルは座席の後ろに飛びつき、次いでラフェリがその横の座席にしがみ付くと、ジェオは二人の頭上を軽々飛び越え、そのまま操縦席に着席した。ジェオが操縦桿を握ると、ホワゾンドープは待ってましたと言わんばかりに、地面すれすれの超低空飛行で突進していった。レンとカエマがぐんぐんと迫ってくる。
「レーン!」
ディルの声に、レンはすかさず反応した。振り向きざまに機体に飛び乗ると、尾翼にもたれかかって死んだように動かなくなった。レンの救出を察知したホワゾンドープは、左右の翼を勢いよく羽ばたかせ、天に向かって急上昇した。あまりの急角度に滑り落ちそうになりながらも、ディルは路地にたたずむカエマの存在を確認できなくなるまで見届けていた。
魔法戦士部隊に見つかるのを恐れたジェオが、海岸沿いの上空を飛行しようと決めたので、それからヴァルハートの城下町はすぐに遠退いてしまった。東にそびえる山々を越えれば、アジトの船はすぐそこだ。
照り輝く太陽の下でも、力強いホワゾンドープの上でも、レンは目を開けたまま、指一本動かそうとはしなかった。唯一、呼吸の証である胸の上下運動だけが、レンの生存を確かなものにしてくれていた。
あのレンがここまで追い詰められるなんて。ディルはカエマの強さと恐ろしさを、改めて実感させられた。だが、カエマも深手を負ったのは確かだ。どちらもしばらくは、手を出せない日々が続くはずだ。
この南十字祭での良い出来事をただ一つ上げるとしたら、それはラフェリが見つかったことだけなのかもしれない。