十二章 再会と逃亡 3
ディルは大股で前進し、歩み寄る兵士の道を妨げた。見覚えのあるあごひげが、ディルの中の記憶を呼び起こしてくれた。
「ショーダットさん……お久しぶりです」
ショーダットはディルの顔を覗き込むと、ばつの悪そうな表情でため息をついた。クリーム色の綺麗な兜が、攻撃的な太陽の陽射しに当たって眩い輝きを放っていた。
「久しぶりだな、ディル・ナックフォード。カエマ女王の演説日以来か……。あれから一度も姿を見せなかったみてえだが……そうか、元気そうで何よりだ」
ディルはうなずいただけで、何も答えなかった。まだ、ショーダットがなぜディルとラフェリを監視していたのか、その理由が分からなかったからだ。
「ところで、ディル。俺たちはお前の連れてるかわいいお嬢さんを迎えに来たんだ。素直に引き渡してくれねえか?」
ディルはやはり何も答えなかったが、数歩後ずさりして、その答えが『いいえ』であることを告げた。ショーダットのばつの悪そうな表情に、更に拍車が掛かった。
「これはカエマ女王からの命令なんだ。命令に逆らった奴は全員殺されちまう。ディル、おめえだって例外じゃねえんだぞ」
ディルは、不安そうにこちらを見つめるラフェリを自分の肩越しに見つめた。そして、ラフェリとの誓いを糧に、鞘から剣を抜き取る勇気を奮い起こすことができた。刃先をショーダットに突きつけると、その光景を目の当たりにした通行人たちがざわざわと騒ぎ始めた。
後ろで待機していたもう一人の兵士が異変に気付き、同じく剣を構えてディルの前に現れた。ショーダットがディルを落ち着かせようとまくしたてているのが聞こえる。
「もう手遅れなんだ」
ディルは静かに言った。
「僕は、あなたにこうして剣を突きつけたように、カエマ女王にも同じことをした。僕はこの国の反逆者だ。大切な物を捨てきれない、弱い反逆者なんだ……」
ディルは剣を構えたまま、靴底を地面から離すことなくじりじりと後退した。ショーダットの驚愕し切った表情は、数ヶ月は忘れることができないほど印象的なものだった。
「誰も傷つけたくない……もう、傷つきたくない」
とっさに、ディルは剣を鞘に戻し、踵を返した。そしてラフェリの手をつかみ、一気に階段を駆け上り、ゆるやかな坂道を全力で走り抜けた。ここまでの行動があまりに俊敏すぎて、ディルの頭の中にはほとんど記憶が残っていなかった。ただ、ラフェリの手を握って走っていることや、すぐ後ろから二人の兵士が恐ろしい形相で追いかけて来ていることは、はっきり自覚できていた。
「どこへ行くのよ!」
ラフェリが声を枯らしながら叫んだ。
「天の川通りへ行こう! 人ごみに紛れ込めばきっと逃げ切れるよ! ……まずい」
ディルは絶句した。ディルとラフェリの行く手に兵士が三人、警備に当たっている。
「そこの二人を捕まえてくれ!」
後ろからショーダットのしゃがれ声が弾丸のように飛んできて、ディルたちを追い抜いて行った。気付いた三人の兵士が、我先にとこちらへ突進してくる。正面衝突する寸前で、ディルはとっさに左へ進路を変えた。その勢いで、汗ばむ手からラフェリを離してしまうところだった。
ディルが逃げ込んだのは、陽射しさえも届かない薄暗く狭い路地だった。ここを抜ければ、天の川通りはすぐそこだ。
「もうダメ!」
ラフェリが悲鳴を上げた。ディルもとっくに体力の限界だったが、ラフェリのことを思うと、走らずにはいられなかった。ラフェリとの誓いも守らず、ここで根を上げるわけにはいかない。
ディルは、路地に反響する七人分の足音が耳から遠ざかっていくのが分かった。仮面窃盗団を追いかけた時と同じ症状だ。だが、あの時とは状況が違う。今のディルには、守るべき人がいる、ラフェリのために、走らなければならない理由がある。
ディルは無我夢中で走り続けた。路地を抜け、天の川通りにごった返す人々の群れの中に飛び込んだ時、勝利を確信させる花火が青空で何度も炸裂した。憩いの広場にあるベンチの陰に身を隠した二人は、その場にどさりと崩れ落ちた。二人の頭の中は真っ白で、目玉がひっくり返りそうなくらい視界が不調だった。荒呼吸の繰り返しで、肺が破裂しそうだった。
「もう……もう! 私が何したっていうのよ……」
ラフェリが息を切らしながらかすれた涙声を発した。
「でも、もう大丈夫みたいだよ」
ディルは周辺を見回し、兵士たちが二人を完全に見失ったと悟った。辺り一帯、めかし込んだ人々が様々な荷物を手に持ち、楽しげに歩いている姿しか視界に入らなかったからだ。天の川通りはディルの予想通り、集まる人も多く、路上屋や露店の数も他の通りより群を抜いて多かった。
二人の呼吸がようやく落ち着きを取り戻し、ディルがこれからどうしようかと考え始めた矢先のことだった。賑わう天の川通りの一角で、人々が不吉なざわめき声を上げ始めた。ガヤガヤと騒々しい盛況ぶりの中でも、そのどよめいた声ははっきり区別することができる。通りに集う人々の表情が、段々と不安気な顔色に変わっていった。
「何だろう?」
ディルはベンチの背もたれ越しにひょいと額を覗かせ、辺りを見回した。すると、東の野菜市場の方角で、群がった人垣が次々と割れていくのが見えた。今しがた広々と築かれたその何もない空間に、迅速かつ、堂々と現れたその者たちを見て、ディルは生唾をごくりと飲み込んだ。
闇を象徴するような漆黒の鎧が全身を包み、左手には黄金の派手な刻印が彫られた盾を、右手には竜の目を象る、真紅の宝玉がはめ込まれた長い杖を持っている。頭部を包み込む兜には銀の一角が力強く生えており、赤のたてがみが威圧的で攻撃的な印象を見る者全てに与えていた。全部で五人、『南十字祭』にはあまりにそぐわない人物たちが、天の川通りに姿を現した。
「ドラートラック国で召集された魔法戦士部隊だよ。……何でここにいるんだろう?」
「あいつらも私を探してるんじゃないでしょうね?」
ディルを盾に身を縮ませながら、ラフェリが小声で聞いた。
裏で世界の悪党を牛耳るキングニスモを手駒にしたほどだ。ラフェリを捕まえるために、カエマが一流の『魔法戦士部隊』を一ダース呼んでいてもおかしくはない。ディルはもう一度、慎重に魔法戦士たちを窺った。内の一人が、目を鋭くぎらつかせて周囲を見回している。全員ががっちりとしたたくましい体を持ち、やがてその巨体をピタリと密着させると、一つの壁のようになりながら再び移動を始めた。どうやら、ただの巡回ではなさそうだ。
「私だって本気を出せば、あんな人たちすぐにやっつけられるのに」
魔法戦士たちの背中に向かって握り拳を振り上げながら、ラフェリが悔しそうに言った。魔法戦士部隊が、ディルたちの隠れている憩いの広場のそばを通り過ぎた直後のことだった。二人の元に静かに歩み寄って来たのは、一人のヴァルハート兵士だった。ディルはとっさに、ラフェリを後ろへ押しやり、剣を抜こうと手を伸ばしたが、兵士の方がよほど早かった。兵士は鋭い刃先をディルの頭に突きつけ、「立て」と静かに命令した。二人は素直に従い、互いに不安と恐怖の入り混じった表情を見合わせた。
兵士は剣で脅し続けながら、二人に前を向かせ、背中を軽く押して「歩け」と命令した。ディルは絶体絶命だと観念していた。国の反逆者が城に連れて行かれ、生きて帰れるはずがない。ラフェリとの誓いも果たせなかった……ラフェリはこれからどうなるのだろうか? ラフェリの青ざめた顔を見ていると、悔しさで胸がいっぱいになった。
「悪いな、ディル。追われてるんだ……しばらくこのまま従ってくれ」
さりげなく剣をしまい込みながら兵士が言った。その言葉に、ディルは思わず兵士を振り返ったが、手で頭をわしづかみされ、強引に前を向かせられた。
「レン……レンなの?」
ディルは小声で確認したが、返事は返って来なかった。だが、レンに間違いはないはずだ。前髪がレンと同じ赤色だったし、決定的な証拠は左目が青かったことだ。
「なあに? 知り合いなの?」
腹立たしげに、ラフェリも小声で質問した。ディルは自然とこぼれ出る笑顔でうなずいた。ラフェリは「心配して損した」と呟いたが、ディルにとっては舞い踊りたくなるような喜ばしい結果だった。それにしても、レンはどうしたというのだろうか? 三人はゆっくり少しずつだが、南ゲートの方へ向かっていた。その様子を端から見れば、親の手から離れてしまった迷子を兵士が引率しているように見えるだろう。
「おっと……二人とも、そのまま歩き続けてくれよ」
兵士は、ディルとラフェリの肩をそれぞれつかみ、徐々にその手に力を入れていった。すると突然、進行方向の人ごみがパックリ割れ、そこからさっきとは別の魔法戦士部隊が五人、さっそうと姿を現した。角の色が金色に変わっていたので、一目見ただけではっきりと区別がつく。ディルもラフェリも、驚きのあまりその場で立ちすくみそうになった。だが、兵士は尚も強引に肩を押し続けるので、二人はいやおうなしに歩かされ続けてしまった。体内の歯車が狂いそうだ。
「ごくろうさん!」
兵士は陽気に挨拶し、壁のようにそそり立つ部隊の脇をせっせと通り過ぎようとした。ディルは、自分の三倍は大きな体格を持つ戦士一人一人が、少しずつ遠ざかって行く姿をしばらく眺めていた。すると、戦士の一人が手に持った長い杖を地面に勢いよく突き立てるのが見えた。その瞬間、杖が地面に刺さる木製の音と、鳥肌を跳ね上がらせるような高音がディルの鼓膜を貫いた。いや、おそらく天の川通りにいた全員の内耳に衝撃を与えたに違いない。そう思わせるほどの高音が通りに反響し続けたのだ。
次の異変が現れたのは、それからすぐ後だった。地面に敷いてある石畳の隙間からオレンジ色の光が漏れ出し、足元を明るく照らし出した。ディルは、自分の肩にある兵士の腕全体が、軍服から赤と白の派手なローブに変わっていくのを見逃さなかった。それと同時に、兵士の体から火花がパチパチいいながら飛び散った。やがて兵士は、レンへと完全に姿を変えた。