十二章 再会と逃亡 5
突如、目の前に広がった美しい風景に、ディルはおろか、ラフェリやジェオさえも、一瞬にして心を奪われてしまった。東にそびえ立つ大小の連山を上空から見下ろし、南ゲートは家の戸口のように小さく、西の田園地帯からは様々な種類の作物が色鮮やかに顔を覗かせている。北にそそり立つヴァルハート城に至っては、いつもより華麗に、且つ壮大に見える。遠くを見渡せば、無限に広がる快晴の青空が視界を青に染め、下を見渡せば、ありんこのように小さな大衆が、町全体でかすかに動いているのが確認できる。風は穏やかで、空気はより美味しく、雷のようなエンジン音を除けば、そこはまさに楽園のようだった。
「すごいよ、レン……僕たち飛んでる」
視力の限界を尽くし、そこから見える全ての物を見ておこうと、ディルは勝手に張り切っていた。どうしてこんな状況になってしまったのか、すっかり忘れてしまっていたのだ。
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃねえの、レン。何でこんなことした?」
ガタガタと不吉な音を奏でるホワゾンドープを町の上でぐるぐる旋回させながら、ジェオがやぶから棒にレンを問い詰めた。
「展覧品を魔法で盗み出すなんて、魔法使いとしては最低の礼儀よね」
座席の背に額を押し付けたまま、ラフェリがくぐもった声で追い討ちをかけた。
「盗むだなんて、人聞きが悪いなあ……後でちゃんと返すさ」
レンはぶつぶつと情けない声で独り言を発した。
「そもそもの原因は、魔法戦士部隊が俺をしつこく追い回して来たからなんだ。おかげでルーシラとははぐれちまったし、せっかくのお祭りが台無しだぜ」
ディルが身を乗り出し、町を眼下に眺めた時だった。何かがこちらに向かって飛んで来るのが見える。大きな灰色の翼を背に備えた、黒っぽいものだ。
「あれ何だろう? ……鳥じゃない。ほら、あそこ、こっちに近づいてる!」
ラフェリ以外、全員が機体の下方を見ようと身を乗り出した。ディルの言うとおり、謎の飛行体がこちらに近づいて来るのが見える。しかも一つではない。数え切れないほどの大群だ。
「操縦は任せたぜ、ジェオ! ディル、大人しくしていろよ! あいつらは俺が相手してやる」
レンはローブの袖を巻くし上げ、臨戦態勢に入った。ディルはそのすぐ後、あの謎の飛行体が魔法戦士部隊だったことに初めて気付かされた。というのも、その一人が鎧の背面から突き破られた大きな灰色の翼を羽ばたかせ、ホワゾンドープのすぐ脇まで浮上してやって来たものだから、嫌でも気付かされてしまったのだ。
ジェオはその一人をうまくかわし、レンが攻撃しやすい位置まで機体を移動させた。ジェオの操縦は、初心者とは思えないほどの腕前だった。敵を惑わせるために急降下したり、旋回を繰り返したりしては、器用な操縦桿さばきを披露してくれた。
ディルは、レンが着用中のローブからアーガイル模様の赤い刺繍をペロリと剥がしたのを見落とさなかった。
「赤は火炎」
レンは、手の平に乗った赤い刺繍に向かってそう呟いた。すると、ただの布切れだった赤い刺繍が突然大きく燃え上がり、そのまま標的に向かって凄まじい勢いで発射した。炎は戦士の一人を直撃し、その灰色の大きな翼を跡形も無く燃やし尽くした。戦士はまっ逆さまになって地上へ落ちていった。
「赤は発狂した太陽」
そう呼びかけると、次の刺繍は赤い小さな球体になり、やがて太ったカボチャほどの大きさまで膨れ上がった。そして、それは何かに取り憑かれたように暴れだし、敵の群れの中に突っ込んで行った。真赤に輝く小さな太陽が、戦士たちを地上に叩き落そうと暴れ回っているのが見える。
「赤は爆発」
レンは、一度に五枚の刺繍に向かってそう言い聞かせた。赤い刺繍たちは風に舞って空中にばらまかれたかと思うと、次々と激しい爆発を引き起こした。濃い黒煙と閃光が辺りを包み込み、轟音が国中に反響したように感じた。
まだ爆発の衝撃が体中に残っている時、ディルの足下で活発に羽ばたき続けていた右翼に何かが絡み付き、その運動を完全に殺した。それは、戦士たちが手にしていたあの長い杖だった。異常な長さに伸び切った杖は黒煙の中から続いており、先端は枝のように柔らかくしなってぐるぐると翼に巻きついていた。
「レン! 翼が……」
ディルが伝え終わらないうちに、機体は大きく右に傾き、地上へ向かって急降下を開始した。ディルは必死の思いで座席にしがみつき、ラフェリは突然の事態に悲鳴さえも出せないほどだった。ディルには、機体を何とかして立て直そうと、操縦桿と格闘しているジェオの姿しか見えなかった。
落下し続ける機体の上でも、レンは少しの動揺も見せなかった。すぐさまその原因を突き止め、ピクリとも動かなくなった右翼に優しく言葉をかけた。
「お前はよくやった。だけど、もう少しがんばってくれないか? あいつらを振り切るだけの力が俺にはないんだ」
レンはもう一度、両手を翼の上にかざし、誰にも聞き取ることの出来ない小さな声で呪文を繰り返し呟いた。
「レン! 駄目だ、間に合わねえ!」
ジェオの喰いしばった歯の隙間から、絶望的な叫び声が上がった。その時ディルが目の当たりにしたのは、西に広がる田園地帯だった。耕された畑と色あせたあぜ道が、落下し続けるホワゾンドープを待ち構えているかのようだった。
「よし、復活!」
ディルの足下から、右翼が再び動き出したことを告げる、高らかな羽音が聞こえてきた。機体は地上すれすれでバランスを取り戻すと同時に、絡み付いていた戦士の杖をバラバラに引き裂いた。杖にしがみ付いていた戦士が、切り離された杖と一緒に畑の中に突っ込んでしまった。
「これだとキリがないな。……こいつを乗り捨てて、一旦アジトに引き返そう」
着陸の際も、ジェオは操縦士らしい腕前を実演してみせた。酒場の裏の路地に機体をうまく滑り込ませ、降下の勢いを利用して急ブレーキをかけたのだ。すっかりくたびれてしまったホワゾンドープは、機体の底から火花を立ち上げ、しばらく石畳の上を滑走した後、完全に停止した。
「まったく、厄介な奴らに付きまとわれたよな」
一言も口をきかないラフェリを抱きかかえながら、レンが憂鬱そうに言った。ジェオは「ひどい巻き添えを喰った」とカンカンに怒っていたが、ディルが操縦のことを褒めると、嫌なことを全て水に流してしまったような、爽快な笑顔に変わった。
表通りとは打って変わり、路地は異様な静けさに包まれ、また、冷たいそよ風が流れていた。だが、昼下がりの暑さを忘れさせたのは、その陰気な雰囲気だけではなかったはずだ。女性の冷たい灰色の瞳がディルたちを見つめていたからこそ、首筋が凍ったようにひやりと冷たく感じたのだ。
とっさに振り向いたディルの目の前に、あの女性が立っていた。