十三章 敵の中に生きる者 1
ディルが初めてこの女性を見かけたのは、まさにこの路地でのことだった。仮面窃盗団を追いかけ、レンが扮するマルコ・ポルテと出会った、この陰気な路地に女性は通りかかったのだ。その時見た女性と、今目の前に立ちはだかる女性の印象は、ディルにとって、全く変わっていないように思えた。それは死神のような、触れると死を招きかねない、恐ろしい姿だった。
ディルは、驚いて後ずさりした拍子に、ホワゾンドープの右翼に足を引っ掛けてしまった。ディルの異変に気付いたレンとジェオが、同時に、その女性の存在に気付いてくれたことは、ディルにとってこの上ない救いだった。束の間に、ディルが女性から退くことが許される唯一の手段だったからだ。女性が、灰色にくすむ屍の瞳でレンたち一人一人を見つめている間に、ディルはそそくさとジェオの後ろに身を隠した。
以前と同じ、血のように真赤なドレスで身を包み、栗色の縮れた髪の毛の上に金色のティアラが映え、口元の深いしわに食い込むほどの奇妙な笑みを浮かべている。手足は骨が浮き立つほどきゃしゃで、その体は枯れ木のように痩せ衰えていた。
「血と死人の匂い……とても邪悪ね」
レンの腕の中で、ラフェリは寝言のようにぶつぶつと言った。ディルは“血と死人の匂い”を嗅ぎ取ろうと試みたが、かび臭い路地独特の香りが漂っているだけだった。
「あんた、何者だ? ただの通りすがりじゃなさそうだな」
ラフェリをジェオの腕に預けながら、レンは女性に冷たく話しかけた。話し相手が不気味で、尚且つ悪趣味であるなら、とりあえず無愛想に挨拶するのがレンのやり方だった。
「あら、ずいぶんと言ってくれるじゃない。私はあなたのことを何でも知ってるのに」
心なしか、馴染みのある澄んだ声だった。そのにごり無き声で、女はレンの態度をあざ笑い、挑発に近い言葉を放った。その女の言動に、レンは怪訝そうな顔を覗かせた。そして女は、ジェオの背後からこっそり顔を出すディルを見つめた。
「久しいわね、ディル・ナックフォード。私からのメッセージ、読んでくれた?」
親友に語りかけるような朗らかな口調で、女はディルに話しかけた。ディルはどうして自分の名を彼女が知っているのか疑問に思ったが、問い詰めようとはしなかった。それに、あの言葉の意味はディルにしか分からないはずだ。あの日のことは、まだ誰にも話してはいなかったのだから。今はそちらを優先すべきだろうと、ディルは判断した。
「何だ、ディル。知り合いだったのか?」
後ろ手でディルを引きずり出しながら、ジェオが間の抜けた声で聞いた。
「一度だけ、ここですれ違ったことがあったんだ。そのすぐ後、僕の腕に文字が刻み込まれた……『お前たちの企みは全てお見通し』って。次の日にはもう消えてたけど……」
女を真正面に見上げながら、ディルは言葉を続けた。レンやジェオが思う以上に、この行動は勇気が必要とされるものだった。
「あの文字は、あなたが僕に送ったものだったんですね。まるで、僕たちの全てを知っているとでも言いたげな文章でしたけど?」
今にも震え出しそうな両足が、一刻も早く女の前から退きたいと望んでいるかのようだった。女の中に眠る邪悪な心が、その灰色の瞳を通じてディルの心にじわじわと浸透してくる。
「あれはヒントだったのよ」
全身に染み込むような、女の繊細な声が言った。
「どんな物語にも、謎を解くヒントが隠されているでしょう? あなたたちはそのヒントを辿って、私の想像したように動いてくれればそれでいい。あなたたちは、私の物語に出てくる重要な登場人物なんだからね」
レンは数歩前進し、女との距離を縮めた。ディルはレンの行動に反発するように、数歩後進し、ジェオの横に貼り付いた。
「あんたのその自己中心的な考え、カエマ女王にそっくりだな……さっさと名乗ったらどうなんだ?」
レンは女の態度にイライラしているようだった。いつものレンらしくない、とディルは感じていた。嵐の中でカエマと戦った、あのがむしゃらなレンに似ている。
「まあ、もうお気付きじゃないの……」
女は右手を額に当て、そのまま振り下ろした。するとそこには、カエマ女王の美麗な顔立ちだけが赤いドレスの上に存在していた。目は灰色ではなく、コバルトグリーンに輝いているし、髪の毛は漆黒の黒髪だ。カエマ・アグシール、その人であることに異論はなかった。