十一章 南十字祭 1
再び青々とした空を眺めることが出来たのは、それから二日も後のことだった。嵐が過ぎ去るのを待つ間、ディルはカエマとのやりとりをみんなに話して聞かせるのに、残っていた体力の全てを費やしてしまった。
しかし、その見返りは十分にあった。レンからはうるさいほど褒められたし、アルマは「奮発して、豪勢な料理を用意するわ」と意気込んだ。空にようやく晴れ間が広がったその日、ジェオは船の修理作業中のユンファを促し、「勝利の祝いだ。巨大魚を釣り上げるまでは放さないからな」と嫌々な態度のユンファと釣りに興じていた。
「無論、ユンファは途中で逃げ出したんだから、これくらいの謝礼は当然だろう」
いつものように、指先でくちひげの手入れをしながら、ジェオはユンファに笑いかけた。
だが、キングニスモはおろか、あの魔女・カエマをも倒せたことを、みんな未だに信じきれないでいた。絶対に勝てる見込みのない戦いに勝利できたことを、みんなが口を揃えて『奇跡』と呼んだし、『反・カエマ派』に不可能なことなどないとさえ思えた。嵐の中の戦いは、ディルたちに素晴らしく価値のあるものを残してくれていたのだ。
今年の六月は、生涯において最も忙しい時期になるだろうと、ディルは覚悟していた。その理由の一つに、アジトの修理作業というものがあった。キングニスモの戦艦から放たれた砲弾が、船尾を木っ端微塵に破壊し、マストの一本を見るも無残な姿に変えてしまったのだ。四人分の男手があっても、これは難易度の高い作業だった。というのも、レンが魔法を使って修理することを頑なに拒否し続けるため、作業が難航していたのだ。三人の男たちは木づち片手に、困ったように顔を見合わせて首をかしげていた。
「レンさんが魔法を使ってくれると、大助かりなんです。二日もあれば終わりますよ」
ユンファは踏ん切りのいかない様子で、レンの背中に向かって説得を繰り返していた。
「使わなけりゃ一ヶ月だな」
マストの残骸を悲哀な表情で見つめながらジェオが吐き捨てた。船尾の壊れ具合を確認していたレンが、しかめっ面で振り返った。
「この船は俺たちの兄弟だ……いや、家族だ。魔法を使うわけにはいかない。俺たちの手で、ちゃんと直してやりたいんだ」
ディルたちが修理に精を込めている間、ルーシラとアルマはよく城下町へ出かけていた。ルーシラは例のごとく『ラフェリ探し』だったが、アルマは修理の材料を低価格で購入するのに町中を駆け回り、店員に長々交渉しては定価の半分まで値切っているらしかった。
「ディル、アルマを手伝ってやってくれないか?」
額の汗を拭っているアルマを見かねて、床板の破片を片付けていたディルにレンが一声かけた。ディルは瓦礫の山を飛び越え、船首の肘掛け椅子で休息しているアルマの元へ駆け寄った。
「あとは何が必要なの?」
カチューシャで前髪をかき上げながら、屈託した顔つきでアルマが聞いた。
「カシの木の板材と、釘をもっとたくさん。それと、木づちを一つ……ジェオが壊しちゃったんだ」
ディルは説明し、重い足取りのアルマと一緒に城下町へ向かった。船尾が破壊されると同時に、ボトルシップの置いてある倉庫にも影響が及んでいた。普段、陽の光を浴びることのない倉庫は、暗くてやたらとほこりっぽかったが、現状は、全く別の空間を思わせる姿に変わっていた。天井の半分は抜け落ち、一畳ほどの床に木くずの山が完成し、書棚の一つが倒れたせいで、倉庫中のほこりが躍起を起こしたように舞い上がっていた。
倉庫が片付くまで、町と船との唯一の移動手段であるボトルシップは、飯屋の暖炉の上に避難させてある。
このボトルシップを使って町へ足を運ぶことが、ディルにとってはちょっとした楽しみの一つでもあった。海を眺めながらの読書や、カモメの鳴き声を聞きながらの日向ぼっこも悪くないが、ディルにとってはやはり、魔法を見たり使ったりすることは、他のどんな物事より好奇心を掻き立てられることなのだ。
「魔力を悪用するなんて、絶対に許せないよ」
ボトルシップの前ですでに待機していたルーシラを見つけるなり、ディルはそう呟いた。ディルにとってカエマとの一戦は、心に色濃く残された刻印のようなものになりつつあった。あの音が、あの光景が、あの匂いが、ディルの心に焼きつき、あの日から一時も離れることはなかった。やろうと思えば、いつでもその時の記憶を鮮明に甦らせることだってできる。
「ディル、あなた変わったわね」
ルーシラの澄み切った声が言った。
「僕が?」
ヤリで刺すように、ディルはぶっきらぼうに聞き返した。ルーシラはそれ以上何も言わず、またそれはアルマも同じだった。
最初にルーシラ、次にアルマがボトルシップの前から青白い光を放って姿を消すと、ディルもすぐに後を追った。ビンの中で気持ち良さそうに揺れている帆船を眺めていると、ディルは一瞬、全身がふわりと宙に浮くのを感じた。気付くと、目の前は薄暗く、肌寒い酒場の地下室に変わっていた。
「カエマ女王への思いなら、少しは変わった気がする……」
ディルは、ボトルシップの中のボロボロに朽ち果てた帆船をあちこち見つめながら、そう呟いた。小人のような姿のレンとジェオが、デッキの上で黙々と作業している。どうやら、この帆船の模型はアジトそのものの姿らしい。
「別に、そのことが悪いって言ってるんじゃないのよ」
倉庫への階段を登りながら、ルーシラがようやく言葉を発した。ディルは、船尾の大穴からユンファが這い登って来たのを見届けると、すぐに二人の後を追った。