十二章 再会と逃亡 1
無論、キングニスモがこの国からいなくなっても、南十字祭が終わることはない。天の川通りへ近づくたびに、更に賑わいを増していく町の様子を見ていると、ディルの中では虚しさばかりが広がっていった。たったのもう一度、彼らと少しでも話せる時間があるとしたら、ディルはその絶好の機会を逃すことはしなかったろう。そうすれば以前のように、大きくすれ違いながら生きることもなかったはずだ。今は、少しだけ彼らとの間を縮めることが出来た。それが何よりも喜ばしいことなのかもしれないと、ディルはそう自分に言い聞かせることにした。
それは、天の川通りから2ブロックほど離れた通りを歩いていた時のことだった。パン屋の大きな窓に映る青い瞳を輝かせる少女を見て、ディルは思わず足を止めた。あの青い瞳は、レンとルーシラの瞳と全く一緒の輝きを放っているのは確かだ。毎日見ているから、嫌でも覚えることが出来る。底の見えない深海を思わせるような、あの群青色の瞳だ。
そしてその女の子に、ディルは見覚えがあった。時間をゆっくりとさかのぼりながら記憶を辿っていくと、やがて、天の川通りにある『憩いの広場』がはっきり浮かび上がった。次はキングニスモ、次はカメと小ネズミ、次は……その動物たちを眺める青い瞳の女の子。まさに今、ディルの視線を釘付けにしているその女の子だった。
前に出会った時と同じ、赤い派手な帽子をかぶっているのが分かる。かなり熱心なのか、女の子はディルに気付かず、すごい剣幕でガラスのショーケースに並んだパンとにらめっこしていた。
ディルはとっさに、店内に入り一緒に並んでパンを眺めようと、そう決意した。複雑な理由も、言い訳もいらない。ディルはただ、そうすべきなのだと判断したのだ。
扉を押し開け中に入ると、パンの香りがディルの嗅覚と食欲を同時に刺激した。赤レンガ造りの丁寧に作られた壁には絵画がいくつか飾られており、どれもパンが主役だ。丸い掛け時計はロールケーキのように、外側から内側にかけてチョコレート色の太い線と細い線が渦を巻いている。奥の中央の壁には大きくてしっかりと頑丈そうな板材に『ジュ・パロ』と黒ペンキで描かれた、店名らしいものが堂々と吊り下げられている。
ディルはたくさんのパンに取り囲まれていることにふと気付いた。そう広くはない店内には数え切れないほどのパンが陳列されており、棚に並んでいるものや、バスケットの中に山積みにされているもの。ディルの背丈ほどある長いパンは、なんと天井から紐でぶら下げてある。
ディルは様々なパンに目を奪われながら、女の子のすぐ横にピタリと貼り付いた。しばらく一緒に並んでパンを眺めていたが、女の子は全く気付く気配を見せない。
「おいしいよ、おいしいよ。一度食べたらまた食べたくなるおまじないをかけてあるからね!」
奥の戸口から、大きなバターロールにも負けないくらいふっくらしたおばさんがのそのそやって来て、大きな声でそう言った。ディルが初めて来店した客だと悟って、そう言ったに違いない。
「おばちゃん! くるみパン一個ちょうだいな!」
女の子が突然、大声でそう言ったので、ディルは飛び上がった。女の子は多々あるパンの中から一つを指差し、母親にねだる幼児のようにおばさんのエプロンをぐいぐいつかんだ。
「おばさん、おまじないができるの?」
ディルが不思議に思ってそう尋ねると、二人は同時に振り向いてディルを見つめた。おばさんの小さな瞳と、女の子のビー玉のように青く輝く瞳をディルは交互に見つめた。
「あらあなた、丘屋敷に住んでるナックフォード家の跡取り息子じゃない。お久しぶりね!」
女の子が明るい笑顔でそう言ったので、ディルはほっとした。内心では、忘れられていたらどうしようかと不安に思っていたからだ。
「おまじないかい? ああ簡単さ。練習すればみーんなできる」
おばさんは答えると、エプロンのポケットから紙袋を取り出し、手の平大ほどのくるみパンを一個、その袋に詰め込んで女の子に手渡した。女の子は手馴れた感じで銅貨を四枚おばさんに渡すと、すぐにパンを取り出して小さくかじった。
ディルはそれを見て、ビスケットとチョコレートでは朝食代わりをまかない切れていないことを改めて実感した。今にも胃が情けない悲鳴を上げそうだった。
「おばさん、パラポの実のジャムサンド一切れちょうだいな」
たくさんあるパンからは選びきれず、結局一番そばにあったサンドイッチを一切れ買うことにしたディルは、女の子の真似をしてそう言った。おばさんはまたポケットからこげ茶色の紙袋を取り出し、陽気にヒョイと一切れ詰め込んだ。その様子を見ていた女の子が、パンにかじりついたまま動かなくなったので、ディルはとっさに「どうしたの?」と尋ねた。
「ナックフォードの屋敷の人は、牛の肉しか食べないって聞いたわ」
ディルは少し困惑して首を横に振った。
「違うよ、それは違う。誰だい、そんなこと言うの」
おばさんは紙袋をディルに手渡すと、片方の手を差し出してピタリと止まった。ディルははっと思い出して、ポケットから金貨を一枚取り出した。
「まあ! 金貨!」
女の子がまた金切り声を上げたので、ディルの耳の中はしばらくキンキンうなっていた。
「あたしのママったら、金貨を持つのはまだ十年早いって言うのよ!」
女の子がしつこくキーキー声で話したせいで、ディルは肩をすくめて我慢しなければならなかった。おばさんはおつりの銀と銅の硬貨をジャラジャラとディルのポケットに入れてくれた。ディルはふと、紙袋が温かいことに気付いた。
「それにはパンも人も温まるおまじないをかけておいたからね。南十字祭限定の特別なおまじないさ」
おばさんが言い終わるか終らないかするうちに、集団客が来店したらしく、店内は一時ガヤガヤとうるさくなった。来店した人たちはみんな、おばさんと同じくらいの年かさで、どうやら知り合いらしかった。大きなカーキ色のリュックサックを背負い、泥まみれのブーツを履いた体格の良い男性客がおばさんに気付いて話し掛けてきた。
「ヘッダさん、ご無沙汰で。ラスは元気でやってるか? へこたれてねえか?」
「おかげさまで。ラスベルは三ヶ月ほど前に西の国へ修行しに行ったきりさ」
それを聞いた客達は、歓声を上げながら拍手したり、祝いの言葉を口にしたり、昔話を語り出したりした。それからおばさんは、『手紙が一度も来ないのよ』だとか『あの国は荒くれ者が多いから心配でならない』だとか、散々悩み事を客のみんなに話して聞かせていた。